阿房宮とともに人民を苦しめた労役のおかげでできたのが秦始皇帝陵だ。紀元前221年に中国統一を果たした秦始皇帝は、その絶大な権力を永遠のものにするため、13歳で即位したのと同時に陵墓の建設を開始、36年もの歳月をかけて完成した。
背山臨水の地形に皇帝陵
秦始皇帝陵は西安北東30kmの驪山(りざん)北側にあり、地勢や風水思想(背山臨水の地形)に基づき南側に山地をもつ現在地に選定された。陵墓の周りには副葬墓などの墓が400以上あるが、世界遺産として有名な兵馬俑坑も始皇帝の埋葬に伴う副葬品である。陵墓領域全体の面積は55.25万㎢もあるが、56万㎢として驪山を含め7㎞×8kmの範囲(グーグルアースの地図上)で区切ってみたが、一皇帝の墳墓領域としてはとてつもなく広大だ。123基(陪塚含む)の古墳で構成される古市古墳群(4㎞×4㎞)のざっと3.5倍もある。始皇帝の陵墓自体の大きさは東西345m、南北350m、ピラミッド型の土塁で高さ76mだったが、長年の浸食で頂部は丸くなっている。陵墓は、『史記』によると地下宮殿のようだと記されているが、その構造や内部の環境が不安定であること、また揮発性の高い水銀が使われている可能性があることから、意外なことだが、発掘は今だにされていない。



上左:西安市内中心部から秦始皇帝陵まで直線で30㎞(Google Earth) 同下:秦始皇帝陵区重要遺跡分布図 右:56㎢(7㎞×8㎞)とした場合の皇帝陵墓領域の想像範囲(Google Earth)
陵墓を中心とした陵園・麗山園は1km×2km程度あり、急ぎの旅では歩いてはいけないので、カートに乗せられる。どれが陵墓かわからぬまま園内を一周したのだった。古代史探検家としては不本意なことで、この足で墳頂に立ってみたかったのだが・・・・・・。
上左:カートから見た皇帝陵墳丘(盛り上がっているところが墳頂?) 同右上:麗山園入口 同下:陵園で内は墳墓へ上る人も多い 下左上:内城と外城を区切る城壁後 同下:世界遺産登録記念の石碑 同右:秦始皇帝陵園の全景図を説明するガイドの高さん
秦始皇兵馬俑博物館
始皇帝陵の東1.5kmほどのところに、副葬品の一つとして兵馬俑坑がある。死後の秦始皇帝を守るため地下に配置されていて、敵国のある東を向き、整然と隊列を組んで並んでいる。戦車が100余台、陶馬が600体、武士俑は等身大で8000体近くある。表情、髪形、衣服のどれひとつとして同じ形のものはなく、始皇帝の軍団が広範な民族の混成部隊であったことを窺わせる。1974年、地元の農民が井戸を掘っていて偶然見つけた陶器の破片が兵馬俑坑発見のきっかけに、20世紀最大の発見になった。発見される時はほとんどが壊れていて、それを再現し同場所に設置するという気の遠くなるような作業が続いているのだが、まだ全体の3分の1程度しか発掘されていないという。中国人もかなり几帳面で辛抱強いのだな、と感嘆もする。



上左:始皇帝量から兵馬俑博物館までは、約1.5㎞(Google Earth) 同右:北2号門から入り、カートに乗って入口ゲートへ。陳列庁・1・3・2号坑の順に観て回った 中左上:北2号門の看板、この枯れた書体に見ほれた 同下:カートに乗ってゲートへ 同右:北2号門広場にデーンと立つ秦始皇帝像 下左:北2号門前の混雑 同右:ゲートに並ぶ長い列
自動車道の道端で降り土産物屋や飲食店が並ぶ通りを700mほど歩き、入場門かと思った北2号門、秀筆の「秦始皇兵馬俑博物館」の看板に見ほれたが、そこを通るとカートに乗せられ、さらに700mほど林の中を走り、やっと入場口に並んだ。私の眼には満員で混雑していると見えたが、ガイドの高さんによれば今日はまだ空いているという。国慶節や旧正月などの国民の休日にはこれの数倍の人が来るのだろう。アプローチを長くすることで入場者を細切れにしていき、混雑を避けるということなのだろう。中国はやはり恐るべしだ。
間近に兵馬俑を見る
1号坑から3号坑まであるのだが、順序を無視し、兵馬俑発見50周年を記念して改装された陳列庁をまず観るという。代表的なものが展示され、比較的すいていて(これで?)何より間近に見ることができたので、この選択は正解だった。立膝で弓を引く兵士、力が入った体をひねっているその微妙な背中のゆがみがなんともリアル。私より大きな直立する兵士の頑丈そうな体つきが迫ってくる。モンゴルから来たのだろうか、中学時代フビライハンとあだ名された私の顔に似ていて親近感を覚える。醤油顔のチベット系、穏やかな表情の戦車の御者、遠くを見つめる孤独な眼、それぞれの顔付きは違っている。説明する現地中国人女性のきれいな顔も間近に見られて嬉しかった。
ゲートを入ってすぐ右方に陳列庁があり、主だった兵馬俑を間近で見られるようガラスケースに入れ展示してあった。上から3段目の弓を構える兵士、膝を立てひねった体の表現がリアルで、躍動感があった。兵士の表情はどれも厳しいものがあるが、下段の3頭の馬を御する兵士には、微笑と言ってもよい穏やかな表情があった
まだ発掘中の兵馬俑
続いて1号坑へ。巨大な体育館といった建物、歩兵の俑が圧倒的な数で並ぶ一番人気の展示場。四周に見学場を設けているが、前向きの場面を見られる場所では、より近くで見たいと押すな押すなの大混雑。ちょっと空いた隙を狙って、写真をパシャッと撮って次交代というふうに、少しずつ進んでいく。後列あたりまで行くと混雑もましになって、横向きの整列が見られる。最後部には発掘当時のままだったり、修復中のものが横たわっていたりする。まだまだ発掘途中なのだ。
体育館のような巨大な展示場の1号坑。正面から右側面へと回っていく。圧倒的な数の兵馬俑に驚くとともに、側面から細微に見ていくと、それぞれの顔つき、衣服、髪形、体付きの違いが分かってくる。最後部にはまだ修復中の兵士や馬が置かれていた。
1号坑の西隣には3号坑があり、約68体の兵馬俑が配置されている。将校の俑のみで構成されており、司令部としての役割を担っていた。指令室では将校が立って会議をしていたのだが、首のない俑がいくつもある。人物の俑は腕、足、胴体、首などがパーツで作られ、後に組み合わされるということだ。壁を隔てて4頭の馬、それを御す3体の兵馬俑が残っている。馬車は木製だったようできれいに無くなっている。床面には土を焼いたタイルが一面に貼られていたこともはっきりわかる。
3号坑は小規模で、将校など立ちながら会議する風景や4頭立て馬車が出陣する様子を表している。会議に立ち会う兵士には首が外されている俑もあった。床面は平滑で、タイルが一面に貼られている状況が見て取れる。
ゴザをかぶせて埋葬
2号坑では、発掘以前の兵馬俑を埋設する様子も分かる。幾筋かの竪穴を掘り、その穴に俑を並べる。掘られていない土壁間に丸太を通し、その上にゴザをかぶせ土をかけるというやり方で埋設する。土の重みでゴザがたわんでいる様子も見て取れる。そのため兵馬俑たちのいる場所は空洞になっていた。元々は黒、白、赤、青、黄などで鮮やかに彩色されていたが、発掘と同時に酸化が始まり、現在みられるようなグレーに変色してしまった。
2号坑では、発掘された当時の様子を伝える展示になっている。坑を何本も堀り、その穴に兵馬俑を並べ、その上に木を通しゴザをかぶせた状況が良く見て取れる。穴の中には壊れた俑のかけらが積み重なっている
たくさんの兵馬俑を見てきたが、誇張した身振りや大げさな演出、笑うとか怒るとかの感情表情といったものは見られない。このリアルさは、何を意味しているのだろうか。装飾性や感情表現、いわゆる芸術性への意識がまだなかったのだろうか。始皇帝が亡くなった時、兵馬俑を造った技術者・職人などはことごとく殺戮されたという。意外と思われるかもしれないが、始皇帝陵設計者は、後世に発掘されることをあらかじめ予想・期待しており、これらの技術や時代の実態をただただ記録することに努めたのかもしれない。わからないことがまだまだ多い。
