
近年一大変化を被った安堵町に入る。高速道路ができ、大型の工場や物流倉庫、新興住宅地や学校もできた。大和盆地で一番低いところならではの土地対策もある。さまざまな変化を遂げながらも、変わらない聖徳太子信仰とは。古代地形という観点からも、太子道が通るこの地域の風土を見ていきたい。(地図は、安堵町から窪田、吐田の標高の最も低い地域を通り、島の山古墳まで歩いた軌跡・カシミール3Ⅾ地図より)
案山子の聖徳太子
奈良に行くときにはよく使う西名阪自動車道が、太子道を跨いでいる。高架をくぐると風景は一変する。まっすぐな道路が伸びて、両側に大型建築が並び、近代的な都市風景になる。住宅団地、中央公園、中央体育館、中学校、物流倉庫、コーナン等々。それに見合う発想で建てられたかのように、笏を持つ聖徳太子の巨大案山子が稲田の真ん中に立っている。巨大な彫像なら眉をひそめたくなるが、張りぼて状の太子案山子であることにホッとするとともに笑いが出てくる。聖徳太子を愛する地元の気持ちがよく出ているように思う。
上左:西名阪道をくぐると近代的な都市風景に出る 同右上:太子道は西名阪道の高架下をくぐる 同下:左は安堵中学校、右は中央公園 下左上:安堵中学校校舎 同下:グランドゴルフ場 同右:稲田の真ん中の聖徳太子案山子
環濠住宅の中家住宅
案山子公園の角を左に曲がり寄り道する。太子とは直接関係ないが、環濠住宅の中家住宅を見たかった。標識には0.9㎞とある道のり、急ぎはしない旅だが、周りは刈り取り前の稲田が広がるばかりの風景。興味あるところをうろついても疲れを感じないが、ただ歩くばかりの道だと、なぜか膝が痛くなってくる。足を引きずりながらも、なんとか窪田の集落に着いた。角をいくつか曲がって濠の近くまで来たが、中家住宅は工事中で見学不可とのこと、残念。工事の人に聞くと藁ぶき屋根の火災で修復中とか。外周を回ってみると、周りを圧倒するような大きさでなく、濠に囲まれたこじんまりした住宅だった。帰宅しホームページで調べると、中家住宅は二重の濠に囲まれた、大和地方の典型的な環濠屋敷であるとのこと。主屋は万治2年(1659)頃の創建と推定され、新座敷には安永2年(1773年)の棟札が残る。建物の手入れとともに、保存活動のネットワークづくりや見学会や講演会、いろいろな普及活動もされている。
上左:中家住宅入り口 同右上:中家住宅0.9㎞の標識 同下:窪田集落のお屋敷 下左:環濠に囲まれた中家住宅 同右:工事中の中家住宅
2024年7月29日、隣家からの延焼火災で藁ぶき屋根が燃えた。「空気が乾燥し風のある炎天下に隣人は焚き火をし、水をかけず放置していたのでした。今も憤りを感じずにはいられません」と、Facebook投稿者はと強い口調で訴える。クラウドファンディングで修復のめどがついたとのことだが、重要文化財であることの貴重さを認識しない隣家の行いに、部外者ではあるが怒りを感じる。



左:火災前の中家住宅 右上:藁葺き屋根が火災した直後の様子 同下:室内に展示された環濠住宅のジオラマ(いずれも中家住宅のホームページより)
二つの杵築神社
窪田の集落はすぐ南側が大和川で、より川に近いところの道を元の道まで戻ることにする。村中の家は中家に劣らず立派な邸宅が並んでいる。ここだけが300年くらい時間が止まったままの佇まいなのだが、川渕には大阪市浪速区に本社のある東洋紙業奈良工場があったり、いくつかの物流倉庫も並んでいる。じわじわと物質文明が迫ってきている感じだ。
上左:窪田集落、蔵のある農家住宅 同右上:大和川近くにある八王子神社 同下:村はずれにある天神神社 下左:窪田の農家住宅 同右:窪田集落近くには東洋紙業の印刷工場
途中、杵築(きつき)神社という窪田の村社に立ち寄った。大和川の改修工事により昭和35年(1960)にこの地に移転とあり、新しいのである。大和川を越えるには、もう一度村中に戻り常徳寺まで行き堤防道に上がり、橋を渡らなければならない。100m足らずの川幅だが、川筋の彼方に二上山の山塊が見える。橋を渡り向こう岸、川西町吐田(はんだ)に渡り、堤防下を川に沿って東方に行く。こんもりした森が見え、その中に神社があるが、それも杵築神社というではないか。ここも昭和35年にここに移築されたという。
上左:窪田の杵築神社 同右上:杵築神社境内 同下:大和川を渡る 中左:大和川の彼方に二上山 同中:橋を渡り堤防沿いを行く 同右:吐田の杵築神社前の燈篭 下左:吐田の杵築神社 同右:杵築神社拝殿
どういうことか。元は一つで、河川改修のため川を挟んで二つに分かれたということか。実はそうではなく、もともと二つで、川の南側にあった吐田の村社である杵築神社から川の北側に元々あった神社に分霊されたようで、創建はともに平安時代の寿永2年(1183)とされる。
左:窪田の杵築神社 右:吐田の杵築神社
大和川はこの付近で大きく蛇行していたため、川の氾濫で絶えず洪水が起こり、昭和35年に川筋をまっすぐにする大改修が行われた。南側の杵築神社は現在地より西南西200mの川底にあった。一方北側の杵築神社は、現在の社の真南350mほどのところにあり、これも川に沈んだ。大正5年(1916)の「神社調査帳」には、寿永2年(1183)4月卯の日、「繁田郷(川西町吐田)ヨリ蘇武ノ郷(窪田)ヘ御移座」とある。移座の折、大和川を清めて奉迎したと伝えられ、以来、「川堀祭」と称して毎年4月の卯の日に川浚えの式が行われてきた。川の氾濫を鎮めようとして、大和川を挟んで同じ素戔嗚尊を祭ってきた、そういう水に苦しめられた長い歴史があるのだ。聖徳太子も飛鳥の橘寺への道中に立ち寄られたという。



左上:蛇行する大和川。川の北側、南側にあった杵築神社の想定位置(昭和20年(1945)頃) 同下:真っすぐに改修後の大和川。元の杵築神社の想定位置を記す(昭和54年(1979)頃) 同右:安堵村窪田と吐田の間を流れる大和川の明治期の地図
油かけ地蔵
奈良盆地の中でも安堵町、川西町辺りが最も低く、ここを流れる大和川には多くの河川が集まる。中でも窪田や吐田は標高が40m以下で最も低く、寺川と大和川に挟まれたこの地は絶えず水に浸かったという。昔の地名が「半田」だった頃、田が水浸しになるのを防ぐため、「水を吐く」と願って「吐田(はんだ)」と改められたという。浸水を食い止めて欲しいと聖徳太子のご加護を願って、太子道沿道にある油かけ地蔵にお参りした。油は水をはじくという意味もあり、願をかける日は油をかけてお祈りする風習ができ、おかげで地蔵は真っ黒になった。
上左:油かけ地蔵 同右上:田んぼの中にポツンとある油かけ地蔵 同下:油をかけられ真っ黒になった地蔵 下:地蔵の横からまっすぐ南に向かう太子道
ここから南へまっすぐに田のあぜ道を行く。浸水のおかげか古代より肥沃な土壌で、条里制の区画に基づき米の生産力が高い土地だったので、太子も無理に斜交道を敷かなかったのだろう。今も「吐田米」というブランド米で生産するところだ。稲刈りも始まった稲田の間をゆっくり歩いていくが、この道は歴史街道らしくベージュ色の舗装をしている。と、道の半ばあたりで、何やら人だかり。農作業をしているようには見えない。JAFのユニホームの人が電話をしているようで、その後ろには傾いたジープタイプの車が見える。慣れない人が地道のあぜ道を運転すると4WDでもこうなる。
左:あぜ道で傾くジープタイプの車 右上:寺川の堤防へ向かう太子道 同下:堤防上から一軒家の向こうに続く太子道を見下ろす
太子道の舗装が終わりかけたところ、寺川の堤防沿いに一軒の家がポツンとある。家主さんが現れ、いろいろ立ち話をする。大阪から自給自足の生活をしたいと、こちらに600坪の土地を買って住む。井戸を掘ったが塩分が多くて飲めない、野菜はうまく作れないとか、最近は少々あきらめ気味で、大阪に帰りたいなどとおっしゃる。「あの車、昨日からはまったままなんやけど、7、8人集めて抱えたらいけそう。昔やったらそんなこと簡単にできたんやけどね…」と。
島の山古墳
堤防に上がり寺川に架かる梅戸橋を渡る。寺川は談山神社付近を水源にして、桜井の横大路の最終地点、さらに唐子・鍵遺跡の西側を流れ、古代社会成立に大きな貢献をしてきた川だ。この付近の寺川は南南東から北北西の斜めに流れ、左岸の堤防道は太子道の斜交道に当たる。今回は島の山古墳を見たくて、斜交道から逸れて梅戸の住宅街に入って行く。建ち並ぶ住宅の裏手に回ると古墳の外濠に出た。濠の周りを一周できそうなので、後円部から回ることにする。説明版によると、今は水が入って水濠になっているが、元は墓と周囲を区切るために一定幅を掘り、その残土を墳丘の土盛に用いたのであって、濠にするためではなかったと。その後掘った部分は田畑になり、明治期の大干ばつ時にため池として利用されるようになり、今に見るような外濠になったという。古代における古墳景観を再考する必要もありそうだ。前方部には拝所が見当たらず、濠の外縁に沿って民家がずらっと並んでいる。既得権の問題が絡まっているのだろうが、これも元々田畑であったことが原因なのかもしれない、悩ましい限りだ。






上左:太子道は寺川の左岸堤防上を通る 同右:堤防道(太子道)と梅戸への道(合成写真) 中左:梅戸の住宅の向こうに島の山古墳が見える 同右上:太子道は堤防へ上る 同下:寺川を渡る梅戸橋 下左:島の山古墳東側、後円部から前方部を見る 同中:説明板にあった古墳平面図 同右:後円部の外濠殻
前方後円墳で墳長195m、盾型の周豪含めた長さが265m、幅175m。築造時期は4世紀末~5世紀初め、奈良県内では20位以内に入るが、築造当時の古墳としてはトップクラスの規模を誇る。西方約1㎞にある大塚山古墳も墳長が195mと同じ墳形規格を持つことから、埋葬されている権力者は、大和盆地の河川が合流する場で連携を取りながら交通の要所を押さえていたとみられる。西側の外濠に沿って比賣久波(ひめくわ)神社があるが、周辺は古墳時代からのかなり古い集落だったようだ。祭神は、久波御魂(クバミタマ)神、天八千千(アマハチチ)姫で、御神体は桑の葉と伝えられる。寺川を挟んで東側にある糸井神社とともに、古代より蚕産・絹織物の生産に関わる地域だったとみられている。
上左:比賣久波神社の境内 同上右:神社の拝殿 同下:前方部外濠の水際まで建物が並び、拝所が見当たらない 下左:神社参道の入り口、外濠に沿って進む 同右:前方部東側から後円部を見る
大和川流域を治めた権力者とは
前方後円墳を中心とする大和政権大王の古墳群は、箸墓古墳を最初とし大和・柳本古墳群、佐紀盾列古墳群、続いて馬見古墳群が現れ、それ以後拠点を河内とし古市・百舌鳥古墳群へと移動していく。大塚山古墳や島の山古墳は馬見古墳群北部の古墳群で、それまでの政権の拠点は三輪山や天理、平城山などの山裾にあったものが平地に降りてきたともみられる。弥生時代には大和盆地の大部分が大和湖の底であったものが周辺から陸地化していき、4世紀以降、最も低い窪田や吐田がようやく水が引け、広大な水田として開拓されるようになった。これらの土地を水害から守り、田畑として管理することができる権力者が現れてきたことを表している。


左:大和川南部には馬見古墳群を含め、この地域の支配者とみられる権力者の墳墓が点在する 右:大和の大古墳群は大和湖周辺の山地部から始まった
大和全域の河川が大和川に合流してくるこの地域を管理するのはたやすいことではなく、かなりな権力を持つものでないと可能ではない。古代権力のうち、物部氏や蘇我氏などが出てくる以前の4~5世紀にかけて最も力を持っていたのは、葛城氏しかいない。葛城氏の本拠は葛城・金剛山裾の御所ではあるが、そこから北方のこの地域に進出してきた。葛城氏の一族、平群氏もそのうちに入ると考えられるが、その配下の豪族が大和川の管理に大きな権限を持っていた。大塚山古墳、島の山古墳、そして周辺の三宅古墳群に眠るのはそのような豪族たちであろう。そして馬見古墳群は、大和川流域を支配下に治めた葛城一族が眠る墳墓であると推測できる。大和では、川を制する者が権力を握る、そんなことが言えるのではないだろうか。
上左:寺川堤防脇にある梅戸地蔵堂、太子道の沿道でもある 同右上:寺川堤防道を来た太子道は井戸橋を渡って結崎へと進む 同下:寺川を来たに見る 下左:結崎の町へ向かう太子道 同中:川西町役場前の三差路 同右:太子道からは糸井神社のうっそうとした杜が見える
横道にそれて古墳巡りをし、地形から見た大和川流域の古代権力について考えてきた。太子道探検に戻ろうと寺川に架かる井戸橋の袂、梅戸地蔵堂まで来たが、すでに太陽も傾きかけてきた。残念ながら今回はここで引き揚げるが、近鉄結崎駅への道の途中、次回は向こうに見えている糸井神社から始めようと、決意も新たにするのだった。(探検日:2025.10.6)