筋違道は斜めのまま国道24号線、京奈和自動車道でもある高架道路の下を突っ切り、宮古の町中をそのままの角度で入り、見事に斜交道を形作っている。孝霊天皇黒田廬戸宮が示すことは、黒田は元からある地名で、そこに古墳が築かれ黒田大塚古墳と名付けられ、この地が都であったことから宮古と呼ばれてきた。いずれも古代からの古い地名なのだ。

上左上:斜交道は京奈和道を斜めに突っ切る 同下:高架をくぐり宮古の町に斜めのまま入る 同右:宮古から新口町までの歩行軌跡(カシミール3D) 下左:宮古の町中を太子道が通る 同右上:板塀の古い家屋が並ぶ 同下:保津との辻にある地蔵堂
鏡作神社
宮古から保津の町に入りかけるところ、その境界線の道路で太子道は切れる。東に行くと大きなため池の宮古池にぶつかり、手前に宮古鏡作伊多神社がある。池の西側をぐるっと回って北側が入り口になっている。今まで歩いてきた道は宮古と保津の国堺で、北側の宮古の人々が入りやすいように北側に入り口があるということか。高木に覆われて境内は程良い日陰を作り、気持ちが落ち着く。
上左:高木に覆われた宮古鏡作伊多神社 同右上:宮古と保津の境界を東西に道路が走る 同中:遠くに鏡作神社の杜が見える 同下:神社の周りの玉垣 下左:宮古池 同右:神社の北からの入り口
田原本町周辺には「鏡作」と名の付く神社が5カ所あり、古来から鏡鋳造の神として信仰されており、鏡製作の部民が多く住むところだった。田原本町八尾にある鏡作坐天照御魂神社は大きく、現在も鏡・ガラス製造業界のほか、美の神として技術向上を願う美容師なども多く参拝する。田原本町小阪には鏡作麻氣神社、行き過ぎたが三宅町石見にも鏡作神社があった。
今も残る保津の環濠集落
宮古鏡作神社の西側に並ぶ玉垣に沿って元の道に戻り、道路を越えて南方に進む。太めの水路が流れ家々はそこに石橋を架けて玄関とし、立派な門が建っている。水路が曲がるところに看板が立ち、「保津環濠集落」とある。窪田には中家の水郷住宅があったが、低湿地帯の多い奈良の平野には、戦国時代の争乱から村を守るため、環濠集落がいくつもあった。集落への出入り口は南側1カ所、敵が攻めてきたとき橋を引いて防いだという引橋が架けられ門番がいたという。およそ100m四方の小規模な集落ながら、堀の幅は1間(約1.8m)から2間ほどあり、堀の内側は藪で囲まれていた。江戸時代に入ると、堀は防御施設としては不要となり、灌漑用水のため池として活用されてきたという。

上左:環濠集落南側の濠 同右上:西側の濠には橋が架けられ、それを渡って門のある家に入る 同下:西側の濠 下左上:南側の濠 同下:元の濠は暗渠になっているところもある 同右:元禄17年(1704)の古地図にみる集落
現在、濠は西側と南側の一部が残っているが、多くは暗渠になり車も出入りできる。そこから中に入いると、狭い道路は入り組んでいてなかなか真っすぐには行けない。廃屋も多く空き地もあちこちにあるが、地割は元のままのようだ。さらに中に入ってところに神社、保津鏡作伊多神社がある。ここより北側150mにあった宮古と同じ鏡作神社だ。
上左:環濠集落の中にある保津鏡作伊多神社 同右上:南本殿(手前)は「隅木入春日造」という珍しい手法 同下:集落内、新建築もある 下左・右:集落内は細い道が入り組んでいる
大和一だった田原本町
太子道に戻りぶらぶら歩いていると、掲示板の能公演ポスターに目が止まった。「能発祥の地・田原本」とあり今回は金春流能「源氏供養」の公演だ。秦河勝は秦氏のトップで聖徳太子の最大のブレーンと言ってもよい人物だが、一方能楽の始祖ともされる。唐の散楽をもとに「六十六番の遊宴」を作り太子に披露したことから、河勝は申楽を作った人だが、申楽は能の原点であるからそう言われるのだろう。その河勝が創建した秦楽寺(じんらくじ)が田原本にあり、秦氏の楽人の寺という意味の通り、後に金春や観世といった有力な能楽の座がここから起こった。古代から田原本は芸能の盛んな土地柄であったようだ。





上左:「田原本の能」公演ポスター 同右上:西側の京奈和道と並行する 同中・下:南に向かう太子道 下左:田原本町中心地と唐古・鍵遺跡の地図(カシミール3D) 同右上:唐古・鍵遺跡史跡公園 同下:弥生期集落とそれを取り巻く水路のジオラマ(唐古・鍵考古学ミュージアム)
田原本の北北東2㎞も行かないところに弥生時代の大規模集落であった唐古・鍵遺跡があり、この地域一帯は太古から人の定住するところだった。古代は聖徳太子とともに、中世~近世は川を通じた水運や街道の中継点として栄えた。近代には早々に大和鉄道などを開通させるなど、大和の中でもっとも早くから開けたところだった。大和一の経済繁栄をバックに芸能文化が成熟していた町で、葛城、箸墓、飛鳥、平城京の流れとは違う、経済や文化において大和の歴史地図を塗り替えるほどの発展地域だった。「世が世ならば・・・」と無念がる地元民も多いことだろう。
薬王寺の大楠
保津の集落から真っすぐ南への道が続き、どこかで太子道は途切れてしまっている。途中で東に曲がり斜交道を探して太子道に戻らなければならないのだが、その道を見失ってしまった。ただただ南に向かっていると、薬王寺という集落に入り、そこで特大の楠を見つけた。この町は江戸期くらいから何も変わっていないような、道は細く大きな屋敷が続く街並みだった。入り組んだ細道を縫って、たどり着いたのが八幡神社、そこにあったのが樹齢500年、目通り周り6.18m、樹高30mの楠の大木。縦横に枝を伸ばし、神社の境内全体に木陰を作っている。奈良県の天然記念物。さらに南に行き、とうとう飛鳥川の堤防まで来てしまった。奈良県のウォーキングポータルサイト「歩く・なら」推奨の太子道は飛鳥川の堤防道を行くことになるので、ここでやっと太子道と出合うことになるのだった。
上左上・下:薬王寺の集落には立派な邸宅が並ぶ 同右:八幡神社の大楠 下左:薬王寺からさらに南へ真っすぐ行く 同中:稲田の中の道を行くと飛鳥川の堤防たどり着く 同右:薬王寺の八幡神社
多神社と太安万侶
夕日に照らされ飛鳥川の東側堤防を行く。川の流れは東に大きく曲がってきて、ちょうど斜交道のような角度になってきて、それは気持ちよい散策路でもあった。一塊だった二上山は完全に二つに分かれた形になっている。川の流れが真南になるところで、川沿いに建ち並ぶ住宅が見えてきた。それが途切れてこんもりした森の中に入ると、左手に「多社」と彫り込んだ石燈篭が現れた。多神社、正式には多坐弥志理都比古神社、その裏側の入り口だった。
上左:飛鳥川 同右上:堤は快適な散歩道 同下:ふた山の二上山が見える 中左:堤防縁の池、鴨が遊ぶ 同中:池の東には同型住宅が10軒以上並ぶ 同右:笠縫の住宅団地付近 下左:堤防道は車道に代わる 同右:突然「多社」の石灯篭が・・・
多神社は、奈良盆地のほぼ中央に位置し、三輪山—多神社—二上山がほぼ東西一直線に並び、春分、秋分のころには三輪山上から出る太陽が二上山に沈むという日昇日没の中心という絶好の位置にある。自然崇拝に篤い心を持つ弥生人にとって、この光跡の神秘さに魅了され、太陽を神さまとしてこの場所を祈りの空間としたに違いない。それが起源で神社になってきたのだろう。この神社の祭神の一人、神八井耳命(かむやいみみのみこと)は神武天皇の第2皇子で、弟が2代綏靖天皇だが、この命が多(おお)氏の祖とされ、この地域を治めた氏族だという。その末裔に古事記編纂に関わった太(おお)安万侶がいて、安万呂の代で「多」から「太」に改めたという。安万侶の墓は、多地区の近鉄橿原線東側の田んぼの中にある径8mの円墳状の松の下古墳だという伝承がある。墳丘はかなり削られ、水田の中にかろうじて残る。しかし、昭和54年(1979)、奈良市此瀬町の茶畑の開墾中に偶然に発見された墓室の中から安万侶の墓誌が見つかり、此瀬町の墓が本物であることが証明された。多神社の南側にうっそうと茂る森があるが、そこに安万侶を祭る小杜(こもり)神社がある。

上左:多神社入り口 同右上:鳥居越しの社殿 同下:社殿正面 中左上:石板の小杜神社地図 同下:小杜神社入り口 同右:古事記1300年の記念石碑 下左:多神社の摂社でもある小杜神社社殿 同右:2025年9月23日(秋分)の太陽光跡(日の出・日の入りマップ)
古代から変わらぬ風景の中で
日も落ちてきてラストスパート、田畑が広がる大きな風景の中を歩く。西の彼方に二上山が完全にふた山に見える。もう少し南には葛城山と金剛山が連なっていて、蜻蛉(あきつ)が交尾しているように見えたことから「秋津洲」と名付けたことがよくわかる。真南には畝傍山の角ばった姿が浮かんでいる。特に二上山は歩きだしたころは一つの山塊であったものが、黒田辺りから徐々に山頂が割れ出し、今や完全な二上山になった。古代人もこれらの山々の形を見て、自分の位置を確かめたことであろう。2000年も3000年も前から変わらぬ風景の中に自分がいることに感動を覚える。
上左:ふた山となった二上山 同右上:三日月の白月が浮かぶ 同下:南方には畝傍山 下:蜻蛉が交尾するような金剛と葛城の重なり
多遺跡
区画整理された田畑の間を貫く真っすぐな道が、交差の部分で土盛を避けるように曲がっている。農道や耕作によってかなり削られて小さくなってしまったが、これは古墳に間違いなく、径14mの円墳、多・垣内古墳という。多遺跡は、標高約55mの沖積地の微高地上に存在し、弥生時代から中世に至る時期の大規模なもので、多神社を中心に広い範囲に点在していた。弥生時代は拠点的な環濠集落で、環濠に囲まれる範囲は長軸350m、短軸300mと推定されている。第18次調査報告書には筋違道(太子道)と下ツ道の推定経路が記されているが、両道は近鉄新ノ口駅付近で交差していたようだ。太子道は飛鳥川もその流域を変えていたこともあるだろうが、川の堤を通ってはいない。この線に沿って北上させると、ちょうど三宅、黒田辺りの太子道と直線的につながるのだ。逆に、元のままの太子道が残るのが三宅、黒田の道しかないということだろう。


上左:多・垣内古墳を避けるように道が湾曲する 同右上:小杜神社から東へ田畑の中を行く 同下:垣内古墳の北側に石碑が立つ 下左:昭和36年の多地域空撮、畑の中の黒点が松の下古墳(カシミール3D) 同右:多遺跡地図―遺跡番号①多遺跡(弥生~中世)・②多新堂遺跡(古代・中世)・③秦庄遺跡(縄文・古墳)・④秦楽寺遺跡(古墳・中世)(第18次多遺跡発掘調査報告書<2022年>より)
ビニールトンネルが10数棟も続く企業農業地に沿って南に行き橿原市西新堂町、さらに新口町に入る。両町の間に多くの田畑が残っているが落ち着いた街並みを作る。あの「冥途の飛脚」梅川忠兵衛の新口村とはどんなところなのか、見てみたいと遠回りしてきたのだが、図らずも太子道と下ツ道の交差部分に近づいているのだった。
上左:10数棟続くビニールハウス 同右上:野菜が育つハウス内 同下:西新堂町の集落 下左:同町の大きな屋敷 同右:新堂神社
「冥途の飛脚・新口村雪の別れ」
「冥途の飛脚」「封印切り」などは歌舞伎でも文楽でも何度も観ているのだが、舞台上の新口村は雪が積もる山深いところのように作られている。新口村とはもっと山中、吉野に近い山里だろうと推測していて、近鉄橿原線の新ノ口駅を通るたび、こんな平地ではなかろうと否定していた。今回橿原市新口町に来てみて、駅前に「冥途の飛脚・新口村雪の別れ」の石碑、町中の善福寺には「冥土の飛脚」梅川・忠兵衛の供養碑がある。「ホンマかいな!」、この地があの新口村なのだと納得せざるを得ない状況証拠を突き付けられたのだ。

上左:新ノ口駅前にある「梅川 忠兵衛」「新口村雪の別れ」の碑、新口村は雪が降り積もる山里に描かれている 同右上:近鉄新ノ口駅 同下:新口町周辺の高低差の地図、右下が標高139mの耳成山 下左上:善福寺 同下:忠兵衛供養塔 同右:忠兵衛供養の案内と善福寺山門
新口町の周辺の標高は50~60m程度の平地であり、山らしきものは1.8㎞南東にある耳成山くらいだ。とても山里とは言えない土地なのだが、死を覚悟する道行、父子の別れの哀切を表すなら、新口村は雪の降り積もる山里でなければならなかった、そういうことだろう。現在の新口町では、梅川・忠兵衛供養塔や忠兵衛せんべいなどを作り、明るい新口村に脱皮しようという観光PR作戦を展開しているようだ。(探検日:2025.10.29)
いつもながら、私の地元を訪ねていただきこのように伝えて下さりありがとうございます。今年の春で終了しましたが、娘に誘われて5年余り楽しんだ謡曲の稽古の発祥が田原本町近くで秦氏によって成されたことも初めて知りました。
いつもありがとうございます。田原本のことはもっと見直されてもよいと思います。一度ゆっくり探検してみたいと思います。今後ともよろしくお願いします。