太子道(筋違道)を歩く⑤新ノ口~飛鳥

 近鉄新ノ口駅から飛鳥まで、橘寺をめざして歩く。近鉄の謎の迂回線を見つけたり、今井町の古い街並みぶらぶらしたり、藤原宮跡に迷い込んだり、例のごとくあちこち回り道をしてしまった。川筋が変わったり、条里制や時代ごとの区画整理などで本来の斜交道は跡形も無くなっているところも多い。ただひたすら斜めに伸びる道を求めて歩く旅だった。

新ノ口駅から飛鳥までの太子道を行く歩行軌跡 左:新ノ口駅~おふさ観音・藤原宮 右:藤原宮・鷺栖神社~飛鳥・橘寺

廃線か?貨物線か?

 秋まっ盛りの天気の良い日、前回の終着点・新ノ口から出発。地図で見ると近鉄橿原線とは別に新ノ口駅から西にカーブを切りながら伸びる線路が描かれている。その先は大阪線に合流して大和八木駅に入って行くようだ。貨物線とか、昔にはあったが今は廃線になっているとか、そんないわくがありそうな線路で、大いにそそる。実態を明らかにしようと、探検気分で線路に沿って伸びる道に入って行く。橿原線の線路近くに寄って行くと、確かに別の鉄道軌道が西側に曲がって行くのが見える。建てこんだ住宅の隙間から覗くと、草ぼうぼうの電車道が伸びている。これは廃線に違いないという確信に至るのだが・・・。

上左:住宅の間から見える草ぼうぼうの線路 同右上:新ノ口駅からすぐに線路は別れだす 同下:橿原線を行く近鉄電車 中左:新口町の住宅街 同中:新口町飛鳥荘苑東児童公園 同右:踏切を越えると上品寺町 下左:踏切から見える謎の線路 同右:上品寺団地自治会案内図、タイトルの真下に「近鉄特急迂回線」の表示

 新口町の新興住宅地の一角に児童公園があって、住民の方たちが和気あいあいと昨日あったイベントの後片づけをされている。その間を突っ切って南に向かうと、先ほどの鉄道を渡る踏切が見えてきた。通りかかったガスメーター検査員のおばさんに聞いてみた。「さっき電車走ってましたよ、JRなんかね?」エエッ、生きてる鉄道?踏切まで行って鉄路を見通すと、そう言われればそうかな、廃線という推理が瓦解しそうになる。踏切を越えたところに「上品寺団地自治会案内図」があり、その上段にあるではないか、「近鉄特急迂回線」と。

上品寺町

 線路を越えるとそこは上品寺(じょうぼんじ)町となっている。住宅地の中をさらに南下すると、県道105号中和幹線という片側2車線の太い道がついていて、何とかに道楽もある。信号がついた横断歩道を越えると、道路の賑わいとは裏腹に大和らしい田舎町が現れた。八木町に近い郊外ではあるが、江戸期から手つかずの農村の集落に見える。そのはずれに八坂神社があり、新口町北側の新堂神社にも見られたような古風で素朴な佇まいを持つ。河内でよく目にする神社の配置は、鳥居をくぐると長い参道が続き、鳥居・参道・本殿が一直線でつながる緊張感のある神社空間だが、ここでは鳥居と祠、参道には軸線がない。そのためか緩んだ空間になっていて、のんびりした気分になる。

上左:中和幹線を越えると上品寺町の旧集落 同右上:県道105号中和幹線にはかに道楽も 同下:道路沿いの花畑 下左上・下:立派な家が並ぶ上品寺町集落 同右:軸線が見えない上品寺八坂神社 

 この町は極楽浄土に往生できる最n高位の「上品」という名をいただくが、中世の頃に東大寺や春日大社(興福寺)へ寄進があったためのものであるとか言われている。京都の八坂神社の分社で、当初祭神は牛頭天王だっただろうが、素戔嗚に祭神替えされているという。

近鉄特急迂回線

 大らかそうな村中を西に抜けていくと新建材の住宅が増えてくるが、その先に踏切が見える。「ここを電車が通るんですかね」とウォーキング中のご夫婦に聞くと、「割と頻繁に近鉄特急が通りますよ」と。まだ半信半疑だが、電車が通過しそうな踏切ではある。線路と並行する飛鳥川の堤道は桜の大木が並ぶ地道で、落ち葉を踏みしめながら南方に向かって歩いて行く。そこへ「カンカン」の音。すわ、特急電車!最新型なのか白地に紅のボディカラーが美しい。何だか信じられない気持ちながら、特急電車が走って来るのを目の当たりにした。

上左:近鉄特急迂回線の踏切 同右上:集落を離れるとモダンな住宅も 同下:踏切の手前の線路は封鎖されている 下左上:踏切から北側、左側に曲がる引っ込み線も見える 同中:飛鳥川の土手道、左に沿うのは線路 同右:近鉄特急迂回線と大阪線連絡船を描いた地図(Google Map) 下:白地に紅のボディカラーの近鉄特急が突然現れた

 これはどういうことだろうか。推測するに、橿原線を来た特急が新ノ口駅から大きくカーブして東に向きを変え大阪線に入りこむための迂回線。京都方面からの伊勢神宮参拝客に乗り換えなしに伊勢に行ってもらうためのサービスということだろう。京都人に対する細やかな心遣いというか、京都観光の後は伊勢に来てよ、という大戦略なのだろう。実はもう一本謎の線路がある。橿原線八木西駅から大阪線に合流する線路で、狭軌の南大阪線の車両が橿原神宮前駅から橿原線に入り大阪線の広軌に履き替えるための大阪線連絡船(渡り線)と呼ばれる線路だ。線路が交差する地点では知られない秘密がいろいろあるものだ。

上3点:桜をはじめ木々の紅葉が美しい 下左・右:土手道を行った突き当りに近鉄大阪線が走る

 この迂回線の事実を知ってすっきりした。雑草が生い茂る堤道をどんどん行くと、大阪線のガードまで来てしまった。大阪線を通過する近鉄車両を何本かやり過ごし、道なき土手を滑りながら川沿いまで降りる。遊歩道として整備されていなく、背をかがめながらガードをくぐる。

古代が残る地黄町

 ガードを抜けるとすぐに橋が架かる。「地黄(じお)橋」とあり、電柱には「地黄町」と住居表示がある。地黄とは、漢方の重要な生薬で腎臓機能を高める効能があり、奈良時代からこの地で盛んに作られていて、この薬の名が地名になった。橋に架かる道を西に行くと人麿神社がある。葛城・新庄町には人麻呂の墓がある柿本神社があるが、そこから分祀されたという。人麻呂より有名なのが「すす付け祭り」で、無病息災や豊作を祈り、裸の村の子どもたちが境内を駆け回り、真っ黒になるまで墨の付け合いをするという。八木近くの町中に古式ゆかしい祭りが伝承されているところが奈良らしい。もう一つ有名な神社、蘇我氏にまつわる入鹿神社がもう少し南にある。昨年横大路を探検したとき訪れたが、南に畝傍山が見えて古代の臭いぷんぷんする田舎町のように感じたが、今日のように北側から来ると飛鳥川沿いに広がる閑静な住宅街に思える。入り方次第で町のイメージも大きく変わるものだ。

上左:飛鳥川の堤防道に桜並木 同右上:飛鳥川にかかる鉄橋を渡る近鉄電車 同下:電車は大和八木駅に向かう 下左:地黄橋 同右:地黄町の住宅街の町並み

飛鳥川沿いの桜並木

 季節はまさに錦秋のころ、飛鳥川沿いの桜並木の紅葉がまさにそれを表す。良い時期に来たものだ。聖徳太子も黒駒から降りて、ゆっくりこの紅葉の中を歩かれたことだろう。川がくねくね曲がるところ、大きな蔵に見覚えがあると思ったら、東西に真っすぐ伸びる横大路ではないか。土手道を東に下るとすぐに近鉄橿原線の踏切に至るのだった。こんなのどかな土手道のすぐそばに奈良でも大きな町、八木がある。下ツ道と交差する札ノ辻に旅館が二つ並んでいて、往時の八木の賑わいが偲ばれるのだった。今日はもうしばらく飛鳥川の紅葉を楽しもう。

上左:飛鳥川の両側には見事な桜並木の紅葉が広がる 同右上:左岸(西側)の紅葉 同下:キンカンも黄色の実をつける 下左上:横大路の角に立派な蔵 同下:紅葉を楽しむ人 同右:紅葉越しに川面を見る

今井町をぶらぶら

 左に近鉄、前にJR線のガードが見えてきたところに金鵄橋が架かり、橋の対岸に「今井町←」の表示があった。あの今井町がこんなに近くにあるのかと驚く。自分が描く地理イメージが次々と裏切られる。北側から今井町に入るのは初めてなので、ずいぶん印象が違う。町の入り口に蘇武井(そぶのい)という井戸があり、聖徳太子も水を飲まれ、愛馬黒駒にも水を与えられたという。20年前の今井町には、喫茶店さえなく休憩するところがなかった。今は観光案内所、カフェ、レストラン、それに二つ星ホテルさえある。10時40分を回ったところ、観光客の出足はまだ。ひっそりして静かな町中をぶらぶらするが、古式の家がこれだけ続くのは見事なものだ。

上左:今井町の北東側の入り口 同右上:今井町は金鵄橋を渡って左へ 同下:JR桜井線のガードをくぐれば今井町 中3点:古色に修景された街並みが続く 下左上:中尊坊通りの町並み 同中:酒造業の河合家住宅は登録文化財 同下:町家カフェ 同右:聖徳太子も潤した蘓武井と榎木

落ち葉を踏みしめて  

 太子道を外れてだいぶ寄り道をしたが、東に向きを取り本来の飛鳥川の土手道に戻ることにする。近鉄のガードを抜けるとくねくねと曲がりながらも、筋違道の方向、南南東に流れる飛鳥川に突き当たる。赤い橋を渡ると、ここでも見事な紅葉。今日一番の錦秋かもしれない。あまり手を加えていないので太い枝も伸び放題だが、その分自然な成長をしていて、葉っぱもふんだんに付けている。川の西側に今井町の墓地、東側に八木醍醐共同墓地と飛鳥川を挟んで大きな墓地が並んでいる。広大な敷地に所せましと墓石が並ぶ。死んだら、こんなにぎやかな墓地に祭られるのもよいだろうな。何より桜の花見がうれしい、ちょっと遠いけど…。かさかさと落ち葉を踏みながらゆっくり歩く、太子道探検の業務を忘れてしまうほど気持ちよい。

上左:飛鳥川土手道の大きく育った桜 同右上:今井町から東へ、近鉄線のガードを抜ける 同下:今井町墓地 中左上:赤い橋を越えると桜並木 同下:八木醍醐共同墓地 同右:墓地を背に桜の下のベンチで休息 下左:まだコスモスが花盛りだった 同中:対岸の桜 同右:今井町から先、曲がりくねった飛鳥川の桜並木付近の地図(カシミール3D)

にぎやか好きのおふさ観音

 桜並木の散歩道が終わるところ、川端に「大神宮」と彫られた立派な石燈篭が立っている。どの道が伊勢神宮につながっているのだろうか。地図を見ると、国道169号線は奈良市内から桜井、吉野、川上村を通り新宮に行く国道だが、橿原以南は下ツ道上を走る。下ツ道は笠縫、新ノ口駅辺りで近鉄橿原線に沿って南下して、八木札ノ辻で横大路と交差し、小房町を南下し藤原宮の西側に沿う道だ。下ツ道がちょうど飛鳥川を渡ろうとする、その角に石灯篭が立っているという寸法だ。伊勢へはこの辺りで東に向かい、国道165号線や近鉄大阪線に沿って長谷寺方面に行かなければならない。その意味ではこの石燈篭は、東への曲がり角を示す重要な道標にもなる。

上左:下ツ道を見通す 同右上:「大神宮」の石灯籠 同中:格子戸の古い民家の角を右へ 同下:飛鳥川にかかる下ツ道付近の地図(カシミール3D) 

 そんなことで川端から少し北へ行き一本目の道を東に向かうことにする。しばらく行くと、この町の基になったおふさ観音があるではないか。もう20年も前だが、バラに興味があって、あちこちのバラ園を見て回っていたが、数百本のバラの木があるということでここに来たことがあった。確かにそんな数がありそうだったが、すべて鉢植えだったのでがっかりした。今回訪れると、所せましと並べられた数千のバラ鉢の上に何百という赤い提灯が吊るされていた。住職さんはこういうにぎやかなことがお好きのようだ。

上左:おふさ観音のお堂正面、赤い提灯が一面に 同右上:数千鉢のバラが 同下:おふさ観音お堂 下左・右:観音から東へ、藤原宮へ向かう

 小房を「おうさ」と読むが、橿原市八木町の南、今井町の東に位置する小房町は、下ツ道沿いの村として古代から存在したという。室町期からの近世までこの辺りの地名は四分(しぶ)と言い、江戸時代後期に分村して小房村が成立した。江戸時代の中期以降、吉野・高野詣や大和巡り・伊勢参りなど大勢の人々が全国からこの地を訪れ、街道町として栄えた。それにあやかって作られたのが観音さんで、小房観音寺が地名の由来にもなった。そういうことのようだ

藤原宮跡を清々しく

 おふさ観音前の道を東へどんどん行くと、藤原宮に達する。広々とした草地に朱の柱が目立つ、大極殿院南門を支えた24本の柱だ。その北側に、少し高くなった台地があり、樹木に覆われているのが大極殿基壇跡だという。彼方の南に同じ朱色の柱列が見えるが、これらの真ん中を結んだ南北の線が藤原宮の中心軸で、これに沿って南へと歩いて行く。広々とした空間を歩くのは清々しいものだ。藤原宮はおよそ1㎞四方あり、日本で初めて造られた瓦葺の宮殿で、政治の中枢である大極殿や朝堂院、朝集院、および宮を取り囲む塀や宮城門も瓦葺だった。天皇や皇后の住まいである内裏や官衙は桧皮葺だったと考えられている。

上左:藤原宮の大極殿院南門から大極殿跡の林を見る 同右上:大極殿跡の林 同下:基壇跡から南方全景を見る 中左:24本の柱を持つ大極殿院南門 同右:藤原宮全景の説明板 下左上:宮殿東方、天の香久山辺りを見る 同中:西方、畝傍山、右彼方に二上山 同下:朝堂院南門跡 同右:朝堂院南門から大極殿を望む、彼方に耳成山

藤原京とは

 岸俊男氏によると、藤原京は北を横大路、東を中ツ道、西を下ツ道、南を阿倍山田道に囲まれた範囲とされた。さらに下ツ道は平城京の朱雀大路とつながり朱雀門に至り、中ツ道は平城京の東端を区切る。これらの官道は、藤原京、平城京という都市の基本軸となる非常に重要な道路となっていた。わかりやすい説明であるが、果たしてそうだったのか。

左:岸俊男氏説の藤原京条坊復元図 中:飛鳥の地形上での藤原京と宮廷(内側の四角)の範囲図 右:藤原京と平城京と位置と規模の違い。下ツ道が平城京の朱雀大路とつながり、そこへ太子道(筋違道)が交わる(橿原市ホームページより)

 その後橿原市内をはじめ、これまで藤原京の外側と考えられてきた地域で多くの道路が見つかり、大藤原京ともいえる広大な範囲に広がっていた。東西5.3㎞、南北4.8~5.3㎞、面積約28㎢と考えられ、東は桜井市の一部、西は畝傍山の西側、北は近鉄橿原線新ノ口駅の辺り、南は橿原神宮前駅から100mほど南というとても広い範囲になり、岸俊夫氏の藤原京の面積の2.5倍にもなるという。唐の長安は東西約9.7km、南北約8.6km、総面積約84㎢という規模には及ばないとしても、その当時の日本の国力から言ってもとてつもなく広かった。

左:大藤原京と岸説の藤原京の範囲図 右:大藤原京の条坊復元図 

 藤原京は、文武・元明の三代の天皇が治めた694~710年の間営まれ、大宝律令の制定(701年)、和同開珎の鋳造(708年)などがあり、わずか16年間だが、日本の律令制を考えるうえで大きな役割を果たした舞台ともいえる。

飛鳥川から下り宮

上左:跡藤原宮西面大垣の跡 同右上:さらに南に続く大垣の跡 同下:築地塀を築く当時の作業風景 下左:鳥居越しに見る鷺栖神社境内 同下:飛鳥川土手道から神社へ降りてくる 同右:土手上から見た神社全景

懐かしい風景に出合う

 川の右手に畝傍山を見ながら南東の方角に進み、飛鳥をめざす。川瀬には葦がはえ、土手にも草がかさ高く茂っていて、川面が見えない。その方がかえって昔からの川のように思える。寺院や古い家並みが続いていたり、家々の間から畝傍山の角張った山頂が見えたりして、昔から変わらぬ風情がある。途中から土手道を降りて河原道を行くことになり、川筋がはっきり見えてくる。白鷺が羽を休めていたり、鴨が仲良く並んで水面を滑っていたり、なんだか田舎に帰って来たような気分になる。そうこうするうちに、「明日香村」の標識に出合い、以前に見た風景を思い出す。そうだ、豊浦の集落だった。

上左:コンクリート護岸がない、自然堤防の飛鳥川 同右上:対岸には大きな屋敷が続く 同中:スズキの穂が郷愁を誘う 同下:鴨の夫婦連れが 下左:白鷺が羽を休める 同中:藤原京から飛鳥への案内地図 同右:いよいよ明日香村に入る

1400年も続く豊浦

 豊浦の地は蘇我氏の本拠地であったため、推古天皇が593年に豊浦宮で即位した。それ以降天武、持統に至る100年に及び歴代天皇は飛鳥の地に宮を造ってき、豊浦宮の造営から飛鳥時代が始まったとされる。豊浦宮の跡地は蘇我馬子に譲られて豊浦寺となり、今ある向原寺はそれを引き継いだと伝わる。四天王寺様式だったとみられる豊浦寺の寺院や塔の基壇跡は、豊浦集落内のあちこちに見られる。飛鳥時代には激動の渦中にあったが、それ以降は忘れ去られたように歴史には登場しないが、豊浦は同じ場所で1400年も続いてきた集落なのである。飾らない落ち着いた佇まいの町中を一回りして、甘樫丘を見ながら飛鳥川を越える。往年の飛鳥宮の偉容を偲びながら川の東縁を歩いて行く。折しも稲刈りが終わったころ、あちこちの田から煙が立っていて、なるほどこれが飛鳥の里の風景だとしんみりするのだった。

上左:甘樫丘バックに豊浦の集落 同右上:畝墓山の角張った形がはっきり見える 同下:みかんがたわわになる 中左上:向原寺 同中:推古天皇豐浦宮跡の碑 同下:豊浦の案内地図 同右:白壁が美しい蔵に甘樫丘が迫る 下左:豊浦集落を抜ける 同中:飛鳥川の上から飛鳥の里を見る 同右:田畑のあちこちから煙が

聖徳太子が通った小墾田宮

左:石神遺跡と小墾田宮とされるの模型 右:古山田道沿いに並ぶ石神遺跡と小墾田宮

 聖徳太子は、574年に誕生し、推古天皇元年の593年に皇太子として19歳の若さで摂政に任命された。603年に冠位十二階、604年に十七条憲法を制定、607年に遣隋使を派遣し、622年(数え49歳)に亡くなる。聖徳太子が冠位十二階、十七条憲法を制定し、実権を握り本格的に政治改革をなそうとしたのは小墾田宮においてであったと推測される。蘇我氏とは交えなかった太子は住まいを斑鳩に置いた。執務を取る場所は小墾田宮だったので、太子道を愛馬黒駒にまたがり、調子丸とともに斑鳩から飛鳥の地まで通ったということになる。たまには太子生誕の地である橘寺にも立ち寄ったのではなかろうか…。

飛鳥宮に思いを馳せて

 川伝いに小道を歩いて行くと、弥勒石という大きな石柱に顔だけ彫り出したお地蔵さまが立っていなさる。鼻と口らしきものが見えるだけで顔の輪郭は判然としないが、トトロのようで、ありがた味があるような…。去年訪れた飛鳥京苑池の下側を歩き、徐々に民家が建つ集落の中へと入って行く。民家に近いと言えどこの辺りは歩道の整備もされていず、人が踏み込んだ土の道を歩くことになる。飛鳥川は、岩盤の川底で清らかな流れをしている。紅葉も盛りを過ぎて落ち葉が土手に降り積もっていて、名残の秋を見せている。

上左:飛鳥川沿いを歩く 同中:弥勒石の祠 同右:川縁を行く 中左:トトロにも似た弥勒石 同右上:崖上に飛鳥宮跡苑池があった 同下:くねくねと曲がる岡の町への道 下左上:地道の道もある 同下:飛鳥川は岩盤の上を流れる 同右:川原寺付近は紅葉真っ盛り

聖徳太子誕生所・橘寺

 県道155号線の道路を渡ると、残照の中の丘上に橘寺が見える。欽明天皇の別宮・橘の宮のあったこの地に、用明天皇と穴穂部間人皇女を父母とし聖徳太子が生まれる。橘寺は太子が建てた7カ寺の一つ、創建当初は66もの堂宇が建ち並ぶ大寺院で、四天王寺式伽藍配置をとっていた。東門を入り、本堂を正面に見て左手の往生院に進む。境内ではイチョウや桜の木の落葉が始まっていて、訪れる人も少なく静かだった。往生院には小さいながらも阿弥陀三尊が祭られている。手前の部屋には260点もあるという様々な花の絵を描いた天井画が見事だった。本堂である太子堂の手前にある経堂には阿弥陀如来が祭られていたが、人もまばらになったので、鐘を鳴らしてみた。よく響き渡る鐘の音で、すうっと気持ちの中に入り込む。今回の聖徳太子を訪ねる道筋で見た様々な風景が胸の中に去来し、旅の疲れを癒してくれているようで、とても気持ちが良い。本堂前の黒駒の銅像は、天を仰いで立っている。太子と黒駒、そして調子丸とともに斑鳩からここまで一緒に歩いて来たようにも思え、鐘の音はいつまでも心の中で響いているようだった。(探検日:2025.11.24)

上左:丘の上は橘寺、石碑には「聖徳皇太子御誕生所」とある 同下:橘寺東入口へ 同右:往生院の天井絵 下左:太子の愛馬黒駒の銅像 同右上:紅葉が美しい境内の大イチョウ 同下:本尊の聖徳太子像(重文)がある本堂 下:観音堂の如意輪観音像を拝み、鐘を突く。いつまでも鐘が響き渡っていた
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phk48176
古市古墳群まで自転車で10分、近つ飛鳥博物館まで車で15分という羽曳野市尺度に住まいする古代史ファンです。博物館主催の展示、講演会、講座が私の考古学知識の源、それを足で確かめる探検が最大の楽しみ。大和、和泉、紀国、河内の歴史の舞台をあちこち訪ねて「My古代史探検」としてブログにアップしています。いろいろな意見をいただければ嬉しいです。
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