我が家の西方数百mのところを断層が走っていることを知ったのは10年ほど前だが、それは羽曳野丘陵の東縁に沿ってあるとのことだった。羽曳野市史で調べてみると、切り立った崖が現れる断層ではなく、羽曳野撓曲(とうきょく)と言うらしい。撓曲とは、断層の切断面がそのまま地表に表れたものではなく、断層の上の柔らかい地層が断層の影響を受けて撓(たわ)み曲がってできた緩やかな段差地形。この段差は撓曲崖(がい)と呼ばれるもので、段差の大きさや傾斜の程度はさまざまで、必ずしも撓曲崖の真下に断層面があるとは限らないが、近くに存在することは確かだという。

国土地理院都市圏活断層図に地名等追加
羽曳野丘陵の成り立ち
河内平野では、約300万年前から堆積し始めた大阪層群という1000mを超えるような厚い地層が覆っている。羽曳野丘陵自体、汽水域の水底で堆積した大阪層群が地下の断層の活動により隆起し、丘陵として地層が盛り上がり、東側の撓曲崖で落ち込むことによりできたのである。そのため羽曳野丘陵をほぼ南北に通る分水界が、極端に東側に寄っている。分水界をはさんで西側に傾斜が緩く、石川に面した東側は急傾斜で短い斜面を持つという非対称形をなしている。この羽曳野丘陵東端部、および丘陵裾に、数々の古墳や寺院、古街道など、古代史を語るに欠かせない重要な史跡が存在する。それらの存在理由は撓曲という緩やかな傾斜地を活用することの中にあった。また、羽曳野撓曲が作る景観は人々に心豊かな暮らしをもたらしたであろう。



左:羽曳野市域の地質図(羽曳野市史より) 右上:撓曲説明図(藤井寺市「WEBふどき」より) 同下:羽曳野丘陵の東西断面図(羽曳野市史・市原実1991より)
羽曳野撓曲の北端が藤井寺市内で、そこから南へ約15km続いており、羽曳野市、富田林市を通って河内長野市まで延びているという。今回は、津堂城山古墳の南側にあるという羽曳野撓曲の始まりを見つけ、その撓曲崖をたどりながら、羽曳野丘陵東縁を南端の河内長野まで歩いて行こうという企てである。「なるほど!THE 撓曲」を見つける旅にいざ出発!と、その前に少々寄り道、津堂城山古墳を見て回ることから始めます。
津堂城山古墳を探検する
春めく穏やかな日、通勤ラッシュの終わったころ、近鉄南大阪線藤井寺駅に降り立った。羽曳野撓曲という好物をいただく前に、もう一つ気になっていることを先に片付けよう。先日買った末永雅雄先生の『古墳の航空大観』で明らかに見えるように、津堂城山古墳の周濠を囲むように幅80mに及ぶ附属地が巡っている。末永氏はそれを外堤と呼ばず「周庭帯(しゅうていたい)」と命名された。堤と呼ぶような高まりがなく、幅広い平坦面で構成されていたからだが、そこに濠がもう一本通っていた。その周庭帯の存在について、古墳の回りを歩いて確かめたいのである。


左:津堂城山古墳(昭和33年1月9日撮影・『古墳の航空大観』末永雅雄・学生社)より 右:津堂城山古墳周辺の歩行軌跡(カシミール3Ⅾ)
古墳外周を行く
藤井寺駅北商店街を通り、長尾街道と重なる古市街道を北へ進むと、産土神社と清圓寺が並ぶ辺りから緩く右に曲がるが、そこに左から突き刺すように道が交わる。住宅がびっしり建て込んでいる中をうねうねと曲がる道には、古道の気配がある。あの写真では津堂城山古墳の前方部左隅を囲い、最も外側を巻いている道だ。微妙に右に左に曲がる道を歩いていると、いつの間にか住居表示が藤井寺市「小山」から「津堂」に替わっている。外側に伸びる路地のような道が何本も付いているのだが、内側にも伸びて見通しのきく道は一本だけ。右、東方を見るとうっそうとした森、城山古墳に違いないが、古墳の後円部にある津堂八幡神社への参道だ。そちらへ行くことを我慢して、後円部を取り巻く曲線部の尽きるところまで歩こう。西名阪道の高架が見えるところで曲線が途切れたので、右に曲がり古墳近くまで行くことにする。
上左:古市街道沿いの焼き板塀のある邸宅 同右上:産土神社 同下:清圓寺山門 中左上:←津堂城山古墳の標識 同下:城山古墳外周道へ 同右:緩く右に曲がる(小山4丁目) 下左:緩く左に曲がる 同中;西に向かう路地(津堂1丁目) 同右:右、東方の先には津堂八幡神社
被葬者は応神天皇?
古墳基壇の周濠沿いを歩き、古墳ガイダンス棟まで行く。被葬者が眠っていた長持形石棺(レプリカ)が意外と大きいことに感動する。津堂城山古墳は4世紀末の築造ということで、古市古墳群が造営される以前のもの。これが先鞭を切って古市に巨大古墳群が造られたというが、その被葬者については明確ではない。王位継承者ではないということで、宮内庁の管理となっていなく、立ち入り自由なのだ。ところが先日聞いた大阪公立大学の岸本直文先生の話では、被葬者は応神天皇ではないかと話され、びっくりした。
上左上:長さ348㎝・幅16㎝・高さ188㎝の長持形石棺(レプリカ) 同中:水鳥型埴輪の乗った屋根 同下:古墳ガイダンス棟 同右:津堂城山古墳の航空写真(同棟展示物) 下左・右:津堂城山古墳の後円部風景
仲哀天皇の妃、神功皇后の三韓征伐の帰途に誉田別尊(応神天皇)を出産する。それを聞いた仲哀の子・麛坂皇子と忍熊皇子は、次の皇位が応神に決まることを恐れ、筑紫から凱旋する皇后軍を迎撃しようとした。この内乱伝承は、神功・応神軍が、ヤマト王権中枢である佐紀の正統な後継者、麛坂・忍熊の勢力に勝利したことを語り、これらの王統と出自が異なる応神勢力によって、王権の拠点が佐紀から河内に移されたとする。岸本氏は、河内王権の初代天皇が応神であるなら、その墳墓は規模から言っても津堂城山古墳であろうとするが、どうであろうか。
周庭帯を歩く
ガイダンス棟で一休みして、今度は東側の後円部から前方部への外周を歩く。旧170号線を越えて二重になった外濠の外周らしき道に出る。駐車場の空き地がありその東端に行くと、一段下がって家が建ち並んでいる。ムムッ、これより外側にも濠があったのかも知れないという嗅覚のようなものが湧いてきて、何とかこの外側に行けるルートがないかと探して歩く。児童公園の対面に東側への路地が付いていて、突き当りは建物を壊し更地にする工事をしている。見晴らしが良くなってこの地の高低差がはっきり見える。工事中の土地は先ほどの道路面より1mほど下で、その崖は真っすぐに北に延びている。この線は先ほどの空き地の東縁が一段落ちていた線とぴったり合うように思える。

左:空き地から一段下がって住宅が並ぶ 同右上:元周庭帯外堤上を走る道 下左上:外堤から外に出る路地 同下:外提外の工事現場。外堤とは1ⅿ程度段差がある 同右:津堂城山古墳全体復元図(天野2013a)
家に帰り、数年前LICはびきので受けた「はびきの市民大学」での藤井寺教育委員会の考古学者・天野末喜先生の講義資料を引き出し、津堂城山古墳全体復元図(天野2013a)と照らし合わせる。先ほどまで歩いていたのは二重の濠の外堤の道であり、その外側に沿う1mほどの崖は周庭帯の外周の縁ということになる。最初、産土神社を行き過ぎて歩いた道は、前方部の周庭帯の外堤であり、前方部左隅を回り込んだ道も周庭帯の外堤ということになる。復元図の縮尺から見ると、古墳基壇の周濠の幅は40m前後、周庭帯内堤の幅は40m、外濠の幅は11m、外堤の幅は34mということになる。墳丘長は210m、外周の最大長は440m、最大幅は382mとなる。
被葬者の謎が深まる
津堂城山古墳と同時代である4世紀後半に造られた佐紀古墳群の多くが、同規模の墳丘長200m前後のものだ。城山古墳がそれらにはない周庭帯と二重の濠を持ち、全体の規模を4倍程度にして、外観を立派に見せたのは画期的なことだった。これが手本となって、誉田御廟山古墳や大仙陵古墳など巨大古墳には二重の濠が築かれることになった。その意味でも、革命的な事業をなした偉大な人物の記念碑的な墳墓であると言ってもよく、応神天皇の墳墓にふさわしいのかもしれない。


上左:水鳥形埴輪(レプリカ・近つ飛鳥博物館) 同右上:衝立型埴輪(ガイダンス棟) 同下:島状遺構の発掘現場(同棟) 下左:島状施設(17ⅿ四方・高さ1.5m)築造時のイメージ(同棟) 同右:中央のつつじ植え込みが島状遺構のあった場所
東側周濠内の島状遺構からは3体の水鳥形埴輪が出土したが、森浩一氏は古事記・日本書紀の伝承との間に関連を見て、死後に白鳥となって天に昇ったとされる倭健(やまとたける)尊の墓の一つである可能性を指摘した。また、城山古墳の発掘に携わった天野末喜氏は、応神天皇が実在の人物だとすると、その墳墓は410年前後に築造された誉田御廟山古墳(応神陵)、父仲哀は仲津山古墳(390年前後)、祖父の倭健尊の墳墓が津堂城山古墳だと考えられている。いずれにしても謎の多い墳墓ではある。
ビジュアルに古代史探検
上左:元周庭帯前方部外提南端を示す道と溝 同右上:外堤東側南端部、先に見える右に入る道が前方部外堤南端を通る 同下:外提南端部の道がまっすぐ西方に走る 下左:津堂城山古墳も前方部と周濠 同右:小山新町の昔ながらのアパート
先ほどの工事現場から外に出て南方に歩いて行くと、周庭帯の東縁の線と直交するような角度に細い路地がまっすぐ西に延び、それに沿って幅1mくらいの溝が走っている。古墳の前方部側にある周庭帯と同じ方向に思えるが、後で調べると、果たして周庭帯の外周に合致していたのだった。つまり、周庭帯の東側と南側が確定されたわけである。そのまま旧170号線を渡ると同じく前方部の周庭帯外堤の線に行き着く。これで航空写真にあるような津堂城山古墳の周庭帯を一周したことになる。何か大きな獲物を得たような満足感に浸された。末永先生が航空写真から洞察されたように、ビジュアル感覚をもって古代史探検をすることの重要さを確信するのだった。

