最大の撓曲崖に出合う(古市~西浦)

 前回の最後は、羽曳野丘陵東縁の竹内街道を歩いて仁賢陵、さらに峯ヶ塚古墳を見てきた。今回は近鉄南大阪線の古市駅から同街道を逆に、東から西へ歩いてどう見えるかを探ることから始めたい。3月の彼岸の日を過ぎたころ、暖かい日差しが届いて気持ち良く歩く。竹内街道は駅南の踏切を越えて古市の旧市街に入り、蓑の辻で東高野街道と交差して、石川を越えて太子へと向かう。このコースは以前、蘇我氏の軌跡をたどり飛鳥へと入った時にも通った道だが、今回は西に向かい最大規模の羽曳野撓曲を探る旅をしよう。

古市駅から竹内街道を通り、峯ヶ塚古墳から羽曳野撓曲をたどった軌跡(カシミール3D

白鳥陵、ヤマトタケル?

 古市駅からまっすぐに西に延びる道は、古市の幹線道路でもある府道166号、通称「白鳥通り」と言う。旧の国道170号線との交差点を越えた北側が昔「白鳥苑」と言ったように思うが、当時の新興住宅地だが、現在の町名は「白鳥2丁目」。古市駅の東側には「白鳥神社」があり、「白鳥」という名称と切っても切れない土地柄なのだが、その根本はヤマトタケルが眠るという軽里大塚古墳、通称「白鳥陵」だ。日本武尊(ヤマトタケル)が能褒野(のぼの)(三重県亀山市)で没し、その魂が白鳥となってこの地に舞い降り、飛び去ったという白鳥伝説がある。その地に墳墓を築き白鳥陵とした。その飛ぶ姿が「羽を曳くが如く」だったことから「羽曳野」という市名の由来とした。また、近年、白鳥伝説をベースにした「ヤマトタケル~白鳥伝説~」なる映画も制作された。藤井寺市文化財保護課の学芸員は、考古資料から応神天皇が実在であるなら、その祖父に当たる日本武尊の墳墓は津堂城山古墳、軽里大塚古墳は倭の五王の一人、安康天皇の墳墓だと推定している。軽里大塚古墳は5世紀で日本武尊は2世紀ころの人だから、白鳥陵を日本武尊と関係づけるのは年代的に無理がある。羽曳野市としてはどうなのだろうか。

上左:古市駅前踏切、この道は竹内街道 同右上;古市中心部の史跡マップ 同下:白鳥通り(竹内街道)を西へ

白鳥陵を見ながら街道を歩く

 そのことはさて置いて、旧の国道170号線との交差点を左折して南へ行くと、急坂の細い道が見えて、それに吸い込まれるように入って行く。羽曳野撓曲につながる中位段丘の登り口で、曲がりくねりながら住宅地の中を行くと、目の前に白鳥陵が現れる。外濠に沿って散歩道が整備されていて、200mもある白鳥陵の長い墳丘を眺めながら歩くのは気持ちが良い。

上左:竹内街道を行くと白鳥陵に出る 同右上:旧国道170号線から竹内街道への道 同下:住宅街を曲がりながら進む街道 下左上:羽曳野市域の地質図(羽曳野市史より) 同下:白鳥陵墳丘を見ながら竹内街道を歩く 同右:降り返ると駒ヶ谷の山々が…

 白鳥陵は羽曳野丘陵の裾地から突き出た中位段丘の全体を占めていて、二重の濠を掘る余地はなかった。この段丘の縁に沿って古市大溝が開削され、古墳の西南から東側を取り巻いて、北側で西北方に流れ、古市大溝遺跡とされるイズミヤ駐車場に至る。その間隙を縫って竹内街道が通るが、街道は濠端から軽里の町中を通る。途中に大きな屋敷、旧浅野家住宅がある。江戸期から油絞り業が営まれ、その後酒造業に転じたが、天保3年(1832)に建てられた家がそのまま残っている。オキナ酒造という屋号だが、「翁千歳」という清酒があったのを思い出す。「万里の春」というのもあったが、現在富田林でクラフトビールの酒造会社として、名称が復活している。こういう形で昔の河内が復活するのは、やはり嬉しい。世界遺産とも関係づけて観光の盛り上げを狙って、ミュージアム付きの公園・イベント広場として開発する計画があるという。

上左:竹内街道は軽里の町中を通る 同右:軽里の古い町並み 中左:街道に面した長屋門のある旧浅野家住宅 同右上:主屋 同下:広場から主屋を見る 下左上:白鳥通り近くの街道 同下:陸橋から見たLICはびきの 同右:羽曳野丘陵上に峰塚中学校、城山病院、下方に峯ヶ塚古墳、手前に芦が池

 再び白鳥通りに出て、外環状線を渡る立体歩道橋に上ったが、これがなかなかの絶景ポイント。羽曳野丘陵から古市の市街地、その中に古墳の緑が点在して、この町の在りようがよくわかる。右にLICはびきの、左に峯ヶ塚古墳を眺めながら降りて行く。

峯ヶ塚古墳

 LICはびきのの市民大学や図書館に行くときは必ずその東側を通るので、私の最も親しい古墳の一つだ。昨秋には墳墓前方部右裾の発掘調査見学会にも行ったし、市民大学の講座で峯ヶ塚古墳の発掘調査の苦労話も聞いた。そんなことをまとめると、墳丘長96m、前方部幅74.4m、高さ10.5m、後円部は径56m、高さ9ⅿの前方後円墳。古墳には造出しと二重の濠があるのだが、それは北側にのみある。墳丘の上段斜面には全体に葺石が貼られていて、造出しの付け根には高さ352㎝の大型石見型木製埴輪が立っていたのだが、それらは皆北側にのみ作られていた。つまり、北側の二重の濠の外堤に沿って東西に伸びる竹内街道を通る人々へのアピールだった。竹内街道を通り、仁賢陵を見てきた旅人はここで東へカーブし、峯ヶ塚古墳の優雅な二重の濠、さらに白鳥陵、安閑陵と美しい古墳を次々と見て行く。河内政権の偉大さと河内という国の豊かさを目の当たりにしたであろう。人目への見栄えを重視した古墳づくりの妙技を見た思いがする。

上左上:竹内街道から見た峯ヶ塚古墳の全景 同下:後円部北側 同右:竹内街道沿いにのみ二重の濠があった峯ヶ塚古墳模式図 下左:後円部から前方部を見る 同右上:前方部と濠 同下:大型石見型木製埴輪の発掘現場(羽曳野市HPより)

峯塚公園は浸食谷の景観

 白鳥通りは峰塚公園入口を越えると、羽曳ヶ丘の住宅地への急坂を登る。峰塚公園の際にあるマンションは高さ4~5mもありそうな擁壁で区切られている。この辺りに撓曲が走っていたのだろう。公園の方に回ると撓曲の段差は西の奥の方に曲がっているが、この辺りのへこみは浸食谷で、上面の土は押し流されたのだろう。その谷が下ったところに峯ヶ塚古墳が立地していて、峯ヶ塚古墳の濠自体がため池機能も持っていたのだろう。さらにその下には大きなため池、芦が池があり、外環状線がこの池を分断している。北からの撓曲線を延長すると、峯ヶ塚古墳の前方部外濠の外提の線が撓曲面だったように思われる。断層で盛り上がり、川の流れで浸食されたり、激しい地形変化のあった場所だが、今はなだらか丘陵地になり、年寄りの散歩や保育園児の遊び場になっていて、のんびりした雰囲気だ。

上左:峰塚公園に隣接してあるマンションの擁壁 同右上:羽曳が丘へと登る白鳥通り 同下:峰塚公園北側の擁壁土手 中左:峰塚公園全景 同右:峯ヶ塚古墳から峰塚中学校の撓曲崖を巡る歩行軌跡(カシミール3D) 下左:外濠の南西から見た峯ヶ塚古墳の全景 同右:古墳の東側にある芦が池、彼方に二上山

 古墳の前方部外濠の線を南に延長すると、峰塚中学校のグランドの外周崖の線につながる。これは自然崖で元々の撓曲崖に違いなく、そのまま学校給食センターの擁壁につながっていく。中学校は羽曳野撓曲の上に建てられているのだ。峰塚中学校はあのダルビッシュ有の通っていた学校、ダルは我が娘の2年下で、1年間は同じ学び舎で過ごしたことになる、ま、どうでもよいことだが…。

上左:峰塚中学校グランドの回りの撓曲崖を包む石垣 同右上:北側の木陰から見たグランド 同下:清寧陵への道から見上げた峰中、緩やかな撓曲崖が続く 下左:撓曲崖下の坂 同中:グランドに続く給食センターの撓曲崖 同右:峰塚中学校のグランド、奥の一段高いところに校舎がある

最大の撓曲崖

 この崖がだんだん大きく、むき出しになってくる。標高を調べると、峰中のグランドが49.5 m、その下の公園は42 m内外、7 m以上の段差がある。中ノ池北側の恐ろしいほどの急崖の段差は4~5mだったから、2倍に近い段差があり、本格的な撓曲崖だ。峰中のグランドを見渡すと、その奥、南側に校舎が見えるが、そこは一段高い台地にあり、さらに大きな段差を持つ撓曲崖のようだ。その崖はどんな状態なのか、近くで見たいと住宅地に入って行く。一見すると、傾斜地に建つよくある住宅地に見えるが、奥へ行くにつれ様子が違ってくる。だんだん坂が急になり、道が複雑に入り込む。どん突きまでで行くと、その先には進めない、絶壁のコンクリート壁が行き先を遮る。壁の上に行く抜け道のようなものは見当たらない。ということは元から絶壁で昔から行き来ができなかったのだろう。住宅地をほぼ一周するが、どこも5m以上あろうかというコンクリート擁壁で囲まれていて、どこも行き止まりだった。崖上、崖下含め、撓曲そのものに住宅を建てることの厳しさがあるな、と思いながら坂道を下るのだった。降りたところが、清寧天皇陵だった。

上左:住宅街のどん詰まりは峰塚中学校の擁壁だった 同右:5mはあろうかという撓曲崖の擁壁の上に家々が並ぶ 中左:そびえるような擁壁上に並ぶ住宅 同右上:住宅街の急坂 同下:急坂の住宅街には教会もある 下左:急坂の住宅街は、昭和36年(1961)当時起伏激しい山地で、羽曳山に登るジグザクの道もあった。左下のように「羽曳が丘住宅」として開発され始めていた 同右:急坂の住宅街や羽曳山を登った歩行軌跡(カシミール3D)

清寧天皇陵

 清寧陵は撓曲崖の下の方、なだらかな坂の途中にある。墳丘長115m、前方部幅128m、高さ11m、後円部径63m、高さ10.5m。前方部幅が後円部径の2倍に達しており、前方後円墳としては最も前方部が発達した形態で、前方後円墳という墳形の最終段階を示すものと考えられている。雄略陵(岡ミサンザイ古墳)、仁賢陵、峯ヶ塚古墳、清寧陵と見てきたが、これらは羽曳野撓曲の上、中、下の位置に築かれている。中位段丘上にある白鳥陵や安閑天皇陵も含めて、これらは竹内街道沿い、また近傍の街道沿いに並び、どれだけ見栄え良くするかに工夫がなされている。段丘上で墳丘を威風堂々と見せる雄略陵、二重の濠の美しさを見せる峯ヶ塚古墳、前方部を誇張して大きく見せる仁賢陵、その最たるものが清寧陵だった。清寧陵の前方部は道路沿いにあり、ピロティ方式のマンション1階駐車場からよく見渡せる。この古墳も古市古墳の特徴である「まちなか古墳」で、住宅が外濠外提の間近に迫っている。なぜこの位置にあるかと考えれば、ここの撓曲崖は最大限に大きく、撓曲崖の最大標高は58mあり、崖下は45m程度だから13m以上の段差がある。こんなに段差があれば古墳など造れない。そういう理由で、傾斜が落ち着いたところ、43ⅿ~39ⅿの高低差のところに設置した、そういうところだろう。それでも外濠には前方部付近には水量調整用の土手が築かれて、高いところから低いところに水が流れ込まないようにしている。

上左:清寧天皇陵にもアパートや戸建て住宅が迫っている 同右上:清寧陵前では、峯ヶ塚古墳へ進む真っすぐの道と右に曲がって白鳥陵へ行く道に分かれる 同下:清寧陵拝所 下左上・下:清寧陵の前方部 同右:外濠は前方部近くに土手を作り水量調節する。外提の間際まで住宅が迫っている

羽曳山への道

 新興の住宅地ができる以前からだが、「羽曳山」へ上る道は昔から付いていた。峯ヶ塚古墳から清寧陵をつなぐ道も古く、山へ登る道と交差して旧村である西浦の集落に入って行く。羽曳山への坂道をしばらく登ると、急坂になりその両側には高い土手が築かれている。左側は乙ヶ池というため池の堤防で、標高53m。道との段差が3m程度、一帯は住宅地として整地されているので段差は目立たないが、この土手は峰塚中学校の東縁に走っていた撓曲崖の延長線上にある。池を越えると道は右に急カーブする。これ以上急坂を上りきれず、たまらず曲がった、という感じだ。このカーブも昔からあった山道だった。さらに左に曲がると右に入る小道があって、それが峰中へのアプローチ。丘陵上に建つ城山病院や掛かり付けの医院に行く時はこの道をを使うが、アシスト付きといえど、自転車ではしんどい坂道なのだ。校門前のマンションの崖下に荒れ地が広がっている。この崖は峰中の校舎があった高台とつながっていた。さらに下に続く家並みを見ていると、屋根が少しずつ低くなっていくが、崖が何段か続いていることがわかる。一番下に清寧陵の森が見え、その彼方に二上山がそびえている、というような羽曳野撓曲が作る現代風景がある。真下に見える荒れ地にもいずれは住宅が立ち並ぶのだろう。

上左:羽曳山への坂道。撓曲が通る付近は左に池の堤防(同右上)、右に駐車場用の土手(同下)を築いている 中左上:乙ケ池 同下:乙ケ池上部に続く崖 同右:右に急カーブする坂道 下左:続いて左にカーブ 同中:峰塚中学校の校舎から続く崖 同右:崖上からの眺望。何段かの崖に建つ家並みと清寧陵の森、彼方の二上山

西浦の村中へ

 LICはびきのへ行く時、旧村の匂いがする西浦の町中を自転車で行くのが好きだ。羽曳山へ登る道と交差する手前で、急坂の難所が待ち受けているのが玉に瑕だが…。私の出身小学校は西浦小学校と言って、この西浦とは同じ校区でもあり、友達も多くいた。祭りや何やかや、親戚もあって、よく遊びに来たところなので、大体の地形は知っているのだが、この地に撓曲という断層が走っていたとは知らなかった。

上左:西浦の外れから羽曳山への道に通じる急坂 同右:撓曲崖を訪ねて西浦の町中を歩いた軌跡(カシミール3) 下左:西浦を通る道は昔懐かしい旧村の風景を作る 同右上・下:一歩中に入ると板塀の屋敷と細い路地が…

 旧家が並ぶ落ち着いた町並みを歩くのは気持ちが落ち着く。今日は春休み前の終業式があったようで、子どもらはまだ昼前だというのに帰ってきていた。西浦文化会館を過ぎたところ、山側に延々と坂道が伸びていて、その先に鳥居が見える。西浦の地元神、日吉神社への道で、秋祭りにはだんじりがこの坂をエッチラオッチラ上って行く。なだらかな坂がしばらく続くが、鳥居の前およそ30mくらいから目に見えて急坂になる。道端の駐車場の土手が3m以上あることから見ても、この辺りが一つの撓曲崖であろう。峰塚中学校下の地形からもわかるが、撓曲の造る崖地形は、何段かに分けて出来ている。鳥居を越えるとまたなだらかな坂道になり、神社の境内へ上る石段が急で、ここが二つ目の撓曲崖なのだろう。神社より上には家は建っていなく、恐れ多い神さんは一番高いところに棲み、村人を見守っている、そんな姿である。

上左:日吉神社参道にある石鳥居 同下:鳥居下は急こう配の坂 同右:西浦の町中を通る道から日吉神社まで、坂の参道が見通せる 下左:日吉神社への参拝用の階段とだんじり道(右側) 同右上:四脚鳥居のある境内 同下:神社から参道沿いに切り取った断面図。石鳥居前で撓曲崖と思われる大きな段差がある

 

 西浦の町中に入ってみると、あちこちに崖地があったり、急坂が突然出てきたりする。崖の下のへた地を児童公園にしたり、段々畑があったりと、じっくり歩いてみてわかったが、西浦の町は撓曲とともにある町なのだ。(探検日:2026.3.24)

上左:日吉神社参道の急坂 同右上:段差を利用した児童公園 同下:住宅の間の急坂 下左上:急坂の路地道 同下:撓曲崖付近の段々畑 同右:急坂が突然現れる
author avatar
phk48176
古市古墳群まで自転車で10分、近つ飛鳥博物館まで車で15分という羽曳野市尺度に住まいする古代史ファンです。博物館主催の展示、講演会、講座が私の考古学知識の源、それを足で確かめる探検が最大の楽しみ。大和、和泉、紀国、河内の歴史の舞台をあちこち訪ねて「My古代史探検」としてブログにアップしています。いろいろな意見をいただければ嬉しいです。
投稿者:

phk48176

古市古墳群まで自転車で10分、近つ飛鳥博物館まで車で15分という羽曳野市尺度に住まいする古代史ファンです。博物館主催の展示、講演会、講座が私の考古学知識の源、それを足で確かめる探検が最大の楽しみ。大和、和泉、紀国、河内の歴史の舞台をあちこち訪ねて「My古代史探検」としてブログにアップしています。いろいろな意見をいただければ嬉しいです。

おすすめ

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください