高地性集落を行く撓曲線(藏之内~喜志)

 羽曳野市域を行く撓曲としては最終地点に差し掛かっている。倭国大乱による高地性集落があったとされる藏之内や尺度の集落、この高地性とは羽曳野撓曲の表れでもあった。銅鐸が発掘されたり、古代における渡来人が活躍した足跡を多く残す地域でもある。古代史の流れとともに撓曲という地形を読み解いていく。

蔵之内から喜志まで、羽曳野撓曲をたどる軌跡(カシミール3D)

羽曳が丘は60年前の開発

 藏之内への道は撓曲線から離れ、少し引いた位置から羽曳野丘陵を眺めるようになる。住宅が建ち尽くしたなだらかな丘が南北に伸びている。車で羽曳が丘を通る時は、5丁目交差点への道を利用するのだが、その途中にゲートのような面持ちで高さ10mもあろうかという石垣がそびえている。実はひまわり園という社会福祉施設の擁壁なのだが、この石垣が撓曲の崖を物語っている。石垣の対面は道路より一段落ち込んでいて谷地になっている。谷縁沿いに南に行くと、谷に下る道がついていて、そこは表の住宅街とは打って変わって放ったらかしの荒れ地だった。住宅側には石垣が積んである。羽曳が丘の住宅は60年ほど前の開発だったから、今ならコンクリの擁壁にするところ、そのころは石垣だったのか、または元々石垣を積んだ段々畑だったのだろうか。

上左:坂道の途中、高さ10ⅿの石垣がそびえる 同右上:藏之内辺りの羽曳野丘陵には住宅がびっしり 同下:羽曳が丘5丁目への道 中左上:住宅内から坂を下る 同中:羽曳が丘住宅の東縁の段差 同右:坂道左側の段差 下左:石垣は元からのものか? 同右:藏之内周辺の歩行軌跡と標高記録(カシミール3D) 

蔵氏の拠点だった藏之内

 段差を横切る坂道を下って行くと住宅街を外れ、いつしか藏之内の集落に入っていた。藏之内は古代から古市郡に属す村だった。王仁(わに)に始まる西文(かわちのふみ)氏の氏寺である古市西琳寺を支えた一族の中に蔵氏があり、小字名の藏之内を拠点にしていたという。推古天皇の時代からの古い村であったとされる。そのような古いものがあるのか探りながら藏之内を見ていこう。

上左上:神社への坂道 同中:坂道途中にある光福寺 同下:上から見た坂道 同右:神社前の急坂 下左:藏之内日吉神社から集落を通して二上山を見る 同右上:神社鳥居前 同下:鳥居下階段を上り広場に出たら境内への階段、そこからまた階段を上り祠へ

 西浦から続く撓曲線が村中を通っていて、斜面地にへばりつくような形で家々が建っている。中心軸とみられる坂道を登って行くと、光福寺という寺が右手の崖の上にあり、その左手の坂を上ると村の鎮守さんの蔵之内日吉神社の鳥居がある。それをくぐり急な石段を上ると小さな広場、その先にさらに石段があり、石燈篭のある境内、もう一つ石段を登りやっと拝殿に至る。荒い息も収まらないまま手を合わせ、振り向くとそこには二上山が彼方にそびえる南河内の平野が目に飛び込んできた。麓から階段の分の高さ、10mの段差のある撓曲崖があるということになる。神社の左脇のさらに急な坂道を登ると羽曳が丘の住宅地になるが、神社の周辺で擁壁を作りたくなかったのだろう、地続きで新興の住宅地に行ける。逆に新興住宅は旧村の中にも進出していて、敵対してるふうでも、中睦ましいという感じでもない。坂を下って旧村の中に入って行くが、急峻な狭い道が縦横に走っている。何百年も前、ひょっとして1500年も前の古代からさほど変わっていないのかもしれない。急斜面に家を建てる様々な工夫があって、見ていて飽きない。

上左:神社左側の急坂を上ると羽曳が丘住宅に行ける 同右上:神社付近の住宅との段差、この下に集落が広がる 同下:集落内の下り道 下左:集落中央部、坂道沿いにある石垣が美しい 同右:坂に沿って鋭角に切り込まれた藏建物の石垣

 

農林センター

 藏之内をやっと抜け出したところに「農林センター」、地元では昔の名前でそう言い合っているが、今の名は(地独)大阪府立環境農林水産総合研究所。略称、おおさか環農水研の本部があって、主に環境と食・農の研究部があり、ワイン用のブドウの品種開発や農業大学校なんかもある。私の朝の散歩コースでもあるのだが、緑化展示園や温室が並ぶ研究施設などを通り、本部棟の前の広場を横切って歩くのである。車用の道路は緩やかな坂道に整地しているが、本部までの傾斜地に明確に段差のある台地が3本作られている。どの段差が撓曲崖だとはっきり言えないが、8m程度の標高差のある一番大きな段差、本部前の一段目がそれに近いように思う。昭和38年(1963)に大阪府農林技術センターとして始まったが、それ以前に、私が小学5~6年生ころ造成工事をしていて、大型ブルドーザーが行きつ戻りつして山の赤土を押し出していたのを教室の窓から眺めていたものだ。藏之内から少し湾曲しながら入ってきて、本部前の段差の線とつながり、そのまま真南に進む。

左上:農林センターの藏之内入口に沿った撓曲崖と思われる段差 同中:センター本部棟への段差 同下:野菜などの試験圃場に温室が並ぶ 同右:農林センター周辺の歩行軌跡と標高記録(カシミール3D) 中左:本部棟台地から見た南方面、竹藪には尺度遺跡があった 同右上:本部棟台地から段差上にある試験圃場を見る 同下:センター外、谷部から撓曲東縁に沿う道を見る 下左:センターから動物愛護管理センター越しに竹藪を見る 同右:竹藪縁沿いの道は広田池に行く古来の道、現在は動愛センターを取り巻く

 農林センターの南口から出るとそこは浸食谷の低地で、撓曲崖はいったん切れる。今はこの谷地に大阪府動物愛護管理センターがあるが、その上に谷を堰き止めたため池である広田池がある。実家ではこの奥に山を持っていて、子どものころにはよく遊びに来たものだ。谷地の縁に沿って小道が付いていて、そこを通って広田池まで行き、山道を登っていった。何もなかった頃の里山の風景が懐かしく思い出される。20年も前になるだろうか、南阪奈道路が開通してすっかり風景は変わってしまったが、私の住まいのある尺度の集落からこの谷地へ続く道は昔のままの位置にあるようで、竹藪の下を歩く道だった。農林センターの段差を延長すればこの竹やぶに撓曲線が走っているように推測できるのだが…。

高地性集落の尺度遺跡

 農林センターから谷地を挟んだ南側の丘陵地に、100m四方くらいの広さで弥生時代後期の集落、尺度遺跡があったとされる。1900年代前半からの鋳型素材の土砂採取のため、大半が削り取られ本来の地形をほとんど失った。土取り山と呼ばれ、赤土がむき出しになっていて、大型ダンプの出入りが激しかったのを幼少のころの記憶としてある。

上左:尺度遺跡があった雑木や竹藪の林 同右:近代には土取り山だったことから遺跡は削り取られている 中左:尺度遺跡周辺の空撮(昭和36年・カシミール3D) 同右:尺度遺跡位置図(羽曳野市史より) 下左上:尺度遺跡(円内)周辺空撮(昭和49年・カシミール3D ) 同下:尺度遺跡(円内)周辺空撮(平成16年・カシミール3D ) 同右:遺跡の南半分を切り取る形で南阪奈道路が通る

 ここと、農林センター、先ほどの藏の内の山地でも弥生集落が形成されていて、それぞれ関係があったとされる。南東1.3㎞のところには、弥生中期に最盛期を迎えた喜志遺跡があり、二上山のサヌカイトを加工し石器製作を行い、ここを拠点に大阪平野、また紀州などとの交易中継点でもあり、大規模な環濠集落を形成していた。卑弥呼の登場以前、倭国大乱とも言われる戦乱の時代の弥生後期には没落していくが、集落に居住する人々は駒ヶ谷や尺度や藏之内といった標高の高い場所に移り住んだとされる。つまり、尺度遺跡は弥生後期の高地性集落を形成していたと推測される。ここから北東550mに私も通った西浦小学校があるが、ここで昭和53年(1978)に近畿式の代表的な銅鐸が完全な形で発掘された。平成3年(1992)に国の重要文化財に指定されたが、西浦銅鐸の発掘地は尺度遺跡からは見下ろす位置にあり、銅鐸を埋葬する儀式には何らかの参加がされたであろうと推測される。尺度地域一帯には目立った発掘物はないものの、竪穴住居はもちろん掘立柱建物跡、様々な土器類も多数発掘され、弥生期から中世にまで続く集落跡だと考えられる。古代から連綿と続く歴史の舞台に我が祖先も暮らしていたことを思うと、ちょっと誇らしくもあるのだが…。

由緒古い利雁神社

 南阪奈道路をくぐり尺度の集落に入って行くと、西側に撓曲線と思われる段差があって、その線が我が産土、利雁神社にまともにぶつかっている。祠は崖の真上にありそうで、崖地を削って祠のスペースを確保している。以前古老に聞いたところ、祠の上に2段3段と敷地が続き、大きな境内を持っていたというが、今は小さなかわいい祠に納まっている。尺度は東西合わせて120軒余りの集落だが、お宮さん当番があり、20年に一回くらい当たる。正月飾り、夏祭りや秋祭りの提灯飾り、神社掃除に年末の正月祈祷代金徴収など、年行事が一年を通じてあり、それなりに大変ではあるが、何といってもご近所づきあいへの気配りが最も重要である。私も母親の言い伝えでもあるかのように、毎月一日、十五日のお宮参りは欠かさない。お願い事は特段ないが、日々の安寧な暮らしへの感謝の意を伝えることにしている。

上左:尺度への入り口にうず高い土手がある 同下:奥まったところの池の堤防 同右:雑木や竹藪に囲まれて利雁神社がある 下左:尺度~平町の撓曲崖をたどって歩いた軌跡(カシミール3Ⅾ) 同右上:坂下から見た神社 同下:祠前には石灯籠と狛犬が一揃えある

 利雁神社は延喜式神名帳に記載された式内社であることから、927年以前には創建されていたようだ。創建者については諸説あり、依羅(よさみ)氏が創建したと伝えられ、祭神は依羅氏の祖神である饒速日 (にぎはやひ)命とする。また、戸刈池を管理した渡来系の利刈氏の祖先を祭るために創設されたという見方もあり、利雁神社は、戸刈山に鎮座し「王の宮」とも称されていた。室町時代後半に入ると、一帯が比叡山の荘園となり、周辺の藏之内や西浦のように、日吉大社から大山咋神を勧請して日吉神社が建てられた。これにたいして周辺住民は利雁神社から離れていき、衰退したという。戦国時代に入ると、兵火により社殿は荒廃し、消滅の危機を迎える。しかし氏子たちの働きにより、現在地に遷座して村社として復興。明治40年(1907)に美具久留御魂神社に合祀したが、後に旧地に復社し現在に至る。ということで、美具久留御魂神社とともに利雁神社は2社存在する状態にある。推古天皇も認識していたというほどの古くて格式ある神社だったことがわかり、おろそかに扱ってはいけないと再認識するのである。

里山風景の平町

 宮さんの裏山を西山と呼んでいたが、春先の山開きの日にはお寺で餅撒きをするほど生活に身近な存在だった。現在は羽曳野丘陵と言って宅地開発が盛んだが、昔は山菜や竹の子などの食料、柴などの燃料、家普請の時は木材、ブドウやミカン、お茶の栽培など、生活必需品を供給する重要な場所だった。そんなことを思い出しながら、山を下り家々の間を南に向けて抜けていくと、平町の集落に入って行く。長年来たこともなかった集落はずれの里山は、遠くの見知らぬ山村を旅している雰囲気だ。里山を通る撓曲線がそのまま集落の真ん中を走っているようで、あちこちに崖や急坂がある。集落の上にため池があり、その横を抜けて山に入って行く道がついている。中学時代の友達の家に何度か遊びに来ていて、竹の子堀りなど教えてもらったことがあるが、こんなに坂道があるとは思わなかった。

上左:平町への入り口、うず高い畑の土手 同右上:山際まで畑が切り開かれている 同下:山村風景の雰囲気 下左上:町中にも段差が通る 同下:山に通じる道 同右:山からの坂道に家々が並ぶ

羽曳野撓曲、一旦終了

 平町の集落を外れたところに大きな崖が現れた。ここは私の散歩のロングコースに近いところで、遠目にいつも見ているところだが、そばまで来たのは初めてだ。竹藪になっている撓曲崖が田畑の際に落ち込んでいる。この崖が梅の里住宅の真下で、大きな堤防に続いている。水が枯れて空堀になっているが、50m四方程度の池の堤防が撓曲崖となり、梅の里への道にぶち当たる。道を反対側に渡ると、崖はしばらく南に向かうが、いつしか消えている。あっけなく羽曳野を通って来た撓曲線は終了してしまった。ここまで来て足の疲れを癒しながら、実にいろいろな崖や急坂の風景があったなと、回想するのだった。深い地下に横たわっている断層などに、誰も思いを寄せることはないだろう。向こう何万年も活動することはないということだが、人を寄せ付けない切り立った断崖ではなく、撓曲という断層に地層が覆いかぶさった緩やかな崖風景だからだ。人々はこの坂のある町で、旺盛に日常生活を送っているのだった。(探検日:2026.3.24)

上左:梅の里への道から撓曲崖の堤防が平町まで伸びる 同右上:平町南端には自然地形の撓曲崖がある 同下:急坂の梅里からの道 下左上:梅の里住宅地の下に撓曲崖の堤防が支える 同下:撓曲線が消えた彼方にPLの塔が見える 同右:道路を越えて撓曲崖がしばらく続く

 喜志から南方への撓曲線は、少し東に筋を変えて走っているようだ。後日また、富田林や河内長野方面に向けて探検を始めたい。乞う!ご期待。 

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phk48176
古市古墳群まで自転車で10分、近つ飛鳥博物館まで車で15分という羽曳野市尺度に住まいする古代史ファンです。博物館主催の展示、講演会、講座が私の考古学知識の源、それを足で確かめる探検が最大の楽しみ。大和、和泉、紀国、河内の歴史の舞台をあちこち訪ねて「My古代史探検」としてブログにアップしています。いろいろな意見をいただければ嬉しいです。
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