連休も終わり、気候も落ち着いてきたある日、撓曲(とうきょく)崖探しを再開する。羽曳野撓曲としては先日の梅の里下で終了するのだが、これ以南は180mほど東に移動して新たな丘陵地と崖地が始まる。その間には浸食谷が南北に走り、ウサイ池、辰池という細長いため池が連続している。実は撓曲はつながっていて、浸食谷によって分断されて見えるだけかもしれない。

富田林背斜に沿って、喜志から新堂まで歩いた軌跡(カシミール3D )
羽曳野撓曲~富田林背斜
自然地形としては深部の断層の上を大阪層群が乗ってなだらかな崖地形を成しているが、富田林市史では、「羽曳野撓曲」という名称は一切出てこなく、地層が左右から押され褶曲して上に凸状に曲がる構造を「富田林背斜」と名付けている。地下に断層はあるとしてもその影響よりも褶曲による地形だという。この背斜は羽曳野丘陵の南端部の錦織まで続くので、河内長野市域に入らず、ちょうど富田林市域内で完結する。そのこともあって、同市特有の地形だということで「富田林」に固執したのか。だったら「撓曲」という名称は残してもよさそうなのだが、「背斜」と呼んでいる。富田林市としては地下に断層があることに言及したくないのかも知れないが…。




左:羽曳野丘陵東縁に点在する古墳や史跡、施設(カシミール3D ) 右:左右から押されできる地形=撓曲・褶曲(背斜・向斜)
左右からの圧迫によって地層が盛り上がり褶曲地形を作り、部分的に逆断層が起こりその上に大阪層群の地層が重なり滑らかな崖地形を生み出す場合は「撓曲」と言い、その圧迫が強く、地下に断層があったとしても、地層の凸状の盛り上が強烈で急崖を作る場合は「背斜」と言うことのようだ。逆に凹状にへこむ場合は「向斜」と言う。藤井寺市の説明では藤井寺市から富田林市に続く全体を「羽曳野撓曲」と呼んでいる。羽曳野丘陵東縁に沿って伸びる急崖は同じ地質学的な現象だと思うが…。地質学に詳しくないので、それぞれの市史の説明にに沿って、「撓曲」と「背斜」と使い分け、富田林市内における羽曳野丘陵東端の急崖のことを「背斜」という言い方で述べていきたい。
宮町3丁目住宅
富田林背斜の取っ掛かりと思われるのが宮町3丁目住宅だ。昭和60年以前に造成が始まっていて、60年代初めにはすっかり住宅街に姿を変えた。私が働き盛りに入ろうとしていた頃で、喜志駅が大幅に改造され、通勤客が急に増えてきたのを覚えている。昭和から平成になる頃、複線化や最大8両連結になり、自動改札とともに駅改札が地下になり、東西の出入り口にロータリーができた頃だ。昭和30年代の羽曳が丘住宅開発に比べ、バブル期の開発はすさまじいものがあり、羽曳野丘陵の緑がどんどん減少していくのを通勤電車の車窓から見るのが悲しかった。

上左:喜志駅から宮町3丁目の背斜地形に沿って歩いた軌跡(カシミール3D ) 同右上:喜志駅西口 同下:私が週一で行くカラオケ・パンドラ 下左:辰池からみる浸食谷、左は宮町3丁目住宅 同右上:外環状線旭ヶ丘交差点、右に行けば喜志駅 同下:梅の里下羽曳野撓曲の続きと思われる小さな崖、これが富田林背斜に続くのか?
宮町3丁目の住宅地には、70軒余りの分譲住宅が建つ。標高63~4m程度で、周辺から8m程度の高さの丘陵地を作るが、北側から南に向けて登って行く坂道が富田林背斜の始まりと言える。この住宅地の東縁を高さ5mは超えるコンクリート擁壁が取り巻いていて、圧巻の峩々たる風景である。宮町3丁目住宅の擁壁の隙間に階段がついていて、東側に降り、水路沿いに南に行くと宮町北墓地に入いる道が付いている。墓地越しに背斜崖を見ると、先ほど行った住宅地の南端の家々が見え、その中の一軒の家は崖下の土地も庭として購入され、様々な樹木が植えられて、一部果樹園になっていそうだ。かつてジャワで見た邸宅を思い出す。燦々と注ぐ太陽の元、バナナやマンゴーを取り入れて、バルコニーでフルーツフルな食事をする南国らしい豊かな生活がうらやましく見えたものだが…。
上左:住宅地東縁の擁壁、8ⅿ程度あろうか 同右上:富田林背斜の始まりは北側からの上り坂 同中:住宅街風景 同下:東側に降りる階段 中左:住宅の東側を買い取り樹木園にしている 同右上:住宅地の南の行き止まりは竹藪 同下:宮町北墓地 下左:南国風の果樹園に見える 同右:墓地への登坂
麓に降り昔からの道に戻る。この道は喜志の宮さん、美具久留御霊神社に参拝するときの道で、地元では巡礼道と呼ばれていた。西国三十三カ所五番札所葛井寺から岡ミサンザイ古墳の東側を通り、野中寺、竹内街道、仁賢陵、峯ヶ塚古墳、さらに清寧陵、西浦、藏の内の集落を通って喜志の宮さんに至る、さらに東高野街道などとつなぎ歩き、滝谷不動尊や観心寺、四番札所の槇尾山施福寺までお参りしたら完璧だ。江戸期後半には「信仰の旅」と称してお寺参りの物見遊山をしていたのだろうと思う。今はニトリが建っているがその反対側、西に入ると山の方まで道が伸びている。徐々に急坂になり、ついに崖となるところに階段が付いている。登ると崖沿いの細道に住宅が程よく並び、眼下に二上山から葛城の山々が一望できる壮観な風景が広がる。この斜面に住む人たちは、毎朝山並みから上がるお日さんを拝めて幸せな気分になるだろうな。
上左:喜志の宮への道 同右上:宮さんへの道 同下:住宅地への坂道 中左上:坂道の行き止まりに階段 同下:階段を上ると住宅前に細い道が付く 同右:崖の上に並ぶ住宅 下左:周りに花や木を巡らせた住宅 同右:崖上から眺める二上葛城の山並み
美具久留御霊神社の杜
南方のこんもりした樹木の中に入って行くと、そこは美具久留御霊(みぐくるみたま)神社の杜だった。地元の有力者の方が呼びかけ人になって、全国の一ノ宮を詣でる参道を整備されている。それはちょうど神社の杜を一巡りするコースともなるようだ。 神社は我が家の氏神様であり、正月の初詣をはじめ、孫の宮参り、地鎮祭、秋のだんじり祭りや折に触れての寄付など、地縁の深いところだ。年に何度も訪れるが、まずは本殿の右端に摂社として祭られる地元神の利雁神社にあいさつする。
上左:うっそうとした神社の杜 同右上:一の宮参道の入り口 同下:東海道15か国一の宮の案内板 下左:上拝殿から本殿を拝む 同中:摂社の利雁神社祠 同右:境内案内図、本殿の周りに摂社が並ぶ
「奥神籬 天神奉斎所」
今回の目的は御神体山の山頂にある古墳を見つけること。地図では本殿の真裏に位置しているが、起伏のある土盛があちこちにあり、どれが古墳なのかわからない。人が歩いた踏み跡を伝っていくと、紙垂を飾った結界の縄を見つけた。それ伝いに回って行くと、竹で作った鳥居があり、そこが古墳後円部への入り口になっている。円墳らしき盛り上がりがあって、石碑が立っている。「奥神籬 天神奉斎所」とあるが、神籬(ひもろぎ)とは、神霊が降臨する神聖な場所で、神を祭る場所のことだが、ここが神社の社殿が建てられる以前の祭祀空間だった。この古墳の被葬者を祭ることから始まったように思うが、神社の原点がここにある。そう考えると神秘性を感じるようになってきた。

上左上:紙垂を飾った結界縄を伝って行くと… 同中:後円部への入り口に 同下:神社裏山古墳群墳形実測図 同右:後円部が 「奥神籬 天神奉斎所」になる 下左:美具久留御霊神社から南旭ケ丘町への歩行軌跡(カシミール3D ) 同右:境内案内図には本殿の上に奥神籬の表示もある
説明板には美具久留御霊神社裏山古墳群を成す4基ありとし、これがその内の第1号墳。全長58m、前方部幅24m、後円部径30mの前方後円墳で、土師の里にある鍋塚古墳、南旭ケ丘にあった眞名井古墳などと同時期で、4世紀後半の築造とみられている。羽曳野丘陵の山頂部には、いたるところに古墳があり、それも古市古墳群が築造される以前のものが多いが、これはまたゆっくり…。本殿にもどり、拝殿の方へと石段を下りていく。この石段がまた急で、背斜の崖そのものに石段を付けたと思われる。正月には拝殿で祈祷してもらってこの石段を登って本殿に参るのが恒例とだが、何度も休憩しながら登ったものだ。


上左:拝殿から本殿への急階段 同右上:参道から拝殿を見る 同下:下拝殿辺りから見ると鳥居の上に二上山が浮かぶ 下左:『河内名所図会』に描かれた神社、本殿への急階段が目立つ 同中:裏山山頂付近から本殿、拝殿を通る断面図の切取線 同右.:急階段の約31度の傾斜を描く断面図
南旭ケ丘住宅
今回の古代史探検の序の口だというのにだいぶ遠回りをしてしまった。これでは何時間あっても足りない。背斜そのものを感じるような南旭ケ丘住宅への急坂を登る。神社の急階段のあった背斜地形がこの坂に続いている。距離100mに対する標高差7.5mという傾斜の角度は4.3度と大した事なさそうだが、歩くととてもつらい急坂なのだ。上ノ池、スリ鉢池を回り込み、住宅地の東側の端に沿って歩く。道は左に分かれ 麓へと降りていくが、その擁壁の高さは10ⅿもあろうかと思えるが、これが背斜崖だろう。一山丸ごと山頂部を削り取り均して住宅地に整備したものだ。高度経済成長期に向かおうする昭和36年当時には造成がされているので、羽曳が丘や農林センターなどと軌を一にして開発されてきたものだ。まだ外環状線は付いていないが、それを前提とする発展の見込みで開発されていったのだろう。天上にそびえるがごとくの家々を見上げながら、外環状線につながる道を降りていく。



上左:神社南側、南旭ケ丘への急坂道 同右上:スリ鉢池上に住宅が並ぶ 同下:スリ鉢池、上ノ池越しに二上山の山並みを見る 中左上:南旭ケ丘の住宅街 同下:左側は住宅街を降りる道 同右:10mを超える擁壁の上に建つ住宅 中(下)左:外環状線への下り道 同右:昭和36年(1961)当時の造成中の南旭ケ丘、まだ外環状線は付いていない 下左:住宅地から擁壁、道路、池を通る断面図切取線 同中:断面図が通る付近の風景 同右:高さ10mの擁壁が背斜崖であることを示す断面図
オガンジ池瓦窯跡
道の途中を南に曲がると富田林市水道ポンプ場やテニス場などの公共施設があるが、その裏側、西側の丘陵の麓、これが背斜崖だ。崖が途切れたところを登ると御願寺池(おがんじいけ)があり、池の内側は浸食谷だったようで、下流で堰き止めため池にした。谷の南斜面を登り窯に利用したのがオガンジ池瓦窯跡で池の北東隅に当たる。今は水が入って堤の外からはその様子がわからない。

上左上:中野テニスコート全景 同下:テニス場西側には15m程度の背斜崖 同右:背斜周辺の古代史跡を巡る軌跡(カシミール3D ) 中左:江綿グラウンドが乗る背斜崖 同右上:御願寺池へ上る坂道 同下:堤の池側にオガンジ池瓦窯跡があった 下左:瓦窯跡の発掘現場写真、お亀石古墳は左へ 同右:御願寺池
ここで焼かれた瓦は、後に訪れる新堂廃寺の屋根瓦として使われ、1号窯は飛鳥白鳳期、2号窯は天平期に作られた。新堂廃寺は、奈良時代以前の早い時期の大規模な仏教寺院であったことから、専用の窯が近くに設置された。池の堤に並んでのんびりと魚を釣るひとびとの話し声を背に、さらに池の北縁に沿って行く。
お亀石古墳
しばらく行くと山の登り口に至り、踏み慣らした道を登って行くと、小山の頂に南を入口にした石室の石がむき出しになっている。石室周りの盛り土は、円墳ではなさそうで、一辺21mの方墳だという。昨日の雨で地面は水浸しで石室の奥まで入れないが、主体部は南側に開口する横口式石槨である。長方形の開口部を開けた家形石棺を置き、開口部をふさぐ角形の石蓋もその前に転がっている。石棺の石蓋には6個の縄掛突起があり、亀の形に似ていることから「お亀石」の名がついた。何度も追葬できる横口式石槨は、古墳時代後期~終末期にみられる横穴式墓制の一つで、7世紀前半の築造と考えられる。
上左上:お亀石古墳への登り口 同中:頂上部分 同下:南側から見た古墳全景 同右:奥に横口式石槨がある石室は水が溜まっている 中左:石室の入り口 同右上:石棺の石蓋には6個の縄掛突起があり、亀の形に似ていることからお亀石古墳と名付けられた 同下:上から見た古墳 下左:開口部をふさぐ角形の石蓋が石棺の前に転がる(現地説明板) 同中:石棺の周りにオガンジ池瓦窯の瓦が積まれていた(現地説明板) 同右:古墳下には江綿グラウンド
また、石棺の周囲にオガンジ窯で焼かれた瓦が積み重ねられていたが、被葬者は新堂廃寺の建設も担い、政権を支えてきた渡来系技術者集団の長だったように見られる。墳頂に立つと金剛・葛城の山々から石川沿いの平野が一望されることから、南河内一帯で活躍した人に違いない。
新堂廃寺跡
古墳下東側の広場は江綿グランドと言い、大正期創業の総合衣料卸の江綿が富田林市に寄付した野球グランドで、地元の野球チームの練習場になっている。少年の中に女子も交じっているようで、黄色い声を張り上げて一生懸命練習に励んでいる。そんな声を背に丘を降り、オガンジ池瓦窯跡を通り、緑ケ丘団地の方に向かう。広大な区画の土地が草ぼうぼうの状態。説明看板には「新堂廃寺跡」となっている。飛鳥時代(7世紀前半)に創建された新堂廃寺は、南河内で最古級の寺院とされ、創建当時の伽藍配置は、南門、中門、塔、金堂、講堂が一直線にならび、中門から伸びる回廊が、塔と金堂を囲んで講堂に取りつく四天王寺式様式と考えられている。その後、建物の追加や南門、築地塀 の整備により、奈良時代(8世紀)には寺域が大幅に広がった。先ほど見てきたオガンジ池瓦窯跡やお亀石古墳とともに、寺院、窯跡、古墳がそれぞれ深い関りをもちながら、一体となって残っている例は大変貴重であることから、平成14年(2002)に国史跡に指定された。



上左:北側から見た新堂廃寺跡 同右上:金堂跡 同下:塔跡 同左上:中門跡 同下:中門跡付近から見た跡地の北側 同右:新堂廃寺の寺領域の推定範囲(カシミール3D ) 下左:中門より南側の跡地全景 同右:富田林市街地における新堂廃寺跡の位置。丘陵・背斜・中位段丘・氾濫低地・石川流域の地形分布がはっきりしている
草地の中に入り込み歩いてその広さを確かめようと、北から金堂跡、塔跡、中門跡という張り紙が張ってあるところを回る。その南部は南門などがあったところで、立ち入り禁止だが大きな区域が金網で囲まれている。それらの近くまで行って寺領域に目星を付け、張り紙の空撮写真の範囲図から推測するに、南門を含めて、東西60m、南北160m程度の寺領があったように見られる。これは現在の四天王寺の寺領に匹敵する大きさだ。地元ではここに新堂廃寺という大寺院があったということなど話題にもならないが、律令国が確立されつつあった飛鳥時代、河内国の石川郡や錦織郡という地域は政権にとっても大寺院を立てるほど重要な地域であった。それはまた、百済などから渡来人が数多く居住し、養蚕や機織り、金属加工、文筆などの先進技術を伝えた地域で、大和政権を支える重要な拠点として機能していたのだ。古代河内へと想いを馳せながら、団地や新興住宅地を後にするのだった。(探検日:2026.5.9)

