新堂廃寺の歴史的な大きな意味を考えながらさらに南へと進む。富田林背斜の崖地には古墳や墓地、戦後は次々と新興住宅地が整備されてきた。いずれも石川が流れる南河内平野の見晴らしの良さが好まれたと言える。しかし、50万年前にはこの風景はなく、羽曳野丘陵が終了する地点では大きな地形変動があった、そんなことを発見する旅になった。

新堂から錦織まで、富田林背斜に沿って歩いた軌跡(カシミール3D )
「新堂」の地名は新堂廃寺から
新堂廃寺跡から離れ背斜崖の裾から坂を上って行くと、町名は「緑ヶ丘」から「新堂」に変わっている。PLの教団施設やゴルフ場、病院などの大施設のある丘陵地が「新堂」という。かつての新堂村は、おおむね富田林市の北部一帯、東は石川沿岸の段丘から西の羽曳野丘陵にまたがる広大な地域で、新堂廃寺を機縁とする名称だったことがわかる。明治以降、町村合併や住居表示制度などにより、私の知る東高野街道沿いの新堂は若松町になっている。今も新堂という地名が残るのは、住居表示制から漏れたからで、丘陵地のエリア。その東麓に建つ10数軒の住宅地は「新堂」の町名である。背斜地形の山肌を切り開いた造成地を登って行くとすぐに突き当たりになり、下って南側に行くと未開発の山地になる。

上左:新堂という町名の住宅街の急坂を上る 同右上:江戸時代(正保期(1644〜1648))の富田林市域所領配置図、新堂は広大な所領だった 同下:空地に石で描かれた所領? 下左:一番上の突き当りは竹やぶ 同右:南側の斜面に沿って降りる
崖地のままに放ったらかしだが、その先の道は富田林街道という旧街道で堺と富田林寺内町を結ぶ。道沿いには飲食店やスーパー銭湯などもあったが今は撤退している。そこを越えると六反池があり、地図上では南側に六反池古墳という全長60mの前方後円墳があるのだが、竹と雑木の林が見えるだけ。竹林に入ってみると、道が付きその縁には濠だと言ってもよさそうな溝が掘られているが、古墳だという全貌が見られない。竹藪を登り切って住宅地に出ると、ちょうど出かけるところの近隣の方がおられ聞いてみると、「古墳があるなんて知らない。ここの住所が新堂というのはPL教団の教会があるからかな」と言われたが、それは全く違う、古代に新堂廃寺があったからだときっちり否定しておいた。

上左上:富田林街道までの背斜は荒れ地 同下:街道筋までの急坂 同右:新堂から寿町までの背斜地形に沿って歩く軌跡(カシミール3D ) 中左:PL教団施設や病院へ上る坂道は富田林街道 同右上:六反池の堤防と古墳があるという竹林 同下:古墳らしい土盛と思われる竹林 下左:基壇部分の右側は外濠と思われる窪み 同右:背斜上から見る古墳の外観
背斜の上に墓地、教習所、住宅
通りを隔てた池の上に富田林市立西山墓地がある。昔は親類縁者の葬式後にはここの火葬場へよく来ていたことを思い出す。早々に引き上げ急な階段を降りると、そこは外環状線・国道170号線だった。富田林駅からの参拝者のために付けられた階段なのだろうが急で恐ろしく長い。墓地の隣は富田林モータースクールで、今度高齢者講習で行くのだが、道路面から10mほど高い土地を平板にならして自動車教習場にしている。教習場沿いに緩いスロープを登って行くと、寿町青山台という住宅地で、戸建て住宅がびっしり並んでいる。車で通る時は意識はしないのだが、外環状線はこんなふうにして富田林背斜の東縁に沿って通っているのだ。しばらくは同じような傾斜地に建つ住宅風景が続くだろうから、背斜地形から少し離れ、富田林の市街地に降りてみよう。そこはまた、私の出身中学校のあるところで、ちょいとセンチメンタルジャーニーに浸ってみることにする。
上左:池越しに西山墓地、さらにPLの塔 同右上:崖の上にある墓地 同下:墓地から階段を下ると外環状線 下左上:富田林モータープールの裏に墓地が広がる 同下:教習所脇の小道を登る 同右:背斜崖の上にある寿町青山台住宅
富田林第一中学校は今…
富田林第一中学校は近鉄富田林西口駅から少し登ったところにあるが、すっかり街並みが変わってしまって、思い出すような風景がない。校舎自体もすっかり変わり、校門の位置も違っていた。ただ駅から学校までは坂道だったことには変わりはない。中学校の上に河南高校があったはずで、近づくと見えてきたのが城壁のような立派な石垣だった。段差がいくつかあって少しずつ登って行くが、河南高校からすぐの擁壁の上が外環状線だとは思わなかった。高校敷地からは10mも高いところを車がビュンビュン走っている。60年前の中学時代には全くなかった風景で、この一角に市民体育館、水道配水池などの公共施設が集まっている。外環に沿って歩道を歩いていても仕方がないので、昔の風景が見られるかと期待して東へずれて町中に入って行く。のどかな風景はなく、府営富田林錦ケ丘住宅の団地がいくつも並ぶばかりだ。それが途切れたころ、田畑が広がる風景があり、その向こうにこんもりした神社の杜が現れた。それが錦織神社だ。

上左:河南高校の石垣 同右上:外環は旧市街地から一段高いところを走る 同下:富田林第一中学校の校門 中左上:中学校付近の昔からの住宅、覚えがあるような、ないような… 同下:外環の向こうには市立体育館 同右:河南高校の西側の段差、さらに上を外環が走る 下左:水道局配水池の下あたりを通る外環 同右:富田林西口駅周辺の町中を歩く軌跡(カシミール3D )
錦織神社
神社の杜を北側から回り東入口から本殿前境内に入る。古代より、百済から錦織り技術者が渡来しその一族の守り神として発祥した。錦織神社としての創建は、平安期と考えられるが、石川の水流の合流地点として栄え、建水分神社(上水分社)、美具久留御魂神社(下水分社)とともに中水分社として「河内国の三水分社」と呼ばれている。建速素戔嗚尊(すさのお)、品陀別命(応神天皇)、菅原道真公の三柱を主祭神とし、現社殿の創建は室町期で、本殿と摂社2棟ともに国の重要文化財に指定されている。檜皮葺の屋根の緩やかなせり上がりや三角形の千鳥破風が唐破風の上に乗り、二重になった破風が豪華で美しい。あと数年で遷宮があり、建て替えになるが、前回は総工費3億5千万円、その内氏子からの寄付総額が2億円以上に達したという。重文であるので補助金は出るが、かなりな金額である。宮司さんが通りがかりいろいろ聞いていると、「氏子さんはしっかりしていて、2億くらいはすぐに集まります」とのこと。豊かな氏子に支えられ、古式の社殿をまだまだ保持していける気配がしたが、やはり後継ぎが問題のようだ。ご子息はその気になってくれているようだが、「不安は募りますなあ、トランプやプーチンみたいのが出てきたらこれからどうなるか、今まで通りにはいかないですな」とのこと、同感である。

上左:二重になった破風が美しい錦織神社本殿 同右上:神社正面、拝殿を通して本殿が見える 同下:色鮮やかな軒柱 下左上:拝殿前の狛犬 同下:拝殿から見た境内、長い参道が続く 同右:錦織神社から外環を渡り桜ヶ丘町の背斜地を巡る軌跡(カシミール3D )
急崖に幾層もの住宅が建つ
祖母の出身が錦織だからか、一昔前には正月の初詣にはよく来たものだ。南北に伸びる200m余の参道が特徴で、参道沿いのできるだけ入口に近いところに車を止め参拝するのだが、それでも長い参道だったことが印象に残っている。その参道の途中から坂を上り外環状線の方に歩くと、目の前にすばるホールが現れた。石川さゆりコンサートやクラシックの演奏会などに時たま訪れたりする。昨年秋には孫のキッズダンスのお披露目があり、ステージではしゃいでいた孫の姿が目に浮かぶ。ホール前の信号を渡り、外環から西側の背斜崖下まで行こうとして住宅街に迷い込む。桜が丘町というのだが、急坂を登り切ったと思ったらまだその上に小金台住宅地があり、これは堪らないと引き返した。住宅の間に階段が付いていて、見た目には坂のある町などと風情ありそうだが、この坂を毎日往復する生活なんて辛すぎる、とその現実を思うのだった。
上左:長く続く錦織神社参道 同右上:神社から外環方面へ坂を上る 同下:外環越しにすばるホール 中左上:桜が丘町の岡にそびえる住宅 同下:小金台住宅の段差まで一直線に登る急坂 同右:突き当り付近の急坂、車のすべり止めがうがたれている 下左:南側には国道309号線が見下ろされる 同右:町中には階段が施されている
この高台の住宅地を南に行き切ると、崖の下に幅広の道路が付いているが、これが金剛のエコール・ロゼ横などを通る国道309号線だ。この辺りでは珍しく地下を通る路線で、美原あたりまで掘り抜きの地下道路になっていて、ここを走るのは割と好きなんだが…。どこかでこの道を越える陸橋が付いていると思ったのだが、どこにも見当たらず、仕方なくまた外環まで戻ることにする。富田林背斜のきつい凸面の盛り上がりを体感し、一汗も二汗もかいたのだった。
津々山台の急斜面が背斜の崖
しばらく外環沿いを行くと本線は地下に潜り国道309号線と交差する。越えて外環から外れると右側にうっそうとした森とマンション棟が見え出す。かつて、東除川の源流を探しに来たことがある津々山台住宅の丘陵地で、ここをツズラ折に階段を上り津々山台3号公園に至るのである。この急斜面がまさに富田林背斜の崖で、この東面の緑を残し山全体を住宅開発している。住宅地を越えた廿山の南東斜面下の浸食谷が東除川の源流地だったが、行きつ戻りつしながらやっと細々とした谷川見つけた時は嬉しかったなあ(参照:「MY古代史探検・東除川の水源地を探る」)。公園の上から東を眺めるに、金剛と葛城の重なるところ、大阪側から見る「あきつしま(秋津洲)」、トンボが交尾している様に見え、それに満足し今日は早々に崖伝いに降りることにする。



上左:津々山台の背斜崖を登る階段 同右上:外環から逸れ、津々山台へ向かう道 同下:背斜崖階段への入り口 中左:津々山台3号公園から見た金剛・葛城の山並み 同中:津々山台から外環までの断面図 同右:津々山台3号公園の西側に住宅地が広がる 下左:廿山の背斜地形に沿って歩く軌跡(カシミール3D ) 同右:公園から崖地を歩いて降りる
この崖の南隣は廿山墓地で、道を隔ててパチンコ「アミューズ」、金剛団地への道路を越えて日本料理「川田屋」、駐車場を挟んで「スシロー」などが崖地の上、下に立地している。金剛団地からの道が直角に外環に交差できず、廿山からの道が斜めに食い込んでいることで三角地帯が生じ、各店の敷地が妙な取り合わせになっている。ここ30年くらいはそれぞれ繁盛しているので、整然とした区画であるより良かったのではないか、また廿山墓地が何か守り神のように商売繁盛を支えているような、富田林背斜の崖地だから成し得た風景であるように感じるのだが、どうだろうか。金剛団地への道はトンネルの中を通るようになっているが、その上には廿山古墳(48mの前方後円墳)、二本松古墳(径13mの円墳)という前期古墳時代、4世紀後半築造の古墳がある。いずれも背斜地形の上に位置するが、これらの古墳があったがゆえにトンネルを掘ったと言えそうだ。
上左:膨大な墓石の数の廿山墓地 同右上:金剛団地への道のトンネル 同下:金剛への道 下左上:トンネル上の森、この一角に二本松古墳がある 同下:崖地に川田屋 同右:パチンコ店アミューズ、向こうに廿山墓地
里山を利用した錦織公園
背斜崖の下を行く外環状線の歩道を南へ真っすぐ歩くしかないのだが、その崖に生える木々の枝が身の上に覆いかぶさるように迫ってくる。真横で車がビュンビュン通り過ぎる中をおもしろ味も見い出せず、ただただ歩く。しばらくすると、彼方に建物、そして塔のような高い建物が見えてきた。これが近年男女共学になった大阪大谷大学だ。右側の林が切れて、中の池というため池の堤防となり、そこに付く階段を上ると錦織公園の周遊散策路に通じていて、山の中に入って行ける。山地が丸ごと公園になった錦織公園には子どもたちを連れてよく来たものだ。山に道を付けて、ところどころに遊具を置いただけの公園だったが、あまり手を掛けず里山の自然を楽しんでもらおうという趣旨のようだ。山の斜面を利用した様々な遊具、何人もが一緒に滑れる幅広の滑り台や尻そりの板でかなり高いところから滑り降りるスロープスライダーなんかが人気だった。子が大きくなるとやはりジェットコースターのある遊園地が好きになってしまったが、これはこれで好きだったように思う。
上左:木々が覆いかぶさる外環状線歩道 同右上:外環沿いにある中の池 同下:池から錦織公園の山道に入る 下左上:外環の向こうに塔のある建物が見えてくる 同下:向こうに嶽山の山並みが見える 同右:中の池越しに大阪大谷大学を見る
羽曳野丘陵の終了
外環の歩道が下り坂になると共に錦織公園の林が途切れてきて、その先は谷地形になる。つまり、ここで羽曳野丘陵が終了する。左側を走っていた外環状線は高架橋になり、公園前の道が橋下を走る。その道を西方に向かうと、道路はだんだん上り坂になる。逆に道の左側を見ると谷がどんどん深くなる。どんな谷川が流れているのかと見ると、雑草や木々が覆いかぶさってよく見えない。ちょっと開けたところから見下ろすと、20mも下に何やら水たまりのような、動きのない池の状態にも見える。
上左:錦織公園前から西に向かう府道38号線は急坂 同右上:外環状線は下りになり羽曳野丘陵は終了する 同下:府道38号線は外環状線の下をくぐる 下左上:谷を挟んで岡上に府営木戸住宅が並ぶ 同下:谷あいの中腹に畑が広がる 同右:谷の下には池?川?
川とするならどちらに向かって流れているのだろうと、上流?または下流へとたどってみよう。来た道を下って谷筋に沿って行くと工場や住宅もあり、谷底との中腹には田畑も広がっている。外環状線を越えて住宅地の坂を下って行くと、赤い色の巨大なトラス橋が家並みをまたいで架かっている。坂を下りきったところが駐車場になっていて、フェンス越しに川面がみえる。流れがない。これは単なる池か、それとも分水嶺の地点なのだろうか。川筋を回り込んで行くと、かすかな水音、かすかに東向きに流れている。石川からの流れだとすると西方向なのだが、石川本流の方へ流れているのか。地図で調べると、谷筋の250mほど西に細谷池という池があり、そこが標高90m、堤防を越えた東側は83~4m、さらに先ほどの住宅地の先の川の標高が82~3mで、ほとんど高低差がない。細谷池の水が放流されたら一気に水かさが増え東への流れがはっきりするのだろうが、普段ではほぼ同一平面なので流れはないと言える。

上左:住宅地を下った谷に架かるトラスト橋の外環状線 同右上:対岸から水が落ちて来て東に向かう川になる 同下:住宅地の縁を川となって東に流れる 下左:トラスト橋の真下には流れなのない水たまり 同右:錦織公園付近の浸食谷から東に向かう細谷川を伝って滝谷不動駅へ向かう軌道(カシミール3D )
石川への合流
付近の路上で遊んでいる子ども3人連れの家族に聞くと、川の流れなんて考えたことありません、と。そこへご亭主が帰ってこられ、車の窓から親指を立ててあっち方向やね、と。つまり東方向。川の流れを見失うまいとたどって行くと、川幅も広くなって旧170号線の下をくぐり、先の方に見える石川河川敷の方に流れて行くのを確認できた。そして、滝谷不動尊への道に架かる橋の下で、太い流れの石川を見て、やっと安心した。ホッとして、近鉄滝谷不動駅に向かい家路を取ることができたのである。(探検日:2026.5.9)
上左:細谷川は石川へと田畑の中を流れる 同右上:旧国道170号線との交差点 同下:170号線から石川の流れる辺りを見る 下左:石川に架かる高橋 同右:石川の流れ
石川と天野川の河川争奪
現在の石川は滝畑ダムから東方に流れ、河内長野市街で天見川、加賀田川、石見川が合流し、その後ほぼ北方に流れ大和川に注ぎ込む。しかし100万年前には、羽曳野丘陵南端部で流れを西方に変え、狭山池に流れ込む現在の天野川に合流していた。カシミール3D の地形図で見ると、石川の氾濫原が錦織の辺り、羽曳野丘陵南端部で大きく西方に曲がり、天野川の氾濫原につながっている様子がうかがわれる。それにもかかわらず現在の石川は何故北向きの流れに変わってしまったのだろうか。ここに大きな地形変更があったのだ。


左:石川が天野川方面へと流れ込んでいたことを予想させる河川敷地形に、古代石川の流路を想定する(カシミール3D ) 右:石川の水系図に、古代石川の流路を想定する(羽曳野市史より・点線は分水界)
100万年前~20万年前に六甲変動の影響で羽曳野丘陵が隆起し、富田林背斜を起こさせることとなったが、同時に羽曳野丘陵南端部の富田林市須賀付近から河内長野市の千代田にかけての一帯を隆起させた。一方、現在の石川の谷の部分は沈降して、天野川の谷より低くなってしまった。そのため、石川本流は天野川の谷を流れることができなくなり、石川谷へと流れを変えてしまった。このような現象は、天野川の上流部を奪い取ってしまったことになり、「河川争奪」と言われる。100万年前から石川は徐々に隆起する地面を削りながら西に流れていたのだが、いつかの時点で隆起が勝り流れは止まった。こうした河川争奪の原因となった地盤の動きは、現在も続いているとみられ、須賀付近を通る府道沿いの深くけわしく刻まれた谷がそれを現している。西への流れは行き止まり細谷池を作り、渓谷周辺水系の水を集めて細谷川となって石川に流れ込んでいる。富田林背斜を成した同じ要因が土地の隆起をもたらし、石川の流れをも変えてしまうこととなった。100万年という期間を考えてみると、そこに住む人間の暮らしも考えをも変えてしまう環境変化があることに気づくのである。当たり前がそうでなくなる時が必ず来るのである。
