四天王寺の西門に向かうとき、大きな斜めの道路を2回渡るのだが、何故この道路が斜めの線なのか、考えてみれば不可解なのだ。大阪の街路は基本的に東西南北の直行線が交わるはずだが…。国道25号線が敷かれて以降とかの問題ではなく、1500年も前の古代の謎を解き明かすことになる。「斜めの線」を探って四天王寺から平野まで歩いて行こう。

四天王寺から平野まで、渋川道を探る旅の歩行軌跡(カシミール3D)
難波津から始まる「大道」
上町台地北端には船着場や倉庫、市場、外国の使節を迎える施設などが集積する港湾都市として栄えた難波津があった。想定される推古朝の大道ルートは、難波津から始まり飛鳥をめざす。まずは上町台地の最高所を南南西に進む斜めの線の「大道」が付けられ、四天王寺の西に至る。後の熊野街道でもある。次に四天王寺の南西角から約40°南へ振って南東に直線的に延び平野へ、さらに東南東へ折れ、渋川廃寺(八尾)へ向かうのだ。その後は大和川の左岸堤防上を進み、衣縫廃寺付近で石川を渡って大和川左岸堤防上を東進、竜田道を行く。青谷付近で大和川右岸へ渡り、平隆寺、斑鳩寺、そして中宮寺付近で折れて太子道を南東へ進み、飛鳥に到着するという道程だ。この大道のルート設定には厩戸皇子(聖徳太子)が深く関わっていたとみられ、斑鳩を通過するうえ、7世紀初めから前半に創建され、太子ゆかりの寺院が要所に配置された。



左:上町台地南北軸の最高標高地点 中:元熊野街道 右:推古21年「大道」の想定ルート(柏原市HP「難波より京に至る大道を置く」より)。渋河道・竜田道・太子道と沿道にある聖徳太子ゆかりの寺院
推古朝の大道を難波大道、竹内街道などとして東西・南北の正方位道路にこだわったのは岸俊男先生だったが、推古朝の時代には利便性や安全性を大事にし、斜交道を良しとした。正方位道路という発想は、前期難波宮以降の政権の、ある意味律令体制という形式にこだわった官僚意識によるのではないか、そう推測するのだが…。一方、斜交道をつないでいく河内における渋河道のルート上には道路痕跡は確認されていなく、あくまで安村氏の推論に基づくものである。
まずは天王寺さん、その前に庚申堂
前置きはこれくらいにして、梅雨明け間近の晴天の日、JR天王寺駅から四天王寺へ向かうことにする。地図を見ていて、四天王寺の南門に真っすぐ向かう南北の道を見付ける。これが庚申街道で、四天王寺南大門を起点とし、阿倍野区、東住吉区などを通り、平野区長吉川辺町の古市街道(明治橋北詰)へと至る旧街道だ。以前、東除川の探検時、平野から古市に至る古市街道は、大和川付け替え以前には、東除川の堤上を通っていたことを発見した(当ブログ「東除川堤の古市街道を行く」を参照)。四天王寺の境外堂宇として、その南方にある庚申堂にお参りに行く道である。ご本尊は青面金剛(庚申さん)、疫病や悪霊を退散させる仏さまで、60日に一回ある庚申の日にお参りするとご利益があるとされる。堂の建物は1970年大阪万博で「全日本仏教会」が建設したパビリオン「法輪閣」を移築したもので、伸びやかなモダンな屋根線に現代建築のセンスを感じる。庚申街道に戻り北進すると、交差点手前に見覚えのある門構えが…。超願寺であり、「竹本義太夫墓所」がある。お堂周辺の墓地を一巡りし、新しくなった竹本義太夫の墓石にお参りする。あちこちに見どころがたくさんあって、なかなか前に進めない。

上左上:天王寺北口前 同下:庚申街道 同右:天王寺駅から四天王寺までの歩行軌跡(カシミール3D) 中左:庚申堂 :同右上:庚申街道沿いにある谷の清水 同下:先に見える四天王寺をめざす庚申街道 下左:超願寺 同右:竹本義太夫墓所
自販機もある四天王寺境内
国道25号線の横断歩道を渡ると目の前に四天王寺の南大門がそびえている。門をくぐると見事に中門の上に五重塔が覆いかぶさっている。伽藍配置は塔のさらに北側に金堂と講堂が一直線上に並び、それらを囲うように回廊が巡る。これがまさに四天王寺式伽藍配置と言われるもので、中国、朝鮮半島に源流があり、日本の初期の仏教寺院はこの伽藍配置が多く、法隆寺の若草伽藍(607年)、中宮寺(607年)、山田寺(7世紀末)などもそうだ。この暑い最中でも境内をぶらつく人が多く、木々が集まる木陰にはベンチに清涼飲料の自販機が備えてある。お寺の境内に自販機があるのをあまり見ないが、さすが四天王寺、宗派にこだわらない和宗総本山の賜物、社会的弱者をも受け入れるアジール的空間でもあり、市民公園の役割も持っている。

上左上:庚申街道の先には四天王寺南大門・五重塔が見える 同下:南大門の上にそびえる五重塔 同右:中門・五重塔・金堂の軸は正方位から西へ4度程度偏る 中左:中門から五重塔を覗く 同右上:四天王寺の境内位置図 同下:西大門から五重塔と金堂を見る 下左:石鳥居から四天王寺を見る 同右:自販機が備えられた境内休憩所
四天王寺は正方位ではない
南門、塔、金堂、講堂が南北に一直線に並ぶ四天王寺式伽藍配置だが、回廊も含めて正確に正方位ではなく、西に4度偏っている。創建のころから何度も再建されながらも前例を見習って、現在も4度傾く。隋・唐から北極星を真北として南北軸を決める正方位の測量技術が伝わり、宮都建設に採用されるようになったのは630年代以降とされる。法隆寺(若草伽藍・607)や飛鳥岡本宮(630)などは20度程度の方位差がある。それ以降の飛鳥板蓋宮(643)は正方位、前期難波宮の中軸線は東へ23分39秒、1度が60分だから0.5度もない傾きで正方位と言っても良かろう。その意味では、推古天皇元年(593)創建とされる四天王寺は北極星に基づかない測量法で、太陽東西軸線の確定(インディアンサークル法)によるものとも考えられるので、誤差は大きい。正方位からあえて4度傾けたとは思われないが、南北の軸線確定や回廊の矩形の建設がなされているので、見た目には正方位的な感覚があったと言える。
渋河道大道は40度の斜交道
律令制に基づく国づくりが本格化するにつれ、正方位に基づく官道の整備も徹底されていく。大和の中ツ道が639年ころ、難波大道が653年以降に整備されたとなると、推古天皇が「難波より京に至る大道を置く」としたころは、正方位測量技術がまだ確定されていなかった。正方位にこだわらない斜めの真っすぐな線である難波津から四天王寺への道、四天王寺から平野、八尾・渋川への渋河道、さらに斑鳩から飛鳥への太子道、これらを推古天皇が「大道」としたと言えるのではないか

斜交道である渋河道の推定路(柏原市HP「難波より京に至る大道を置く」より転写、加筆する)。北西に40度の角度の東部市場前の国道25号線(奈良街道)を延長すると、四天王寺西門辺りに達する。
渋河道(しぶかわみち)は、四天王寺の西南角辺りから始まるとされる。難波津から下る「大道」ともみられる旧熊野街道は、南南西に降りて来て、西方浄土への入り口とされる西門の前辺りで南東方向へ曲がって渋河道の大道となるとされる。国道25号線は、一心寺前から上町筋までの間は二つに分かれているが、新25号線(西行き)は天王寺小学校の南側を走り、東行きの旧25号線は四天王寺西門前付近から南東方向に斜めに敷かれた。渋河道はどちらかと言うと、旧25号線(東行き)に近いところを通っていたように思うが、この国道の斜めの角度は、渋河道の大道が敷かれた当初から維持されているとみられる。地図上に分度器を置くと、平野をめざす渋河道の方位は東西の正方位から東へ40度も傾いている。この40度の角度は、後に探って行く東部市場前から平野辺りまでの国道25号線の角度によく表れている。

上左:四天王寺西門前、国道25号線を渡る交差点 同中:難波津から来た大道は西門前で大きく東へ曲がり渋河道となる(柏原市HP「難波より京に至る大道を置く」より(清水1995より転載、一部加筆)) 同右:西門前の国道25号線(東行き) 下左:西門前の石鳥居、ここから西方浄土を拝む 同右:四天王寺西側を通る元熊野街道
「大道」を歩く
西行きの25号線を天王寺小学校の南縁沿いに歩いて行くと、運動場側のフェンスに掲げられた広報板には「天王寺区大道一丁目」とある。旧熊野街道沿いにある釣鐘饅頭屋の住居表示にも「大道一丁目」とあったが、やはりこの辺りを「大道」が通っていたのか。大阪市広報課にいたころ、難波宮から来る難波大道が通っていたから、四天王寺近くの住所が「大道」だと説明していた。大道地域は、南北500m、東西1㎞の範囲で四天王寺の南から南東に斜めに広がる。難波大道が通る地域は天王寺区寺田町にある興国高校の東側を走る南北道路周辺と推定されているが、この大道に沿うなら縦長の町割りになるはずだし、住居表示にある大道地域とは東端でかかると言えど、難波大道が通る町とは呼ぶ必然性を感じない。それゆえ、四天王寺南部に広がる大道とは渋河道の「大道」だと言えるだろう。

上左:天王寺区大道地域(青の線で囲まれた区域) 同右上:元熊野街道沿いにある総本家釣鐘屋(大道1丁目) 同下:天王寺小学校南縁にある大阪市広報板(大道1丁目) 中左:土塔地蔵尊(大道1丁目) 中中:南門筋(庚申街道)から路地に入る 中右:向こうに四天王寺南大門が見える南門筋 下左:国道25号線に面してある土塔地蔵尊 同右:上町筋と2股に分かれる国道25号線が交わる交差点
「大道」という住居表示のある地域を巡ってみたのだが、北西から南東にくねくね曲がりながら伸びる道が意外と多い。大道1丁目である西行きの25号線を下り、小学校を過ぎたころ寺町通と呼ばれる細街路に入り、それと交差する庚申街道、つまり南門筋を南下し、上町筋との交差点を渡り大道2丁目、もう一つ横断歩道を渡り、河堀町から大道3丁目、玉造筋を渡り大道4丁目の大道北公園で一休みした。5丁目との境界の道を東に進み、寺田町に入った。国道25号線、上町筋、玉造筋など片側2~4車線の幹線道路が縦横に通る地域だが、町中に入ると曲がりくねる細街路が絡み合っていて、旧態の町並みを作っている。
上左:国道25号線に面したビル街(大道3丁目) 同右上:玉造筋との寺田町交差点に向かう25号線 同下:河堀稲生神社(大道3丁目)の夏祭りを知らせる横断幕 中(上)左:玉造筋 同中:玉造筋から一本中へ(大道4丁目) 同右:大道4丁目の広報板 中(下)左:大道北公園入口 同下:旧奈良街道に面した商家 同右:大道北公園(大道4丁目) 下左:寺田町駅に向かう旧奈良街道、右側の町並みは大道5丁目 同右:寺田町駅ガードが見える
「斜めの線」が生命線
地図をよく見ると、大道地域より外は基本的に東西南北に交差する道が作る町割りだが、この地域は不定形な道が複雑に入り組んでいて、なおかつ一定の幅をもっておおむね北西から南東へと伸びているように見える。この斜めに通る町並みは、難波宮の都城形成にも、秀吉の大坂城下の町割りにも、さらに関一の近代都市整備にも影響を受けてはいない。時の政権の介入を許さなかった、1500年に及ぶ長い歴史の蓄積の上に成り立った町の形態なのだ。この斜めの線の町づくりの原初が、推古朝の難波から飛鳥京に向かうために作られた大道、渋河道そのものだったと言えないだろうか。この大道が軸線となって、そこから派生する様々な斜めの細街路が通り、その周辺で生業が起こり、街道筋としての町の発展がなされていった。この斜めの町筋は、JR環状線を越えて阿倍野区天王寺町南に入るとよりはっきりしてくる。大道の道筋は、その後大坂と大和を結ぶ奈良街道として発達し、この街道に沿って林寺、百済、桑津、平野、久宝寺、八尾などの村や町が繁栄していった。近代には国道25号線として大阪・奈良を結ぶ幹線道路となった。全く古代道路の遺跡が見つかっていないということだが、大道に沿って斜めに伸びるこの町並み自体が「大道の遺跡」と言えるのではないだろうか。そして、大阪と奈良を結ぶ交通は、時代が変わっても掛け替えのない生命線としての重要さは変わらず、実質的な意味も含め「斜めの線」がシンボル的役割を果たしてきたのではないか。



上左上:JR寺田町駅ガードをくぐる旧奈良街道 同下:この辺りの自動販売機の缶コーヒーはほとんど100円 同右:寺田町から源ケ橋への歩行軌跡(カシミール3D) 中左:町家喫茶店が街道の雰囲気を作る 同右上:街道に西からの脇道が交わる 同下:街道は源ケ橋西交差点25号線に交わる 下左:大阪市内詳細図(1914年・国際日本文化研究センター所蔵)より 同右:国道25号線ができる前の旧奈良街道(HP「田舎暮らしdeほっ!」より)
細街路が絡まる地域ではあるが、はっきりした形で南東に伸びる道を見付ける。寺田町駅付近でJR環状線の高架をくぐり、曲がりくねりながら進む道には、昔からの町家が並んでいたり、地蔵堂があったりして、古道の雰囲気がある。これは旧奈良街道と言われる道のようで、現代版の奈良街道、国道25号線と源ケ橋でぶつかる。
源ケ橋商店会
幼少のころ、百済商店街の中にあった叔母の家によく遊びに行った。天王寺から城東線に乗って寺田町で降り市電に乗る。源ヶ橋、林寺新家町、百済という順で止る市電の駅名を今でも覚えている。その源ヶ橋の交差点に出て少し行くと、昔のままの狭い間口の商店街に出合い、昭和20年代の大阪に迷い込んだような錯覚に陥る。源ヶ橋商店会と言い、小さい商店が建て込んだアーケード。ほとんどの店はシャッターを下ろした薄暗い通路を通る。今日は定休日かそれとも…。端の方の総菜屋さんだけ店を開けていたが、何とか持ちこたえて欲しい。そこを通り抜けると市営住宅やマンションのビルが並び、旧奈良街道は断ち切られる。住宅団地を回り込んで25号線の近くまで行くとまた旧奈良街道が現れた。
上左:アーケードの源ケ橋商店会 同右上:総菜屋さんは健在 同下:商店街を抜けた住宅街 下左:マンションや戸建て住宅が混在 同右:国道25号線に近づくと再び旧奈良街道
旧奈良街道を歩く
25号線から一つ内側に入った真っすぐな道だが、小さく揺れる曲がり道もあって、わずかに古街道の面影を残している。疎開道路を越えてさらに旧街道は続くが、新建材の住宅やマンションなどに建て替わっているなかで、ほんの数軒だが間口の広い昔ながらの商店家屋や棟続き長屋が残っている。叔母の家もこんな2階建ての棟続き長屋だったが、奥が深いので割と広々としていた。地蔵さんも辻々くらいにあり、近くの桑津天神社の祭りの幟も立ち、まだまだ昔風の暮らしもあるように察せられた。旧奈良街道が途切れると今川の支流に25号線の奥村橋が架かり、栴檀の木なのか橋詰に木陰を作っている。その向こうのJRの高架には王寺や奈良に向かう快速電車が通り過ぎて行く。ほんのわずかなスポットだが、25号線の喧騒や容赦ない太陽光線を避けられる涼しげな風景があった。

上左:いかにも古道の趣、虫籠窓のある古民家 同右上:林寺2交差点、疎開道路が25号線と交差する 同下:旧街道にはマンションも並ぶ 中左上:400mほど南にある桑津天神社の夏祭りの幟 同下:JR大和路線のガード 同右:源ケ橋から東部市場前までの旧奈良街道を歩いた軌跡(カシミール3D) 下左:25号線が今川の支流に架かる奥村橋、涼しげな木陰を作る 同右:高架を通過する大和路快速
JR大和路線と国道25号線
国道25号線が高架をくぐりJR大和路線と並行して走るようになる。この辺りから平野までのJRと国道25号線が並行する斜めの線が、ちょうど40度の角度になり、往時の大道はこんなふうにまっすぐ通っていたのかと想像を逞しくする。それもつかの間、影もなくなる正午、ただただ25号線を歩き続けるのだった。東部市場前駅を過ぎるとすぐに杭全交差点に行き着く。五つの道路をまたぐ巨大な交差点で、五つ股に足を広げた大陸橋が横たわる。「階段上るのはかなんな」と思っていたら、なんとエレベータが付いているではないか。割と速い動きで待ち時間も少なく次々と人を運んでいく。これなら便利と利用してみた。

上左:五差路の杭全交差点 同右上:東部市場前辺りを走るJR線 同下:国道25号線 下左上:杭全交差点のエレベーター 同下:今川の水門 同右:東部市場目辺りから平野へ、25号線に沿って歩いた軌跡(カシミール3D)
25号線から一本内側の道をただただ歩くのみだが、意外と大きな公園が二つ対照的に並んでいた。育和公園の東側と西側だが、「育和」の地名に不思議さを感じる。大阪の難解地名の一つ、先ほどの大交差点「杭全」は「くまた」と呼ぶ。くい(杭)をすべて(全て)打って他の土地と区別したとか、この辺りは古代の百済から来た渡来人の住む地域で、「くだら」がなまったという説もある。後に行く「喜連瓜破」も渡来人の呼び名の伎人(クーレ)が住んでいた伎人郷というのがなまってこの呼び名になったと伝わる。果たして「育和」はどうか?この辺りの小学校区は、今川・今林・杭全・桑津の4地域だったことで、今川・今林の頭文字「い」と杭全・桑津の頭文字「く」から「育(いく)」とし、校区の4地域が和するという意味を込めた「和」を組み合わせたという、至極まっとうな命名なのだ。もっと歴史的な意味があるかと思ったが、「なーんだ」という感じだ。
上左:育和公園(西側)には藤棚の休憩場がある 同右上:育和公園(東側)にはいろいろな遊具がある 同下:25号線の一本西側の道に沿って育和公園 中左・中:マンションや戸建て住宅が並ぶ 同右:ユリが見事に咲いていた 下左:国道25号線 同右:平野馬場東交差点、これを渡ると平野郷に入る
暑さの中、何のおもしろ味もなく国道25号線を歩くだけだったが、電池切れになりかけたころ、「平野馬場東」交差点に差し掛かる。ということは、ここを渡ると平野郷に入るわけで、このあたりで一息付こう。(探検日=2026.7.10)

