渋河道を探る②平野~渋川廃寺

A street scene with a white tram on elevated tracks to the right, power lines overhead, and modern buildings in the distance under a blue sky.

 四天王寺から東南40度の角度で平野に入ってきた渋河道は、ここから緩い斜めの線でさらに八尾方面へ向かう。実際にはそんな斜交道はどこにも見当たらず、国道25号線、旧奈良街道さらに平野川をたどることになるが、それは、絶えず「斜めの線」を意識しながらする旅だった。

平野から八尾までの歩行軌跡(カシミール3D)
大道としての渋河道。平野から八尾までの斜めの線は約10度と角度が緩くなる

大念仏寺

 まずは我が家のご本山、大念仏寺にお参りしなければなるまい。国道476号線、つまり内環状線から東に入る細道、これは25号線に並行する斜交道で、「今堀小路」と名が付く。大念仏寺北縁の高い塀に沿っているが、その下側には身の丈ほどの石垣が積まれている。小路は元々環濠に当たり、川渕が石垣になっていて、その名残だと思われる。

上左:大念仏へと続く今堀小路 同右上:内環状線から東に入る今堀小路 同下:大念仏寺の石垣に沿う小路 下左:大念仏寺の北縁、高い塀に沿う小路 同右:平野郷から杭全神社への歩行軌跡(カシミール3D)

 高い塀が尽きたところを曲がると、大念仏寺を東側から入る山門に行き着く。毎年5月の万部お練りの時は、仏仮面と煌びやかな衣装を着けた阿弥陀仏と二十五菩薩が渡御され、境内いっぱいの観衆はやんやの拍手で迎え、手を合わせる。一度見物したことがあるが、この世の出来事とは思えぬ風景に度肝を抜かれた。広々とした境内に思えたのだが、カンカン照りの暑い中ではさほど広いとは思えないが、本堂の巨大さと比べるからかもしれない。涼みがてらに靴を脱いで堂内に入ってみる。御本尊は十一尊天得如来の絹本仏画で、御回在と言って、この掛け軸を僧侶たちが護持して鉦を打ち鳴らしながら檀家の一軒一軒を回る。我々は「天得さんがやって来た」と呼んでいたが、ご本尊が信徒の家まで来てくれる、大変ありがたい宗派なのである。本堂の仏壇には仏像はなく、金色に輝く種種の仏具が豪華絢爛に飾ってある。仏壇奥に当家の先祖が分骨されて祀られているのだが、手を合わせ日ごろの無沙汰をお詫びした。

左:大念仏寺 同右上:大念仏寺の東からの入り口、山門 同下:大念仏寺の堂内、きらびやかな祭壇

平野郷は街道の一大中継点

 平野郷は坂上田村麻呂の子、広野麿が開発した領地で、平安初期(800年ころ)から始まり、環濠で防衛をした戦国時代を経て、近世初頭には朱印船貿易をするなど商業都市として大いに栄えた。そこはまた大坂市中と摂津・河内・泉州、さらに大和とをつなぐ主要な街道の一大中継点であった。住吉大社から八尾・河内をつなぐ八尾街道は郷の西南・堺口から入り、北東の市ノ口を出て平野川を渡りしばし川に沿って南下し樋尻口橋東詰から東に向かう。中高野街道は、南の流れ口から入り北の泥堂口を出て大坂市中へ、古市街道は田畑口または出屋敷口を出て古市へ、そして奈良街道は大坂道とも言われ、四天王寺から桑津、杭全、今林を経て平野郷の北西に来て馬場口、または泥堂口から入り、樋尻口を東へ出て、平野川沿いに南東に向かう。この道が今回探求している「渋河道」でもあるが、大坂市中から来て平野の町で一息付いて、さらに旅に向かうという段取りであったろう。

上左:馬場門筋の永福寺前 同右上:馬場口に立つ平野郷地図 同下:興正寺筋の末吉家住宅門 下左:平野郷に出入りする街道(平野郷13口・「古民家アンティークギャラリーのなつめ」のブログより) 同右:西脇門筋の塚本修光堂書店前

杭全神社

 ついでと言っては申し訳ないが、25号線を渡ってもう一つの平野の信仰拠点、杭全神社にお詣りしよう。御幸筋をひたすら歩き、大きなクスノキに囲まれて心地よい木陰が続く境内に入る。石鳥居を入ってすぐの大楠は樹齢1000年以上とも言われ、縦横に伸びる太い枝は圧巻だ。本殿との中間に、他所に例を見ないが大門が設えられている。門を通して見られる参道、さらに奥にある拝殿の眺めには寺院にあるような重厚さが感じられる。拝殿の裏には、樹木に囲まれ本殿並びにそれを囲む中門がひっそり建つ。9世紀の初め、坂上氏および平野郷町の氏神として創建され、明治になって社号を杭全神社と定められたが、元は平野熊野三所権現と称され、本殿の3社は国の重要文化財である。

上左上:国道25号線より杭全神社へ向かう 同下:石鳥居横の大楠 同右:樹高30m、周囲10m、樹齢1000年という大阪府天然記念物の大楠 下左:大門を通して拝殿を見る 同右上:堂々たる拝殿 同下:樹木に囲まれ、厳かなたたずまいの本殿

 参道を引き返し神社の外に出ると公園らしき広場があり、この一帯が環濠の水辺だったようだ。北側に小川があり、流れに沿って歩ける遊歩道が整備されていて、道端には「平野環濠跡」の石碑が立つ。杭全神社も環濠によって囲まれていたが、平野郷自体がこんな感じで環濠が取り巻いていたのだ。遊歩道とは少し間隔を取って、平野川が緩やかなカーブを描きながら流れていた。

上左:杭全神社東側を流れる環濠 同右上:環濠跡に整備された公園、「おちゃいけばし」と書かれた橋が復元されている 下左:環濠跡に沿う遊歩道 同右:環濠の東側に流れる平野川

斜めの町割りが残る平野郷

 『摂州平野大繪図』をよく見ると、最初に平野郷に入って来た「今堀小路」や「泥堂筋」など、郷の北西部の道はどれも南東方向の斜めで、馬場町や泥堂町の北端は斜めの町割りになっている。それは環濠が出来上がる前からの町割りだと思われるが、そこへ北西方向から入る道があり、「大坂道」と書かれている。戦国時代に環濠を作るため大坂道を取り込む形になったが、斜めの町割りの北側を古代の渋河道が通っていたと推測される。大坂道、奈良街道と呼び名を変えながらも斜交道が維持されてきたのである。古代から推古天皇が作った大道であることの言い伝えがあり、住民の共同記憶として「斜めの線」が受け継がれてきたからではなかろうか。

上左:『摂州平野大繪図』(宝暦13(1763)・平野郷公益会1931) 同右上:大念仏寺東側壁面に沿う馬場門筋 同下:緩やかに曲がりながら進む今堀小路 下左上:西脇門筋との交差点手前の今堀小路 同下:泥堂筋が斜めに交差する西脇門筋 同右:泥堂筋

市ノ口から再出発

 平野郷の町中に戻り、渋河道を辿る旅を始めよう。25号線から御幸筋に戻り泥堂筋との交差点に立つと、道標があるではないか。正面に「當社 熊野権現 祇園社」とあり杭全神社を示し、「右 ふぢゐ寺・大峰山・かうや山」、裏側「右 大坂」とある。大坂市中から来て、大念仏寺にお参りし、ここから東へは葛井寺、大峰山、高野山へ行く道だということを示す。その道の一つは奈良街道とも言って良く、この指示に従い東へと進むとすぐ行き止まりになり、南下し大市筋に入り東に向かう。しばらく行くと車の騒音が激しくなって、宮前東交差点で国道25号線に侵入することになる。つまり現在の奈良街道であるが、本来の平野郷の市ノ口は25号線に沿って180mくらいのところにあった。道路の反対側を見ているとビルの間に石灯籠が2基立つ祠のようなものが見える。これが元の市ノ口だったところに建つ市ノ口地蔵尊である。つまりこの辺りに平野郷の東出口である市ノ口があり、その東側を環濠が通っていたことになる。

上左:平野上町2丁目7の奈良街道の道標 同右上:先の杭全神社に向かう御幸筋沿い、「右 ふぢゐ寺・大峰山・かうや山」の表示 同下:「右 大坂」 中左:大市筋、残在橋筋交差から西向きに 同中:国道25号線の宮前東交差点から西向きに 同右:宮前東交差点を大市筋から入る 下左:25号線沿いに並ぶ立派な商家 同右:25号線沿い北側にある市ノ口地蔵尊

平野川をさかのぼる

 平野図書館の前を通り過ぎると、すぐに平野川に行き着く。渋河道の形跡など何もなくどこを辿ればよいのか分からないので、しばらくは平野川に沿って東南の方向に行くことにする。恐らく昔人も川伝いに歩いたのだろうし、旧奈良街道も川堤に沿って通っていたのだろう。川面からくる涼しい風もあるのだが、お日さんは容赦なく我が身に降りそそぐ。鴨も橋の下で日を避けている。この橋が、平野郷樋尻口から来る道に架かる樋之尻橋。『摂州平野大繪図』にはこの橋から東へ伸びる道を「大和河内信貴山道」、市ノ口から出て平野川に沿って南下する道を「柏原国分道」と添え書きされている。「大和河内信貴山道」は八尾街道に当たり扱いが大きく、小さい文字の「柏原国分道」は柏原で竜田道につながる奈良街道とみられる道であろう。

上左:平野図書館辺りから平野川沿いを南下する歩行軌跡(カシミール3D) 同右上:『摂州平野大繪図』部分 同下:国道25号線から見る平野川上流部 中(3点):平野川周辺風景 下左:右岸沿いの遊歩道、誰かが育てたノアサガオ 同中:自宅裏で家庭菜園も 同右:25号線まで民家が密集している

 橋を渡り右岸に沿って歩く。左岸と比べ小規模住宅が建て込んでいて、裏が川堤という家が多い。思い思いに小木を植えたり花を咲かせたり、空き地に畑を営んでいたりもする。最近草刈りがされたのか、歩きやすい遊歩道になっている。少し行くとピンクの派手派手しい下竹渕橋が架かる。橋を渡った左岸に接する地域は八尾市竹渕と言う住所。平野川を挟んで大阪市平野区と八尾市が複雑に入り組んでいるようだ。しばらく左岸を行き、次の橋を渡りまた右岸に出る。その先に川を跨いで錆びついた鉄橋が架かっている。廃線マニアではないが、昭和以前の匂いがしてすごく親近感が湧いてくる。

上左:鮮やかなピンクの下竹渕橋 同右上:左岸側に出れば堺市竹渕 同下:平野区加美鞍作へ出る橋 下左:右岸沿いの遊歩道 同右:平野川に架かる阪和貨物線(廃線)の鉄橋

蛇行する「平野川」

 鉄橋をくぐったところの工場で作業をする人がおり、ぶしつけながら聞いてみた。阪和貨物線と言って、かつて関西本線八尾駅から阪和線杉本町駅まで通っていた貨物線で、2009年に廃止されたという。そう言えば大和川の北堤の下を通っていた線路を思い出す。大阪市立(公立)大学を一周する線路が最近まであったような気もするが、あれか。同じような年代の方で、この地域の昔の様子を教えてくれる。平野川がここで南に蛇行し、今の川の真ん中あたりまで堤防が突き出ていて、子どものころ川遊びをよくしたという。昔の街道を探していることを伝えると、もうちょっと先に北側に大きく蛇行していた川筋が遊歩道になっていて、その先に神社があり、近くを旧街道が通っていると言う。

上左:廃線鉄橋をくぐる 同右上:鉄橋の下には休憩用のパイプ椅子 同下:右側の樹木帯が旧平野川の川跡 中(3点):平野川右岸、旧川筋に沿ってくねくね曲がる遊歩道 下左:旧川筋は右に曲がって今の平野川に戻る 同右:元阪和貨物線から近畿道辺りまで歩いた軌跡(カシミール3D)

 自然堤防だった平野川は小刻みに蛇行する川で、たびたび氾濫を起こしていたが、昭和20年代から30年代にかけて川筋を真っすぐにする改修工事が行われた。この辺りも蛇行を繰り返していて、川の周辺にその名残が見え、現在では遊歩道になっているケースが多い。この工場西側の緑地帯に川筋の一部が見え、反対側の岸に蛇行していた川筋が小路となって表れている。さらに川上に行くと堤防から左に入る遊歩道が見えるが、これが元の川筋で、右に左に道は曲がる蛇行部分を切り取り真っすぐにつける大工事が行われたわけだ。川に近い土地を所有していたことで、この工場は八尾市に入り、周りは大阪市平野区になっている。

上左:真っすぐになった現在の平野川 同右:蛇行する平野川(昭和30年代) 下左:一級河川の平野川 同右:現代の町並みに蛇行する平野川の川筋を描きこむ

旧奈良街道を見つける

 元平野川の遊歩道に入って行くと、S字カーブが曲がり切った先に新家天満宮があり、境内の隅に石の樋門が遺跡保存されていた。その辺りは平野区加美南5丁目で、昔は新家と言われた町で、町中を東西に緩やかに曲がる道が通っている。昔からの大きな屋敷が続いているので、この道筋が「柏原国分道」、つまり旧の奈良街道に違いない。懐かしさのある風景を見ながら、いつしか国道25号線に出ていた。その先は近畿自動車道の高架が25号線を覆い、大きな交差点を作っている。新家地域を通っていた緩やかに曲がる旧奈良街道は、近畿道を越え南東の方角に伸び、国道25号線に沿って八尾市の跡部、太子堂、大将軍寺などを通って柏原方面に向かうのだった。一方、古代官道としての渋河道は、平野からは南東への角度をやや緩めてあくまで真っすぐに、名称の由来ともなっている渋川廃寺に向かうのだが…。

上左:旧新家の町中を旧奈良街道が通る 同右上:新家天満宮 同下:境内隅に展示された平野川改修前にあった用水路の樋門 下左上:現在の住所は加美南5丁目だが旧町会名を記載した掲示板 同下:旧街道は国道25号線に入る 同右:緩やかに曲がる旧奈良街道

 古街道はあきらめ、もっと北の方を真っすぐ通っていたという渋河道の探検に戻ろう。300mほど北に行ったところに「加美新家町通」という名が付く道があり、その道筋から近畿道を越えて東に進むことにする。

近畿道越え久宝寺駅前へ

 新しく付けた道なのだろう、片側2車線、両側に樹木帯のある遊歩道が付いた今風の街路が伸びている。緩やかに曲がりくねるのが気持ち良いが、元の旧道がこのように曲がっていたのだろうか。後に調べてみると、2010年頃、久宝寺駅前開発の時に整備した道で、元々は古代の条里制が元になった格子状区画で、曲がりくねった古道などなかった。大きく様が変わったが、カーブを描く現代道路に沿って久宝寺駅前に向かうことで渋川廃寺跡にたどり着けそうだ。街路樹がつくる日陰を伝って進んでいくと、SHARPのロゴが付いたビルがあちこちに現れる。1950年代以降、平野区加美や八尾にシャープのラジオやテレビの組み立て工場が並んでいて、日本の高度経済成長を支えるシンボル的な工場街だった。今や工場は海外移転し、これらの八尾事業所は開発やマーケティングの部門だったり、福利厚生の施設だったりする。これからはAIが入り、ますます複雑になって会社経営も大変だろう。

上左:加美新家町通を来て近畿道の高架をくぐるとツインビルが 同右:八尾市北亀井町から久宝寺駅前開発地への歩行軌跡(カシミール3D) 下左:竜華操作場跡地東部に整備された大阪府水みらいセンター 同右上:新設された道路周辺に見える「SHARP」のロゴマーク

元国鉄竜華操作場

 久宝寺駅に近づくと巨大なツインビルのそそり立つのが見える。ここは元国鉄竜華操作場のあったところで、25haもの跡地一帯が住宅・商業複合プロジェクトとして開発された。竜華操車場は、吹田操車場との間は城東貨物線、阪和線とは阪和貨物線で結ばれ、大阪南部の貨物列車や客車を振り分けていく車両の操作場だった。操作場の仕事とは、異なる方面から到着した複数の列車を分解し、行先の方面を同じくする貨車ごとに仕分し、一編成の列車に組成するということになる。貨車が行ったり来たりする操作場の仕事を一日かけて見てみたいと思うが、1986年に操車場が廃止された。彼の人が平野川にかかる阪和貨物線の説明をしてくれていた時、修学旅行生など乗せた客車も時々走っていたと言われて「えっ!」と思ったが、東海道本線で来た客車を吹田操作場から城東貨物線に引き込んで、竜華操作場で組み替えて阪和貨物線から阪和線につないでいた、そういうことになるわけだ。

国鉄竜華操作場周辺の変遷…上:古代の条里制の跡を残す田畑の中にあった操作場(昭和20年代) 中:周辺に工場や住宅が進出してきた(昭和50年代) 下:操作場が廃止され開発が進みツインビルなどが完成した(2010年代)

 この久宝寺駅前プロジェクトの目玉は41 階ツインタワーマンションのメガシティタワーズだが、久宝寺駅から雨に濡れないで自宅に帰れるし、クリニックや保育所、スーパーや銀行など、それに横に八尾市立病院という総合病院もあって、至れり尽くせりだ。どこへも寄り道できなくて家に帰れるなんて味気ないと思うが、住人はどう思っているだろうか。

左:超高層マンション、メガシティタワーズ 右:八尾市民病院やマンションが並ぶ

渋川廃寺

 開発の東端には公園があり、その先にジョーシンが見える。道路を隔てて大和路線が走り、頻繫に列車が行きかう。この線路を挟んで北側にある渋川天神社とジョーシンの一部にまたがって渋川廃寺があったという。2002年の発掘調査で、塔跡と推測される10m四方の基壇跡が見つかったが、それは奈良時代後半に再建された塔基壇と考えられる。渋川天神社東側では鴫尾(しび)が出土したことから、金堂あるいは講堂の存在が明らかになり、塔・金堂・講堂が南北に並ぶ四天王寺式伽藍配置をもった寺院であることも推測される。周辺調査で見つかった溝から寺域を復元すると、その地割の軸方向に並行・直交する道路が現在もみられる。軸方向は約10°東南に傾く斜方位で、想定される渋河道と同様の角度であることから、渋川廃寺は渋河道に沿って寺域が設定されていた可能性が考えられるという。

上左:JR大和路線脇に立って渋川廃寺跡を想像する、ジョーシンから茶色のマンション辺りか 同右上:ジョーシン西端から渋川天神社の杜を見る 同下:渋川廃寺東領南端のジョーシン駐車場から渋川天神社の杜を見る 中左上:大和路線に沿った遊歩道上で発掘された塔基壇辺りを見る 同下:発掘された再建時の塔心礎(八尾市の渋川廃寺調査報告書より) 同右:渋川廃寺跡周辺を歩いた軌跡(カシミール3D) 下左:推定される渋川廃寺領(Googleマップ) 同右:柏原市による渋川廃寺推定寺領((八尾市文化財調査研究会2004より))

 創建瓦は豊浦寺式で、飛鳥時代前期の7世紀前半頃の創建と推定される。日本最古の寺院である飛鳥寺が推古4年(596)に完成し、次いで豊浦寺が建立されたころ、南河内では新堂廃寺、船橋廃寺、衣縫廃寺があり、中河内の渋川廃寺とともに初期寺院として位置づけられる。この辺りは物部氏の発祥地ともされるが、6世紀末蘇我氏に滅ぼされてからは上宮王家の所領となり、聖徳太子が渋川廃寺の創建に関わった可能性がある。南方800mに位置する聖徳太子が物部守屋を討つために戦勝祈願を行ったと伝わる大勝軍寺(太子堂・下の太子)があり、この辺り一帯が太子とゆかりの深い土地柄であったとみられる。その意味で、四天王寺と柏原を渋河道の中間点として、渋川廃寺が建てられたことも納得できるのである。

渋川廃寺の軸線地割を歩く

 ジョーシン久宝寺店の真ん前に線路を挟んで緑の塊が見えるが、これが渋川天神社。これら一帯の110m四方に渋川廃寺の寺領が広がっていたという。そう考えるとかなりな広さの境内だったことがわかる。大和路線の線路わきに立って、今の風景の中に渋川廃寺の伽藍が建つ寺の規模を想像してみたが、電車が通過するごとにイメージがかき消される。寺の真ん中を電車が走るなど想像だにしなかったろう古代人を思うと滑稽でもある。線路を越えて天神社の方に行きたいのだが、八尾駅前の踏切まではかなり遠い。操作場があったところだから踏切などは敷かれなかっただろうと予断したが、誰しも望むところだったのか、線路を地下でくぐるトンネルがあったのだ。狭い道で車も窮屈に通るのだが、歩行者の通路も付いていてありがたい。

上左:元竜華操作場のアンダーパス南側入り口 同右上:入口への北側からのアプローチは超急カーブで左折困難 同下:アンダーパス内部 中左:渋川廃寺領北西隅を求めてハイツ駐車場内を探る 同中:渋川天神社入口 同右:渋川廃寺領の北東隅がありそうな天神社北側の農園 下左:渋川天神社境内の涼しい木陰 同右:天神社の祠脇を走るJR大和路線

 渋川天神社に近づきながら、渋川廃寺北側の寺域を想像しながら住宅地のあちこちを見て回る。天神社はそう広くない境内だが、背の高い樹木に覆われて、全体がすっぽり木陰になり、とても涼しい。ベンチに腰を下ろして、境内南側の線路を通る電車を何回も見送りながらくつろいだ。神社の北側の農園にも侵入して、渋川廃寺の北端を推定し、天神社を入れて寺院全体を想像する。何枚も写真を撮ってはみるが、途中に電車通過するごとに、寺領の具体的イメージがかき乱されるのだった。(探検日:2026.7.10・8.6)

 

投稿者:

phk48176

古市古墳群まで自転車で10分、近つ飛鳥博物館まで車で15分という羽曳野市尺度に住まいする古代史ファンです。博物館主催の展示、講演会、講座が私の考古学知識の源、それを足で確かめる探検が最大の楽しみ。大和、和泉、紀国、河内の歴史の舞台をあちこち訪ねて「My古代史探検」としてブログにアップしています。いろいろな意見をいただければ嬉しいです。

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