⑦蘇我氏の源流を訪ねて・・・葛城から飛鳥へ

はじめに

 ずうっと温めていた企画の一つ、蘇我氏の源流の地を訪ねる探検であります。金剛・葛城の山麓、巨勢山地から国見山、その東裾を流れる曽我川流域一帯は、葛城一族の勢力範囲と見ることができる。587年葛城円大臣が雄略帝に襲撃され葛城氏本宗家が滅亡した後も、葛城の中からいくつかの氏族が勢力を伸ばし、その後の大和政権を支えたとみられる。その一つ、蘇我一族が実力をつけ、権力中枢を握り、飛鳥に一大政治拠点を作る。蘇我氏の最盛期、葛城を蘇我氏の故地と称する馬子は、推古天皇に葛城の地の下賜を要請するものの、叶わなかった。しかし蘇我氏は葛城の地をほぼ掌握するまでになっており、それは蘇我氏のルーツは葛城であることの自覚とこだわりが大きかったことを示している。

 蘇我氏は蘇我川沿いから、金剛・葛城を越え太子、河内へというように西側へ展開し、最終的には飛鳥へと拠点を移してきた。成功者である蘇我稲目や馬子は飛鳥から西方の葛城を見ていて、その地を我がものとしようとした。蘇我氏が活躍し始める頃、蘇我氏源流地の葛城や市尾から東方の飛鳥はどのように映っていたのだろうか。市尾と飛鳥を結びつける視点はあったのだろうか。今回、葛城から意外と近い飛鳥へと東方に歩くが、西から東を見るという逆転の発想で蘇我氏とは何か、何をしようとしたのかの意味を探ろうと思うのである。

蘇我氏の源流の地図
JR掖上駅から国見山をめざし曽我川の扇状地市尾さらに飛鳥の地まで歩く

掖上鑵子塚古墳

 さて、JR和歌山線の掖上(わきがみ)駅まで行くのだが、近鉄御所駅から5分ほど歩きJR御所駅で乗り換えることになる。近鉄はいくら不便な土地でも電車間隔は15分、かなり田舎に行くと30分に一本というところはあろうが、JR御所駅では朝の8時台は1時間半に1本というのだから、まあ、気持ちをのんびり持たんとやってられない。30分ほど待って2両編成の電車が来て、二つ目の掖上という無人駅で下車。
 そこから山の方へ歩く。数年前、葛城一族の古墳巡りで、御所から葛城地域では最大の室宮山古墳を訪れ、山沿いに掖上鑵子塚古墳まで来たのだが、市尾まで行かず、掖上でギブアップしたこともあり、今回はそのリベンジでもある。

 なだらかな山間部の谷沿いに穏やかな山畑風景が続くが、奇妙な風景にぶつかる。ドーナツ状に区画された田んぼの上にこんもりとした森が乗っている、そう見えたのだが、坂道を上りきったところでようやく気付いた。これが掖上鑵子(かんす)塚古墳だった。墳墓の縁に沿う外濠が埋まって田畑がびっしり並ぶ。その田畑をつなげて見れば前方後円墳の形が浮きあがってくるのだった。航空写真を見ればよりはっきりするが、いつのころかは判然としないが、当初はその濠の部分をせっせと田畑開拓していたが、出来上がって全貌を見たら、古墳だったのかと気付いた、そんなユーモラスな後日談が聞けそうだ。5世紀後半の造成、墳丘長149mで238mの室宮山古墳に次ぐ大きさだ。雄略帝に滅ぼされた葛城本宗家の葛城円・眉輪王らの墓に比定する説もあるが、葛城氏及び同氏から一族の首長墓であることには間違いなかろう。

原谷の山間部では田植えのシーズン真っ盛りだった。

国見山から高取へ

 市尾の地域に入っていくのだが、御所市観光協会が発行する、歴史散策マップの「掖上の道コース」の道順に沿って歩くと、その前に国見山に登ることになる。山腹の田では今まさに田植えの準備である代かきが盛んで、赤いトラクターがあちこちで活躍している。この風景を見ていつも思うのだが、高価なトラクターなら何軒かお金を出し合い共同で使用したら良いのにと思うが、それを許さない日本の家制度があるのだろうな。

少し高い山間部では、田植えの準備、トラクターによる代掻きが盛んに行われていた。

 さて、ウグイスが鳴き連なる林を抜けると、国見山への表示があり、山道に入って行く。ブッシュを抜けると杉の植林、結構きつい坂道、開けたところに出ると頂上。標高229mに過ぎないが、なだらかな丘が続く中では一際高く、周辺からは三角の目印山でもある。神武天皇が大和を平定した後、嗛間(ほほま)丘と呼ばれるこの山に登り国見をされ、「なんと素晴らしい国を得たことか」と感嘆された。その国とは、豊穣を意味する秋津洲であり、御所から掖上、高取の辺りの平野部だが、今は樹木に囲まれ展望がきかなかった。

 反対側の下り道をズンズン行くと国見神社、原谷や市尾といった郷土の産土神社である。坂をさらに降ると高取町に入るが、巨勢山地と高取山地とに囲まれた盆地、曽我川沿いに緑豊かな田畑が広がる。山裾沿いに数軒見事な豪邸が並ぶ。大和棟ではない入母屋だが、屋根が何重にも複層していて美しい。植木もよく手入れされ、前を流れる小川が家並みに風流さを加える。そこに通りかかったお婆さんに声をかける。どこから?と聞かれ羽曳野と答えると、うちの娘も羽曳ヶ丘に嫁いでいると言う。私の役所の元上司にこの辺りから来ている人がいて、Kさんてご存知?私の教え子やね、朝から大根100本洗って出勤するという勤勉な人やったね、と。まさにそういう人だったし、ねちこい人で、つまらんことでこき使われた。今も元気だというが会いたくはない‥‥。あなたとは縁がありますね、などと言い交わしながら、別れたが、まあ、大和〜河内の縁なんだろうね。

うっそうとした森の中にたたずむ国見神社には神秘的な雰囲気がある。

市尾宮塚古墳

田畑が広がるのどかな風景の中に市尾宮塚古墳がある。

 さて、JR線のガードを潜って宮塚古墳に向かうが、また地元の人から声が掛かる。あの大きな家ねー、息子らは都会に出て、今はどの家も一人で暮らしてます、という。先祖を護る大変さがグーと迫る。町を外れた田んぼ道にこんもりした森が現れる。これが市尾宮塚古墳で、その一角に赤い鳥居のようなものが見え、誘われるように中に入っていく。古墳に入れる訳で、鬱蒼とした樹木の下に道がついている。前方後円墳と言うがその形ははっきりしない。こんもりした盛土があり、そこがどうも後円墳部分であるらしく、回り込むと横穴石室の入口が見え、高取町が設置した説明板がある。石室は後円部北に開口していて、両袖式横穴式で、玄室長6.2m、幅2.5m、高さ3m,羨道部の長5.4m、幅1.5m、高さ1.8m、全長11.6mの石室になっている。 6世紀中頃に作られた地域の有力豪族の墓、とある。墳丘長44mということだが、その周辺も含めかなり広い丘になっている。

 前方部と思われるところをずんずん歩いて行くとブッシュになり、いつしか竹藪に入り込んでいた。どこまでが墓陵か分からずじまいだったが、元に戻ると墳丘の横っ腹辺りに天満神社の社が収まり、その境内続きにゲートボール場などもあり、地域に親しまれている感じがする。古墳に取り付いた神社ではなく、独立した山の上の神社で、階段をかなり降りていったところで元の道に出る。

市尾墓山古墳

 そこから少し歩くと、田んぼの真ん中に芝で覆われた、牛が眠る姿のような土塊が現れた。これが今回の一つの目的、市尾墓山古墳。外堀含めて美しく整備されている。墳丘長65m、空堀と外堤を入れた全長は110mとかなり大きい。6世紀初頭の、かなり早い時期の横穴式石室を持つことから、国史跡に指定され、保存整備されている。長さ5.87m、幅2.6m、高さ3mの玄室、長さ3.58m、幅1.82mの羨道からなり、石室の長さが実に9.45mもある。玄室は8〜10段に人頭大の石を持ち出し風にせせり出す壁面で覆われており、6世紀初頭としてはかなり先進的な石組み技術で、渡来人技術者が関わったとみられる。石棺は長さ210cm、幅79 cm、高さ60cmと、奈良県下でも最大級のくり抜き家形石棺だという。かなりな権力を持つ豪族とみられる。

墓山古墳前方部から一周して周りの風景を見る。

飛鳥へ

 6世紀後半の蘇我稲目以降、急速に力を持つ蘇我氏だが、それまでの実態は明確ではない。葛城を拠点に活動の幅を広げ、葛城山を越え、太子、石川沿岸の南河内から中河内へと進出し、物部を蹴散らし、時の大王と結びつき、強大な権力を手中にした。中央に乗り出した以後は、飛鳥へと拠点を拡大する。蘇我氏は河内、大和を駆け回り最大の権力を手に入れたが、葛城の地から直接には飛鳥の地には行かず、視野は西、または北に向けて開いていた、と言えるだろう。地理的にはすぐ隣、市尾古墳群から近鉄・飛鳥駅まで直線距離で3km程度だけれど、100年の時間を経てやっと辿り着いだという感じがある。発祥の地から終焉の地へ、今回直接行こうとするのだが、その中間の地には何があるのだろう、蘇我氏はこの地をどう見ていたのだろうか、そういう疑問に答えようと思う。エッ!誰もそんな疑問を持たない?

古墳から北東方面が、これから行く飛鳥~越智岡方面。

 さて、ここから飛鳥へと向かうのだが、今日1日歩いていて、そんなに風景が変わらないことに気が付く。つまり、なだらかな山地、谷合の田畑、それらの間をくねくねと曲がりながら歩む道。平坦な場所は少なく、何処も優しい曲線の連続の穏やかな風景が続く。川や谷川が随所に走り、水も豊かだ。この豊かな土地に蘇我氏が生まれたのかと、感慨一入である。

越智岡古墳群

 北から東方面の緩やかな坂、わずかな勾配を登って行くことになるが、飛鳥へと続く佐田というところ、束明神(つかみょうじん)古墳というのが、その坂の頂に近いところ、春日神社の境内地に築かれている。先ほどの市尾古墳のところは標高90m程度、ここは170mだから80m登って来たことになる。径60mの範囲で造成され、その中央部に墳丘を造っている。埋蔵物から7世紀後半から末頃の造成、埋葬者は歯の鑑定から青年〜壮年期の者、そこから天武と持統の子、あの草壁王子ではないかと推定されるという。また来た道を戻り北に道を逸れた高台にあるのが、岡宮天皇真弓丘陵。岡宮というのは、鸕野讃良(持統天皇)が皇太子のまま死んだ草壁王子に贈った称号だった。

 この丘陵地一帯には越智岡古墳群と言われるほど多くの墳墓があるが、西寄りの丘陵地には与楽鑵子塚古墳、カンジョ古墳など東漢氏の古墳群、さらに北側には新沢千塚の大古墳群があり、大伴氏と関係すると言われる。これら旧氏族の墳墓群の連続で、東漢氏の古墳群の南側、市尾に蘇我氏の古墳群があってもおかしくない、とするのである。そして、生駒西麓の恩智から高安の山がそうであったように、古墳の山と言ってもよい越智丘陵だが、その東側には、飛鳥で繰り広げられた大和政権の皇統につながる子孫が眠る。斉明天皇陵と見られる八角の牽牛子塚古墳、埋葬者は川島王子ともされるマルコ古墳など、太子が河内王朝の王墓の谷、つまり奥津城(おくつき)であったが、この地はまさに飛鳥皇族の奥津城でもあったのだ。

梅山古墳へ

 いったん上り詰めた坂を今度は降るばかりになり、農水省に土地改良総合整備地区と指定され、谷合の棚田を合併などして整地された田畑の道を行くと、そこは飛鳥の地が見下ろせる場所に行き着く。何度も訪れた飛鳥であるが、こうやって西側から来て、高取川沿いに歩くのは初めてで、飛鳥がちょっと違って見える。近鉄線もそばを走り、何本も電車を見送りながら飛鳥の駅に向かう。

高取川に沿って飛鳥への道、そのそばを近鉄特急が走走る。

 もう一つの目的、欽明天皇陵とされている梅山古墳へ。以前に訪れているはずだが、外濠も雄大で大きく立派な御陵だ。墳丘長140mで明日香村では最大の前方後円墳だが、果たして欽明天皇陵か?今回はそこまで行けなかったが、もう少し北の五条野丸山古墳は全長318mと奈良県下最大、全国的には6番目に大きい。埋葬候補者として天武天皇と持統天皇が挙げられているが、7世紀に前方後円墳はないだろう、と思う。白石先生はこの大きな古墳は欽明天皇で先のやや小さい梅山古墳が蘇我稲目であろうと。そして石舞台はやはり蘇我馬子の墓だったとされる。
 欽明、敏達、用明、聖徳太子、推古という6世紀後半からの時期は、仏教導入、布教、物部氏滅亡、律令制などと絡めて、蘇我氏が大和政権の表舞台に登場する時代で、まさに稲目、馬子が天皇を凌ぐ力を持っていた。この蘇我氏の勢いを古墳に反映するなら、五条野丸山古墳=欽明、梅山古墳=稲目、石舞台古墳=馬子というのはうなずけるものだ。

葛城と飛鳥をつなぐ

 葛城から飛鳥の地へと歩き振り返ってみると、蘇我氏の隆盛と終焉の地、葛城の地の端から生まれ出た蘇我氏が、先祖地の近く・飛鳥に帰ってきたと言えるのではないか。飛鳥から見通せる葛城の展望は、蘇我一族の栄華の道筋であり、それは同時に葛城氏のそれでもあった。葛城氏との系譜のつながりを望んだ稲目、馬子にとっては、葛城と飛鳥がこのように一体の地として認識されていたと考えられる。そして、今ではすっかり飛鳥の風景と言われるが、蘇我氏の故郷である葛城、市尾、飛鳥に共通してみられる小高い丘陵地の緩やかな田園風景がキーポイントではなかろうか。この生まれた時の風景を求めて、飛鳥の地に進出していったとも言えるのではないだろうか。
 そんなことで、白石太一郎先生の論文を下地に葛城〜飛鳥を歩いてきたが、一番心に留めたのは緩やかな丘陵地の風景であり、葛城・飛鳥という場所は、ヤマト人の暮らしの原点であるように感じ入ったのである。(探検日 2020.6.4)

葛城から飛鳥の地図
なだらかな丘と平野が繰り返し続く葛城から飛鳥へのランドスケープが蘇我氏の原風景か

投稿者:

phk48176

古市古墳群まで自転車で10分、近つ飛鳥博物館まで車で15分という羽曳野市某所に住む古代史ファンです。博物館主催の展示、講演会、講座が私の考古学知識の源、それを足で確かめる探検が最大の楽しみ。大和、摂津、河内の歴史の舞台をあちこち訪ねてフェイスブックにアップします。それら書き散らしていたものを今回「生駒西麓」としてブブログにします。いろいろな意見をいただければ嬉しいです。

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