⑥炎天下の巨勢路を行く。


はじめに

巨勢路地図

 今回は大和から紀伊の国への葛上斜向道路とは別ルート、巨勢山地の東裾を行く巨勢路を五条まで行こうという旅。葛上斜向道路とはどのように違うのか、自分の足で確かめてみようという試みです。梅雨も明け、本格的な夏が始まった8月1日。雲が空を覆うことない全くの夏空、この下を歩いていくのかと思うと、「これはやばいことになる」と不安がよぎったが……。

曽我川に沿った古瀬街道

 近鉄吉野線・橿原神宮駅から岡寺、飛鳥と来て、ずっと坂を降りてきた電車は市尾駅に停まる。無人駅でプラットホームから、芝が刈り取られこんもりした小山の市尾墓山古墳が見えている。


 前回、靴が壊れたので頑丈な登山靴に履き替え、さあ、と近鉄吉野線沿いに歩き出す。結構電車が通るが、コロナ禍の中どれもガラ空き。巨勢路は古瀬街道とも言い、緩やかに曲がりながら伸びていく。現在名は奈良県道120号線だが、遮るものがない炎天下をただただ歩く。見どころは古い民家くらいで訪問すべき史跡も見当たらない。古瀬街道は曽我川に沿って伸びて行くが、向こうに見えるのは葛の町並みか。川沿いから別れ町中に入ると、すっかり街道らしくなり立派な門構えの旧家が続く。往年にはさぞかし栄えたのであろう。

しばらくは近鉄吉野線に沿って古瀬街道をゆく。


   

       

     

大分前からチラチラ見えていたのだが、近鉄・葛駅裏側の山、崖崩れなのか?赤土を剥き出しにした山肌が見える。すぐそばまで民家が立て込むが、さぞ怖かったろうと同情もしたくなるが、近寄ると道も家並みも落ち着いた様子で、被害の跡がうかがえない。元々土取山のようで、葛建設という会社がすぐ近くにあり、そこが建築用の土石をとっているようだ。崖崩れなら哀れも誘うが、金儲けで山肌を削っているとなると情けも風情もあったものではない。見に行くんやなかったと悔やまれる。

権現堂古墳から巨勢寺塔跡

 街道筋は寂れたところもなく、昔ながらの家並みが続く。どの家も玄関先の掃除が行き届き、花も植えてあったりして、歩く者の気持ちを和らげてくれる。町中を過ぎ曽我川沿いをずんずん歩くと、一つ目の目標、巨勢寺塔跡に近づくが、距離的にはこっちの方が近い、ということで先に権現堂古墳を見ることに。案内板も見つけにくく、人に聞くしかない。おばあさんが庭の草取りをしていて聞いてみると、ああ〜、と。そこへ嫁が助っ人に入り、もう少し行ったら階段があって上った所の神社にありますと、要領よく教えてくれる。しっかりした嫁で、姑との仲も良さそう?

街道に沿って走っていた近鉄線は大きくカーブし曽我川を渡る。

 急な階段を上り切ると天安川神社があり、境内脇にこんもりした土盛り。それが 権現堂古墳で、径15mの円墳で横穴式石室があり、その中に家形石棺が見られる。古墳時代も終末に入った6世紀前半の築造という。武内宿禰(たけのうちすくね)を祖とする氏族は、葛城氏、蘇我氏、平群氏、紀氏を始めとする27氏と多いが、巨勢氏も同様で、継体天皇擁立に貢献したことで徐々に勢力をつけ、平安時代初期まで中央政権の要職についた。巨勢氏は市尾から重阪峠辺りまで巨勢山地と吉野山地に挟まれた谷間を流れる曽我川に沿った僅かばかりの平野を切り開いていった。広大な平野はないものの、管理はしやすい地形だった。葛城氏が衰退し、大和から紀伊の国への官道が葛上斜向道路から巨勢路になりつつあった頃、この街道を治めたのが巨勢一族であり、その一人がこの街道を見下ろす絶好の位置に権現堂古墳を設けたとみられる。

 その氏族の名が付く寺院、巨勢寺の塔跡へは平地まで降り、曽我川を渡りまた小高い丘に登るのだが、JR和歌山線と近鉄吉野線に挟まれた畑の中にあった。寺院全体は不明だが塔跡のある小さな空間だけが史跡にされている。この辺りには名だたる旧所名跡が少ないものの、一帯を治めたのが古代氏族、巨勢氏であることを高らかに訴えている。7世紀、聖徳太子の創建と伝えられるが、権力のアピールが古墳から寺院に移ろうとする時期に当たり、草創期の寺院建築だった。古瀬(こせ)、御所(ごせ)などの地名に残るように、巨勢氏の権力の大きさを示す壮観な寺院風景が、この巨勢路を見下ろす丘の上にあったとみられている。

塔跡の東側を近鉄吉野線、西側をJR和歌山線が走る。

吉野口駅から川合八幡神社

 街道筋に戻り、古瀬の町中を過ぎるとすぐに吉野口駅にたどり着く。ここへ来るまで、ジュースの自販機ごとに道端に座り込み水分補給しているが、これで何回目だろう?駅前の旅館風建物の自販機で、この辺りならどこでも売っているイチゴミルク缶を買って、駅待合で一休みする。この駅はJRと近鉄の共同使用駅で、改札内での乗換えが可能であり、吉野と和歌山を繋ぐ結節点だ。そのためか待合室は広々としており、風も通って涼しい。近鉄電車は割と頻繁に駅に出入りするが、JRの電車は休憩中に見たことがなかった。

 また炎天下を歩きだす。さすが吉野杉の産地、製材所や木工加工の工場が並んでいた、そんな気配のする建物が散見できる。ややッ!駅西側の山も大きくえぐられ山土が剥き出しになっている。かなり規模が大きいが、きちんと工事壁で囲われているところを見ると崖崩れではなさそう。山本商事京奈和採石場ということだ。
 ここからJR和歌山線に沿って山裾の道を行くことになる。車が時折通るが、眼下には長閑な田園風景が広がる。線路へ降りて行く土手道があり、その周りの草刈りが行われた直後なのか、いい匂いがする。何か懐かしい匂い、うーん、葛餅の匂いだな。ガードレールには刈り残しの葛の蔓が絡まっていて、そこら一面に葛の葉が広がっていたのだろう。どこにでも見られる雑草なのだが、葛の根っこを粉末にして澱粉を作り、それを捏ねて餅にする。近鉄吉野線市尾駅の次が葛駅で、土取り山があったところが葛という地名だから、さぞかし葛の名産地なんだろう。この辺りは御所市古瀬、奉膳という地名だが、吉野方面から流れてくる川が蘇我川に合流するため、広い平野部になっている。手前にJR、平野を挟んで川向こうに近鉄吉野線が走り、時折電車が通過する音が聞こえる。

手前、巨勢路に沿ってJR線、平野の先に近鉄線が走る。

 しばらく行くと、地元の産土神、川合八幡神社の奥深い緑の杜が見える。ここには「引き合い餅」という伝統行事が今も変わらず伝えられている。藁で編んで中に餅を入れた「コグツ」という袋を神前から落とし、それを担いで石段を駆け上がり、数回繰り返した後子どもたちが「コグツ」を境内で引き回し、最後に餅を配るという祭事だが、何か占い行事のようにも思う。「コグツ」というのは、藁で編んだ袋で藻や貝を入れていたようで、紀の国の海産物との関係がありそうだが‥‥?この祭事を分かりやすい写真パネルにした説明板が立てられているが、いつまでも引き継がれることを願うばかりだ。

水泥双墓

今回のもう一つの目的は2基の水泥古墳だが、それを見たくて山裾の集落に入って行く。分かれ道の先に古墳の絵を描いた地図看板があるが、いずれもその行く先に❌がしてある。少々不安になりながら水泥北古墳を探すが、当たりを付けて周辺の山の中に入っていった。意外と近い場所にこんもりした土盛りを見つけ、円墳と推量して登ってみた。古墳らしくはあるが確証を得られないまま、雑木林を降りてくると他所の庭に出てしまった。ちょうど誰もいなく、さっさと道に出て逃げるように先を行くと、南の方に古墳らしき土盛りがあるのを見つけた。すでに昼過ぎで、この土盛の木陰で弁当を広げたが、食べた後、道路脇に回ると、横穴式石室の入り口があり、これが水泥南古墳とする説明板もある。先ほどの雑木林の山が水泥北古墳、つまり塚穴古墳だったわけで、それと認識せずに墳墓に上がり込んでいたのだ。これらが水泥の双墓と言われるものだった。だいぶ疲れも回ってきたのか、勘違いも多い。


 水泥北古墳は径20mの円墳、6世紀後半〜末期、南の古墳は径25mの円墳、7世紀初頭で石棺石蓋の突起に6弁の蓮華紋がある。7世紀には寺院がどんどん建っているので、仏教との関連が考えられる。いずれもこの地を治めた巨勢氏の首長墓と考えられる。一時期、日本書紀にある蘇我蝦夷・入鹿の「今木の双墓」に比定されたが、年代が合わない。この双墓も巨勢道を見下ろす絶好の位置にある。

炎天下を延々と歩く。

 街道筋に出るべく歩いていくが、人家も途切れ、知らずのうちにリサイクル工場に入っていた。クレーンを操作する人から、「行き止まりでーす」と大声で注意される。そうやがな、ここへくる前の分かれ道に行き止まりの❌があったな、もう忘れてる。暑さにやられたか?

手前に近鉄、田んぼの向こうをJR和歌山線が走る。

 また元に戻り、県道の方に入り、今度は近鉄吉野線沿いにアスファルト道が伸びる。時折近鉄の特急電車が通過するだけで、周りは山と田んぼに覆われている。石垣がうず高く積まれた崖が現れ、こんなところにお城かと思いきや、この上にあるのが「薬水」という駅だった。駅を過ぎると近鉄線は大きく東へカーブし山の中へ入って行き、下市から吉野へと向かう。
 私の方は右に折れ集落の道に入って行く。吉野郡大淀町薬水という地名で30軒ばかりの村だが、西側にJR和歌山線も走り、考えようによっては、電車道に近いのだから暮らすのには便利かもしれない。などと思いながら、また県道に出るとひたすら真っ直ぐな炎天下の道を歩かねばならない。

重阪峠へ

 JRの線路に沿って500mくらい登坂を歩くと、「重阪第1踏切」が線路を横切り、今度は下り坂になる。「重阪」と書いて「へいさか」と読むが、巨勢路最高の峠のはずだが、意外と楽に越えられたな、というのは大きな錯覚だった。降り切ったところが重阪の集落で、元庄屋か?立派な門があり、延々と続く塀で囲まれた大名屋敷のような邸宅がある。東に方向を変え「重阪第3踏切」とある踏切を渡ると、じわじわと登り坂になって行く。まだ坂が続くのかと思うと腰が引けて、民家の駐車場らしき屋根の日陰にヘタヘタと座り込んでしまった。「もう歩かれへん」とだだこねる子どものような気持ちになるが、そこは大人なので気持ちを落ち着かせ、10分ばかり足を伸ばして休憩。仕方なしに歩き出すが、明日の朝刊に「炎天下、古代史探検家が干からびて死亡」と出たらどないしょ、なんてちょっと心配になってきた。今回は途中棄権も視野に入れる必要があると思い直のだった。容赦なく真っ直ぐな急坂が続くが、ちょっとした木陰でまたへばってしまった。

 道路の反対側を見ると、あれは金剛の山並み、あの麓は近内の辺りか、などと前回の葛城古道のことが懐かしく思われて、また立ち上がるのだった。そこからまだ500mもあったろうか、本物の重阪峠に差し掛かったのだった。先日歩いた葛城古道の風の森峠が281m、荒坂峠が216mでかなりキツかった。重阪峠の標高は200m程度だから大したことはないのだが、炎天下ではやはり辛かった。普段なら重阪峠越えの巨勢道の方がなだらかで歩きやすいはずで、葛城古道、葛上斜向道路よりは利用が多かったように思う。

北宇智駅へ

 あとは降りで、「テクノパークなら」という工場団地に入って行く。最後の水分補給、RAYSエンジニアリングという会社内に自販機が見え、ちょうど良い日陰もあり、水分補給と休憩に敷地内に入ることに。リュックも下ろし靴も脱ぎ、ああ〜、これで命拾いした。もう足も付け根から痛み出しているし、五条まで歩いても新奇なこともなく、ちょうど北宇智駅も近いし、あと5km残してしまうが途中棄権します。


 400mほど歩いてJR和歌山線の北宇智駅。まもなく王寺行きが来たので乗り、御所まで行こうと思ったが、次の吉野口駅が近鉄との共同使用駅であることを思い出した。ここで近鉄に乗り換えたら古市まで一本で行ける。これは便利だが、吉野口から北宇智駅まで、午後歩いてきた道のりの約6kmの間に駅がないのだ。国鉄の駅の作り方ってどうなの?私鉄なら、重阪、薬水あたり、2km毎くらいに駅を作るだろうにな、と思わないでもないが、半日かかって苦労して歩いてきた道筋を5分ほどで戻ってしまう。軽快に通り過ぎる窓の風景を眺めながら、ああ〜やっと終わったという安堵感で満たされるのだった。(探検日 2021.8.1)

北宇智から吉野口までJR和歌山線で戻る。
市尾から北宇智まで高低差
市尾から巨勢路を歩き北宇智まで17km重阪峠は標高200m
投稿者:

phk48176

古市古墳群まで自転車で10分、近つ飛鳥博物館まで車で15分という羽曳野市某所に住む古代史ファンです。博物館主催の展示、講演会、講座が私の考古学知識の源、それを足で確かめる探検が最大の楽しみ。大和、摂津、河内の歴史の舞台をあちこち訪ねてフェイスブックにアップします。それら書き散らしていたものを今回「生駒西麓」としてブブログにします。いろいろな意見をいただければ嬉しいです。

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