③葛城名神大社を巡る。

はじめに

奈良県内の名神大社

 熱い最中の8月9日という日に、古代から最も重要とされる葛城の名神大社を巡る旅をしようというのだ。名神祭とは、国家的事変、または発生が予想される際、その解決を祈願するための臨時の国家祭祀であり、名神大社とは、名神祭の対象となる神々(名神)を祀る神社である。「延喜式」で最も格が高い神社とされるが、その名神大社が葛城地域には、7社もある。大和全体では14社ある内、半分の7社が葛城にあり、残りの大半は三輪山近辺の山辺、磯城地方にある。鴨都波・葛木御歳・高鴨・一言主・葛木水分・高天彦・葛城坐火の各神社である。最高の社格を持つ古い神社が、大和でも東と西に隔たった二つの山麓に集中しているのは何故だろうか?初期大和政権である三輪王朝が宮を定めた山辺、磯城地方にあるのはわかる。そこから類推すると、葛城に多くあるのは、そこには三輪王朝に匹敵する王朝があり、国づくりをした重要な歴史を持つ地域であったからではないかと‥‥。

 名神祭の具体例として、政治事変もいくつかあるが、ほとんどは祈雨、祈止雨、豊年予祝や災害予防であり、農業生産に関わる神事であった。豊穣をもたらす土地であるからこそ国づくりの中心地でもあった。さまざまな意味でこの土地の奥深さを探求する旅なのだが、しかし、この暑さに打ち勝てるかもこの旅の課題である。

鴨山口神社へ

 まずは近鉄・御所駅から西方、葛城山へ向け、緩いのだが坂道をひたすら歩く。暑いとは言え、まだ8時過ぎなので日差しは柔らかい。1kmほど歩き櫛羅(くじら)の旧村へ入るが、途中、何やら怪しい気配のある路地、奥に大木とその下に鳥居があり、私を誘う。崇道 (すどう)神社という。桓武天皇の弟である早良(さわら)親王は、天皇の信頼熱い藤原種継が暗殺された事件の首謀者の一人として無実の罰をかぶせられたが、自ら食を絶って淡路へ移送される船中で死んだ。死後、親王の怨念凄まじく、皇室の不幸や疫病が流行り、その祟りを鎮めるため祟道天皇を追称し、それを祭る神社とか。桓武が長岡京を諦めた原因はここにあるという。崇道と名の付く神社は京都、奈良市内にもあるが、何故櫛羅の地にあるかは、いろいろ調べたがわからない。

 さらに西へ進むと、葛城山への登り口でもある鴨山口神社。皇居の用材を献上する山口祭を司っていたこと、「延喜式」に山口社 は14社あるが、鴨山口神社は本社となり格式が高いことなどが由緒書きに書かれてあるが、誉も高い名神大社のことは一言もない。あんちょこの「葛城の神話と考古学」(靏井忠義・著)にも鴨山口が名神大社とは書いていない。エッ!早とちりだったか。数ある山口神社の中でも「鴨」と付いているし、葛城の代表的神社と思ったが、木材調達という別の役割があったということか。なかなか名神大社には行き付かないが、気を取り直して一言主神社へ向かおうと、山麓線に沿って南へ。

葛城古道を行く。

雄大な葛城の山並み
雄大な葛城の山並みの麓の道を歩く

 途中にある九品寺に寄って行こうと山際に道を逸れると、その手前に駒形大重神社とある。ものはついでと、更に山手に上がり、鳥居から長い参道を行くと、涼しげな石段が見え、その上に件の神社。どうということはないのだが、この大重神社というのが式内社で、地元の名士である滋野貞主という人が、仁明天皇の皇太子時代に学士として家庭教師をするほど学識高く、政治家としても有能な人物で、「生まれつき思いやりがあり、‥‥人を傷つけない様気遣いする人‥‥」であったため、当地・楢原では貞主公の人徳をしのび、御祭神と仰ぎ、家内安全、学業成就、良縁の神として人々に篤く崇敬され、この神社に祭られた、とある。人が神になるという自然な過程が語られていて、ちょっと感動する。9世紀前半のことだが、こういう徳のある人を生み出す豊かな文化性がこの地にあったのだろうな。

 坂道を下り、九品寺へ。車で何度か来ているが、今回、奥山に祭られた千体石仏を見たかった。昔からあったのだろうが記憶にない。本堂裏の石地蔵が並ぶジグザグの山道を登り切ると整然と配置された千体石仏、数えていないがもっとありそうな。それらの前に立つ「倶会一処(くえいっしょ)」の石碑。あちこちで見かける碑文だが、今一つ飲み込めないことが多かったが、ここに来てその意味がすうーとわかる気がする。極楽浄土に来れば仏にもいろんな菩薩にも会えてありがたい教えを受けられる、そのように精進しなさい、ということなんだろうが、これだけたくさんの石仏に一処に会えると、なんだか楽しくなる。浄土は良いところと思えてくる。

九品寺千体石仏
どれにも丁寧によだれかけが掛けてある千体石仏手前には倶会一処の石碑

葛城一言主神社へ

 回り道ばかりしていて名神大社には行き着かない。もう10時半、かなり暑くなってきたが、次はいよいよ一言主神社へ。御所市制定の「葛城の道」を歩くが、この道は山裾の一番高いところを行くのだが、寺や神社を繋ぐ元々の巡礼の道のように思える。田畑の畔を行ったり山中に入ったり、曲がりくねったりで、きちんと整備されている道ではないが、青々とした田んぼが広がる葛城の山麓全体が見通せる。山間の田んぼにも水路から盛んに水が注ぎ込まれ、今まさに稲穂の成長真っ盛りだ。歩きづかれた頃、やっと森脇という集落に入り、一言主神社の森が見えてきた。

葛城古道は山麓の田畑の上、山裾を縫うように伸びる。そこからの眺めは雄大だ。
葛城の山からの水が稲作の田んぼを潤す。

杉やカエデやいろんな常緑樹に覆われた石段を登ると涼しげな境内に入る。一言で願いを叶えてくれる神さんということで、今や人気のスポット、参拝者は途切れることがない。雄略天皇が狩りでこの辺りに出かけたとき、同じ姿をしたものが天皇に先に名乗らせ、その後に自ら一言主の神であることを宣言したという。古代史における英雄の一人である、あの雄略天皇に一歩も引かず堂々としていたのは偉いと思うが、一言主神を祭る氏族である葛城氏が天皇家の外戚でもあり、大きな力を持っていたことの表れでもあったろう。また、雄略との出会いの一件は、自ら神であることを名乗ることで天皇をも恐れさせるという、言霊としての言葉の最も原初的な力を言い伝えているように思う。

 一言主神社の参道は、山麓線の道路をくぐり、その距離500mくらいあろうか、真直ぐ森脇集落まで続くが、その入り口にある大鳥居は今も健在だ。地元が誇りにしていることがうかがわれる。

森脇から長柄へ

 片上醤油の前を通り、森脇集落を南の方へ歩くが、お茶も切れて喉がカラカラ。自販機があっても良さそうなのだが、全く見当たらない。頭もボーと、軽く吐き気も催してきて、これからますます暑くなるし、熱中症が気になりだしてくる。次の予定は水越峠の途中にある葛城水分神社で、車が走る道路を2kmも登らなあかん。ここは撤退し、極楽寺だけ見て帰るのが賢明か、と悩みながらも名柄の方に歩いていく。

 しばらく行くと、山麓線長柄交差点にローソンの看板が見えるではないか。坂道を山麓線まで登り躊躇なく飲み物コーナーに。濃縮オレンジ、キリンソーダ、濃茶のペットボトルを買い、店の隅で一休み。ゴクゴクと一息にオレンジジュース、冷たい、うまい。ソーダもチョビチョビと、ほとんどからに。しばらくすると、不思議なことに何か力が湧いてくる。冷たいもので体が冷やされ、枯れた土地に水が染み込むように全身に水分が行き渡り、しおれ切った花がまた咲き出すように、力が漲ってくるんですね。ガラス越しの彼方に水越峠方面が見えるのだが、そうこうしているとそこまで行くか、という決断がつくのだった。私にも水を分けてもらった、ということか。

葛木水分神社へ

 11時半も過ぎ、暑さもピーク、それに車がビュンビュン走る国道309号線の車道脇を歩かなあかん。危ないわ、暑いわで生きた心地がしない。もう我慢一徹で1km余り歩いたところで車道から逸れ、急坂の地道に入る。もう限界かと思い出した頃、遠くに葛城と金剛の分かれ目、水越峠の凹みがくっきり見える。あれが「秋津洲」のいわれの元になった蜻蛉の交尾形のクローズアップだが、近くではそのようにはイメージが膨らまない。

 また、1kmほど登ったところに脇道があり、その上に水分神社があった。急崖の途中を切り開いたところに造成されているので決して大きくはない。これが明神大社かと思われるが、規模の問題ではなく、金剛葛城の水を山裾に争いなく分配する水分神社という重要な役割を持つ神社なのだ。大和国水分四社(都祁・宇太・吉野・葛城)の一つで、五穀豊穣の生産力の源。小さな祠だが、境内を隔てた舞台は開け放たれ、そよそよと風も入る。上がり込み、靴も靴下も脱ぎ、すっかり寛ぎ、ランチとした。神さんのご利益か、なんとか生きた心地が蘇り、体も楽になってきた。   

 山を下り、今度は309号線の下を潜り、増という集落を通り極楽寺へと向かう。道中、人っ子一人に出会わず、セミの声はあちこちでしているが、静まり返った町中。もちろん自販機など見かけることがない。

増の集落内は、涼しい風が吹いて静かだった。

南郷遺跡群を訪ねて

 5世紀代、倭の五王の時代に活躍した葛城一族の最大の生産拠点であった南郷地域。金銀銅の金属などの生産工房、流通拠点、導水施設、居住域などが複合した南郷遺跡群を通過するのだが、遺跡の形跡が全くない。南郷町に入り、山麓線からはずれてだいぶ下の方まで踏み込んだのだが、田と果樹園などが広がるばかりであった。とりあえず極楽寺で休憩し、体勢を整え再出発することにする。

 南郷遺跡の中でも高殿か政庁施設と思われる大型建物があり、眉輪王をかくまったとして雄略帝に焼かれたと見られる極楽寺ヒビキ遺跡を是非見たいと思う。スマホのグーグル地図検索をすると見つかり、そこまで音声で道案内をしてくれるではないか。どんどん田の間の道を下り目的地近くに来たが、なんの目印もない。

 小さな棚田を大きな区画にする圃(ほ)場整備事業の過程で、30年ほど前から徐々に発掘され、全体として南郷遺跡群と名付けられたが、今はすべて埋め戻されている。地図の指し示す場所は、林に囲まれているのだが、進入路が見つからず、行きつくことができなかった。残念。南郷遺跡群については、後日じっくり調査することとする。金剛山上近くに差し掛かった太陽が逆光で眩しいが、雄大な田園風景の中にポツンと一人取り残された感じだ。

葛木御歳神社へ

 もうすっかりグーグルマップ頼りだが、このまま下るしかなく、マップが指示するとおり24号線を越えた葛木御歳神社へ向かう。マップの指示は、信号機があるところでしか道を渡らせないから、かなり遠回りさせられたが、何とか明るいうちに神社に到着できた。

 そんなに大きくはなく、こんもりした森にひっそり佇んでいた。お祭神は背後の御歳山に鎮まる御歳(みとせ)神で、古来より朝廷の年頭の祈念祭には、まず当社の御歳神の名が読み上げられ、名神大社に列する全国の御歳神、大歳神の総本社であることが詔される。「トシ=歳」は稲の実りを意味する古語で、御歳神は五穀豊穣をもたらし穀物の生長を司る神として崇敬されてきた。また、古代鴨氏が祭った名社で、高鴨神社(上鴨さん)、鴨都波神社(下鴨さん)とともに中鴨さんと親しまれている。今回は、一言主、葛木水分、葛木御歳の各神社、前回には高天彦、高鴨の各神社を回っており、鴨都波、葛城坐火雷の各神社は後に訪れることになる。

葛城一族の勢力

 フラフラになりながらもその中を歩いてきた葛城・金剛の裾野、そこ一面に広がる真っ青な田は山からの清らかな水で潤され、豊かな実りをもたらすに違いない。秋津洲と言われる御所平野では、弥生時代からの広大な田園遺跡群が発見されているが、古代には全国の田園地域と比べて最も広大で収穫量も一番多かったのではなかろうか。神武天皇が切り開いた国土でもある秋津洲には、神武に続く欠史八代天皇と言われる各天皇にかかわる史跡が多いことは前回に取り上げた。

 葛城一族にかかわる古代王権の活動場所といい、名神大社の所在といい、この葛城地域には、大和政権が成立する以前から大きな勢力が成立していたと見られる。名神大社の指定は大和政権以後のことだが、葛城に大勢力が成立していたことの記憶がそうさせたとも言える。自然地形とそこからもたらされる豊穣な生産物をもってして、当然の成り行きだと思うのである。よく見ると、初期大和政権が成立した三輪山麓に広がる纒向の風景は、葛城地域のそれとはよく似ている。豊かな生産力をもたらすところには大きな権力を生み出すエネルギーが充満している、と言えるであろう。

カシミール踏破図

 すっかりくたびれて、小殿という奈良交通バス停のベンチに座りバスを待ちながら、今朝からの来し方を思い出していた。古代葛城一族が確かに存在し、この地域を治め、大和に政権が移った後も見果てぬ夢を見続けていたことが確かめられた、と実感したのである。この暑い中、やはり20kmを超える歩みだった。何度も死ぬ思いをしたが、またこうやって生き返っている。人間の再生力とはすごいものだと、これも人間に備わった自然の力なのだと、しみじみ感じているのである。(探検日:2020.8.9)

投稿者:

phk48176

古市古墳群まで自転車で10分、近つ飛鳥博物館まで車で15分という羽曳野市某所に住む古代史ファンです。博物館主催の展示、講演会、講座が私の考古学知識の源、それを足で確かめる探検が最大の楽しみ。大和、摂津、河内の歴史の舞台をあちこち訪ねてフェイスブックにアップします。それら書き散らしていたものを今回「生駒西麓」としてブブログにします。いろいろな意見をいただければ嬉しいです。

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