⑤葛上斜向道路ー葛城古道を歩く。

はじめに

 梅雨空のわずかの晴れ間を縫って古代史探検に出かける。御所から葛城襲津彦の墓と言われ、葛城最大の室宮山古墳にお参りし、長柄まで登り、そこから金剛山裾を南へ行き、風の森峠から幾つか古墳を巡り、宇智、荒坂峠から五条まで行こうというハードコース。葛城一族が大和政権の中枢で活躍し最も栄えた5世紀、南郷地域に鉄製造を始め大工業地を抱え、葛城が大和と紀伊との交通の要衝でもあった。その主要幹線であった葛上斜向道路を辿ってみようという試みである。
 近鉄・御所駅から始めるが、どんより曇り、ポツポツとするものが‥‥。今日一日中は晴れなくとも雨は降らないと、天気に絶大な自信はあったが、いきなりこれやがな……。傘をさすまでもないが、南へ南へと向けて歩き出す。

鴨都波神社

 鴨都波(かもつば)神社、これは葛城の下鴨神社。全国200社あまりの名神大社の内大和に14社あり、その内7社が葛城にあるが、その一つ。より古い社格をもつが、何故葛城に集まるか、その秘密解明の名神大社巡りは第3回目に行ったのでご参考に。この周辺一帯は弥生時代から古墳時代に続く集落が発掘された鴨都波遺跡であり、三角縁神獣鏡が4枚も出た4世紀中期の古墳もあり、大和政権に近い葛城氏の前身勢力があったのではないかとみられる。これより東側、秋津遺跡や中西遺跡など弥生時期の水田や集落遺跡が見つかり、広大な田園の生産力を元に一大勢力があったとみられる、あの万葉和歌で読まれた秋津洲(あきつしま)なのである。
 

 さて24号線沿いをテクテク歩き、蛇穴(さらぎ)という交差点。御所というか、この秋津洲という土地には妙な地名が多く、それらを探すのも楽しい。忍海(おしみ)、浮孔(うきあな)、玉手(たまて)、掖上(わきがみ)、佐味(さみ)などなど、古代的な匂いがする地名は探検意欲をそそるが、これはこれでまたいつの日にか……。

広々とした田んぼの南端に宮山古墳が横たわっている。

室宮山古墳

「蛇の穴」から東にそれ地道を行くと、何やらこんもりした森が見えてきた。自然の山には見えず、もう前方後円墳でしかなかろう。これが室大墓と呼ばれる室宮山古墳である。墳丘長238mは葛城で最大だが、5世紀初期の築造ということは応神陵、仁徳陵など古市、百舌鳥と同時期だし、倭の五王とともに葛城一族の活躍期に当たる。巨大な墳墓を造れる実力があり、実在した人物とみられる葛城一族の統括者、葛城襲津彦の墓だったと。金剛葛城の山麓からも優れたランドマークとなり、緩やかに北方に降っていく広大な秋津洲を見下ろす巨勢の山裾に位置することから、この土地を治めた王者が眠るにふさわしい、風格ある大古墳だ。東に後円部からり一回りするが、やや南寄りに室八幡神社があり、きれいに掃除された境内の一角に孝元天皇宮跡の石碑が立っていた。孝元天皇陵は玉手の山にあったのを2回目の「欠史8代天皇」の時に伝えているが、そこからもこの古墳が良く見えた。葛城の王者であるとともに、室の地元に崇敬されている感じもよく伝わる。

大きな宮山古墳をまじかに見る。

長柄神社

 道草ばかり食っていては時間が足りなくなるが、本日のテーマは葛城氏が栄えた頃の都から紀伊への幹線道路、葛城古道でもある葛上斜向道路を五条まで歩こうという探検なのだが、まだその本道にも達していない。それは金剛の山裾を行く道なのだが、ひとまず長柄神社をめざして坂道を登ることにする。名柄は金剛、葛城の間、水越峠から降りてきて初めて出合う村だが、河内~大和をつなぎ、それこそ古代から街道筋として栄えた。長柄の南側、井戸、佐田、南郷といった地域一帯に、今で言う工場団地のような産業拠点があり、この地を治める者の館である大型建物や倉庫や住居、さらに水の祭りが行われた祭祀場などが発掘されており、今までの葛城イメージを一変させるような古墳時代の集落遺跡が発見された。南郷遺跡群と言われる有名な遺跡で、高殿があった極楽寺ヒビキ遺跡や水の祭祀場があった南郷大東遺跡など、その跡を一目見たいのだが、それらを回っている暇はない。葛城一族であろう豪族の居館が発掘された名柄遺跡が長柄神社の近くにあるというのだが、その周りをうろついても形跡が全くない。説明板も見当たらない。ひょっとして他の南郷遺跡のそれぞれも今は全て土の中なのだろうか。この発掘のきっかけになったのは、小さな区画の水田を大区画の水田に造成する圃場整備事業だから、現地調査し記録し終えたらさっさと埋め戻されてしまい、遺跡がそのまま残されているという悠長な話ではないのかもしれない。

金剛・葛城の麓に広大な田園が広がる。

 それはともかく、長柄神社に参拝し、そこから出ようとしたら、石灯籠の記名に「堺屋太一建立(池口小太郎)」とある。ふん?周りの玉垣には「池口太郎」と記名されたものが何本も立っている。あの堺屋さんとどないな関係?と葛城古道沿いの散髪屋のご主人らしき人が暇そうにされていたので聞いてみる。やはりあの堺屋さんで、散髪屋さんの筋向かいの邸宅が堺屋さんの実家。先祖はここから堺に出て両替商で成功された。ご本人は大阪に住み、戦争時分疎開で帰っておられ、長柄小・中学校に通われていたとか、里帰りされたら必ず寄ってくれるとか、大臣の頃は流石にSPが付いていてなかなか会えなかったとか、親しげに話をしてくれた。その実家の横には、池口家が永年局長を続けていた郵便局があり、現在「郵便名柄館」として保存されている。ああ、そうそう、堺屋さんは私の高校の先輩でもあったんですな。

葛城古道

 この斜向道路の一部は「葛城古道」として御所市の観光ルートになっていて、なだらかなアップダウンを繰り返す。滅多に車が通らないので、金剛、葛城の山容を眺めながらのんびり歩ける。名柄、井戸、佐田という集落を過ぎた辺りから左に旋回し田畑の中を降る道になる。この辺りが南郷遺跡群の個々の遺跡が点在する場所だが、今は金剛の山裾からの扇状地に青々とした田畑が広がる。箸墓古墳があり邪馬台国の拠点とされる纏向辺りは、三輪山麓の広大な扇状地。纏向、葛城という土地は、大和の東と西に起こった二大勢力を支えるにふさわしい生産力の高いところで、共通して実り豊かな風景が広がっている。

南郷遺跡群がこの下に眠っているのだろう。

 さらに南へ行こうとすると、延々と国道24号線を歩かなければならない。この辺りは近代以降の開発が激しく、古道が消えている。恐らく地形的には一番低い、葛城川に沿った谷筋を通る道、船宿寺の下を通る道がそうだろう。谷の上の平地を切り開いて通したのが24号線で、だらだらと坂道が続く。マイカーやトラックがビュンビュン猛スピードで通るので危なくて、オドオドしながらも3kmくらいアスファルト道を歩きに歩くのだった。ようやくのことで風の森峠に着くが、「峠」というくらいだから、高い位置にある訳で、標高270mもある。佐田で4号線に入った地点が140mくらいだから、130mも登ったことになる。風の森という風雅な名前に惑わかされてはいけない、結構しんどい峠越えなのだ。

山麓からの水は葛城川に集まってくる。
車の行き来も盛んな国道24号線。

風の森

 風の森神社はそこから西へ200mほど登った小高い丘の上にある。古代には元々そうだったのだろう、うっそうと茂る樹々に囲まれ小さな祠があるだけの神社で、木の葉の擦れ合う音とともに神さんが風に乗ってやってくる感じがする。実はこの丘の西側の麓には舗装された古代道路が通っていたのだ。大規模区画の圃場整備事業のきっかけで掘り起こされた時に発見されたのだが、近江俊秀氏「道路誕生―考古学からみた道づくり」に詳しく報告されている。幅3m程度、15cmほど掘削された部分に礫を敷き詰めその上に砂を埋める。また、軟弱地盤では木の幹や枝を混ぜた砂で埋め、その上に地面より高く砂を盛り路面とする、といった舗装道路だった。安全性と補修を前提として作られた道路で、大和と紀伊を結ぶ重要な幹線道路だった。

風の森の古代道路
古代道路が通っていたとみられる道筋
古代道路が発掘された鴨神遺跡一帯を見る。

 ここから降るのだが、田んぼの中の道を行くことになる。広大な田園の向こうに金剛の峰々、南の下方に連なるのは吉野の山々が大パノラマで広がる。この雄大な風景の中で風の森の丘は良いランドマークになったことだろう。紀伊から登ってくる旅人にとって、大和への入り口だし、葛城からは紀伊への出発点であったろう。

金剛山をバックに雄大な風景の中を紀伊への道を歩く。

塚山古墳

 さらに降るとまた24号線沿いに出るが、すぐ別れ出屋敷町への山道に入る、はずだった……。平成6年に修正測量された1/25000国土地理院地図にはその山道がはっきり出ているのだが、今は京奈和道の橋脚ですっかり変形されていて、集落へ入る地道は寸断されている。新たに付いた側道をしばらく行くと標識があり、なんとか出屋敷町への坂を進むことになるが、目当ては塚山古墳。しかし、古墳らしき土盛りや林が見えず、ズンズン奥へ入ると、家の庭でおばあさん二人がおしゃべりをしている。そこへ割り込んで「塚山古墳どこですか?」と聞くと、私を先導してそれが見える崖縁まで連れてくれる。ほう!田んぼの真ん中に緑の四角い土盛り。予想した古墳とは全く違って、抽象造形の見事な形。「そんなに古墳が好きなんか?」「そりゃ、女より好きでっせ。」「奥さんよりエエか?」「古墳はコーフンしまっせ。」とダジャレを言ったりして打ち解ける。「昔の話だが、麓の24号線からこの欅の木が見えて、この木を売ってくれという人が家まで来てねー。450万円出すというのだが、どうもその人の住む方角が悪くて売らなかった。次また買いたいという人が来て、その人はお金がない、というので250万円で売った」と言う。岸和田のだんじりの柱に使うらしい。    

 そんな昔話を問われぬまま次々と話してくれるのだが、私も先を急ぐので別れの挨拶をして坂を降りる。切った欅の後に新芽が出て、その木は今や幹径50cmくらいの大木になっているが、木を売った昔というのは何年前だったのかねぇ?キツネにつままれたような話に思えて頭がボーとしてくる。
 坂を登って来た時は気づかなかったが、確かに田んぼの真ん中にある方墳。一辺24mで、高さ5mで、箱式石棺には壮年男子の全体骨がほぼ完全な状態で発見されたという。5世紀中頃以降ということは葛城一族の活躍期に当たり、紀伊への街道筋を治める豪族の墓だろうが、傾斜地の中間で麓の街道筋を見下ろす絶好の位置にある。

つじの山古墳・猫塚古墳

 この葛城古道と言われる街道は今の国道24号とは別に金剛山裾の少し高いところを行く。曲がりくねり、尾根と谷を縦断するのでアップダウンを繰り返す。吉野からやってきたJR和歌山線が大きなループを描きながら和歌山方面へと旋回してくる。線路の風景を遠くに見ながらいくつかの集落を過ぎ、近内町に入るが、意外と大きな町だ。20年も前になるが、500mほど下ったJR北宇智駅から近内町を通り、神福山・久留野峠経由で金剛山に登ったことを思い出す。大坂へは久留野峠越えで千早に降りて行くのだが、昔は大阪からのその道と葛城古道が交差する街道筋として、近内町は大きな役割があったのだろう。北宇智駅は1896年に設置されたという古い駅だが、この駅の重要さは、和歌山と吉野・奈良を結ぶ急坂に位置する駅で、スイッチバックをする駅だったという。

JR和歌山線と京奈和国道が並行する山間部に田畑が広がる。

 さて、大阪への道との交差点を100mほど東に外れたところにつじの山古墳がある。一辺52m、高さ9mの方墳で、周濠と堤が巡らされ、東側に造り出しがあり、そこから入ることができる。手入れはされているようだが、雑木や竹があちこちに生え、踏み込みにくい。ほぼ一周したが、2段築造の墳丘であることがわかる。近内古墳群には約100基の古墳が確認されていて、その最後の首長墓とみられる5世紀後半の築造。街道から今は24号が走る谷筋までの中間にあり、この山野を一望できる絶好の場所にある。街道筋の権力者が眠るにふさわしい位置あるといえるだろう。

 

金剛山麓から谷筋を見下ろす絶好の位置にある塚山古墳。

 アップダウンをいくつか越えて行くと、茂み中に「←猫塚古墳150m」の標示。ま、最後の古墳になるので、もう一踏ん張りして行こうと標示に従い脇道にそれる。坂を下ると京奈和高速の高架が架り、間違ったかと思うものの、他に道はなくそこをくぐり、勘を頼りに田んぼ道を行くと、ありましたがな!150mどころではない、300mも歩いただろう。今回も田んぼの真ん中に方墳。青々とした草でおおわれ、やや小ぶりなのが一つ。説明板もあり、近内古墳群の中にあり、一辺32m 、高さ5mの2段築造の方墳、周囲に幅15mの周濠があったとされる。

荒坂峠~五条

 風の森峠から五条の町への荒坂峠を結ぶ街道筋には、この間の各地域を分担して治める首長がおり、街道を見守るような位置に彼らの墓があった。葛城一族の支配下で重要な幹線道路を補修もし、管理もしていたのだろう。あとは下りばかりかと思いしや、どうしてどうして、林の中を急な登り坂が見えてくる。死人にムチを打つが如く、これでもかと坂道が続く。ようやく登り切ったところに、奈良カントリークラブなるものが横たわり、その坂の頂上の交差点が、万葉集でも詠まれた荒坂峠だった。

 眼下に五条の街並が見え、本当にこれからは下りばかりだと、ホッとするが、もう足は棒状態だ。あとは五条駅でJR和歌山線に乗り、橋本で南海に乗り換え河内長野、またそこで近鉄に乗り替え家路に着くことになるが、五条駅に着いたら6時近くになっていた。駅ホームでベンチに座って電車を待つことにしたが、ふと足元を見ると靴がエライことになってますがな。途中、ペタペタと靴底で音が鳴っているのに気づいてはいたが、へー、靴底が破れている。よくぞここまで、無事に歩いて来られたことか、もう10年以上履いている。主に山歩きに使っていたが、時にはシティウォークにも。いやー、長年お世話になりましたな、もうお役御免にしますから、ゆっくりしてください、と玄関に置いといたら、女房殿はさっさとゴミ回収に回すのだろうけれど……。


 御所から五条まで9時間余り、歩行距離合計22km。御所辺りが100mで風の森峠が280m、荒坂峠が180mだから、標高差最大180m。風の森峠越えは古代でも難所だったのだろう。しかし、葛城、金剛の山塊に見守られ、その山裾の雄大な風景の中を行くのはとても気持ちが良い。いつの時代の人々もこの爽快感とともに歩んだに違いなかろう。
 葛城氏が大和政権をその中枢で支えた 5世期末までは葛上斜向道路、葛城古道が大和と紀伊を結ぶ幹線だったが、雄略天皇に滅ぼされた以降、紀伊への幹線道路は巨勢道に代わりつつあった。次回はその巨勢道を行くことにしよう。(探検日:2020.7.15)

御所から五条まで高低図
全長22km最高標高281m最低標高97m8時間30分の歩行でした
投稿者:

phk48176

古市古墳群まで自転車で10分、近つ飛鳥博物館まで車で15分という羽曳野市某所に住む古代史ファンです。博物館主催の展示、講演会、講座が私の考古学知識の源、それを足で確かめる探検が最大の楽しみ。大和、摂津、河内の歴史の舞台をあちこち訪ねてフェイスブックにアップします。それら書き散らしていたものを今回「生駒西麓」としてブブログにします。いろいろな意見をいただければ嬉しいです。

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