はじめに
暑い夏も過ぎ、だいぶ涼しくなり、いよいよ古代史探検、最適の日和です。特に今日は良い天気。この晴天の日を待っていたのは、もう一つの狙いがあるからなのだが‥‥。
鳥越憲三郎先生の葛城王朝論。10代崇神天皇からは大和・三輪山裾に宮を構え、大和政権が始まるとされるが、それまでの時代、2代綏靖天皇から9代開化天皇まで、欠史8代天皇と言われる時代を指して言う。その時代、大和西南部から始まり、大和全域、更に西日本主要地域を統括する権力者が存在し、彼らが大和王権の元を築いたとされ、それが葛城で活躍した葛城王朝であるとされる。欠史8代天皇については、次回に譲るが、今回はその葛城王朝が発生する起源を問うことになる。つまり天孫降臨の地、高天原を訪ねようとしている。
葛城の天孫降臨神話
葛城、この場合金剛山に棲む葛城一族は、高皇産霊(たかみむすび)神を祖神とし、金剛山の中腹に広がる大きな台地である高天(たかま)の地に居ます高天彦神社を拠点に活躍した。高天という地名は、金剛山が高天山と呼ばれたことに起因するが、山裾の田畑で覆われた平坦地である「下界」とは趣が大きく異なる。
天孫降臨の神話は、天皇の祖先が天つ神として天から国土に降臨したことを宣言することに始まる。素戔嗚尊(すさのおのみこと)が神劔を天照大神に献上した後、出雲国の大己貴(おおなむち)命が天孫の瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)に降服することで国譲りが完成するのであるが、瓊瓊杵を天降りさせた司令役は誰か?一般には天照大神とされるが、これは紀記成立期に位置付けされたもので、より古い伝承群によると本来の皇祖神は高皇産霊であり、天降りを司令したとする。別名の高木神は巨木を意味し、植物の生成力を神格化した「むすひ」の神と習合したものと見られ、生命の源とされる神である。高皇産霊の司令により瓊瓊杵が天降りし、出雲の大己貴命に国譲りを迫り、その息子の事代主(ことしろぬし)神の了解により国譲りが成立した。
葛城・高天の麓で耕作に励む鴨一族が祖神としたのが事代主神であることから推測するには、葛城一族が金剛の山裾一帯を領地とする鴨一族を支配していくことで葛城王朝を築いていった、この国づくりの過程が、高皇産霊神が事代主神を支配し国譲りをさせた、天孫降臨から国譲りの神話を彷彿とさせるものがある。
第10代崇神天皇の時代以降一時葛城氏の影が薄くなるが、4〜5世紀にかけ、葛城襲津彦(かつらぎそつひこ)の活躍で大和政権内に外交や武力を元に蘇ってきて、御所・南郷遺跡群に見られるように葛城一帯で先進性を発揮する一族として活躍するものの、5世紀末雄略天皇により葛城本宗家が滅ぼされる。その後に、葛城氏傍系である蘇我氏が6〜7世紀にかけ、皇室に匹敵する権力を持ち大和政権を主導する。権力を欲しいままにする蘇我馬子が姪でもある推古天皇に、蘇我氏は元葛城一族でありその本居である葛城の地を領地としたいと願い出るものの断られる。それほど蘇我氏には葛城氏への先祖意識には大きなものがあった。蘇我氏の史記であり、葛城一族から蘇我氏へと躍進する蘇我史観が反映されていたであろう推古勅撰書には、葛城氏の起源を解くような神々の物語も記されていたに違いない。645年の乙巳の変(大化改新)直前、蘇我蝦夷により他の国史とともに焼かれようとしたが、一部が火中から取り出され、中大兄皇子に奉ったとされるが、その中に推古勅撰書があったのではないか。
天武期に構想され養老4年(720)に完成した日本書紀には、大和朝廷を開いた天皇家のルーツとして、天孫降臨から神武東征にいたる大和の国づくりの神話を伝えるが、天智・天武に伝わった蘇我史観の国史がベースにあったのではないか。また、乙巳の変で蘇我氏が滅ぼされたとしても、100年どころか数十年後の時期であり、蘇我氏全盛期の物語、蘇我氏が伝えたであろう葛城氏の起源神話などは伝説として人々の記憶にはまだ新しく残っていたであろう。そのように考えると、日本書紀における大和王権の神話は、葛城一族の大和への進出と国治めの実話があったからこそ、それをベースに創作された物語だったのではないか。天孫降臨の現場は、高千穂ではなく葛城ではないのか、そんな夢にも似たイマジネーションが広がるのである。
風の森から高鴨へ
前置きがたいへん長くなりましたが、葛城天孫降臨の足跡を探っていきましょう。まずは、近鉄御所駅からバスで風の森へ。そこからてくてく高鴨神社、さらに登坂となるが、金剛山登り口の高天彦神社へと向かう。
風の森から高鴨神社辺りの稲田には穂が重く垂れ下がり、刈入れも間近なことを知らせる。畔に咲きだした彼岸花の赤と稲穂の黄色のコントラスト、その彼方に青々とした金剛山がそびえる雄大さは、葛城の豊かさを最も美しく表現している。この豊穣の風景の中で、葛城一族が大和を治めるまで発展していくという葛城神話が生まれた。歩いては立ち止まりして、想像逞しく葛城物語を覗き見る、心躍る古代史探検の旅である。
何度も来ている高鴨神社であるが、社は撮影禁止だったのに初めて気付いた。神の居ます住まいは心の眼で感じるべし、ということか。祭神、阿遅志貴高日子根(あじしきたかひこね)命は父を大国主に持つ農業の神、別名、迦毛之大御神(かものおおみかみ)は鴨一族の祖神。事代主神も大国主の息子で、大国主に代わり国譲りを承知した、地上界の責任者というところ。迦毛之大御神という鴨一族の祖神は全国に散らばる農耕、生産の神さんで、京都の鴨神社が有名だが、元は葛城なのだ。後ほどにわかることだが、天孫系に支配される地上の神さんであることには変わりない。
参拝も済ませ社務所に立ち寄ると何やら神々しき光を放つものがある。「風の森」という地酒、小瓶が550円もするが、これは神の酒、買うべし。御所の町中の酒造メーカー油長酒造の酒で、御所周辺の契約農家が作る「秋津穂」という地元米を存分に使った生酒が主体、その分通常より2倍は高い。まだ歩き始めというのに荷物になるが、こういうものはリュックに入れても一向気にならない。
鴨族が住んだ地
さて、風の森から山への一帯は大字鴨神という地名で、いかにも鴨一族の里という感じだが、坂道沿いに一面の田んぼ。昔は狭い段々畑の向こうに高鴨神社の杜が見える長閑な風景だった。数十年前の圃場整備事業により田んぼは広くなったが、その分、田と田の段差が大きく、あぜ道も直線ばかりになり、近代的な景観に一新された。土地の高度が高くなるにつれ耕作放棄する人が増えたのか、荒れ地に草刈機を入れている人を見かけた。せっかく広げた田んぼなのに草地にしてもったいない。高いところは水回りも悪く稲も育ちにくいのだろうか?地蔵寺がある集落は廃屋も見られ、ちょっと寂れた感じ。古い歴史の村が限界集落になるのは忍びない。
地蔵寺から住宅に沿った地道を登ると県道30号・山麓線に出る。連休半ばのよく晴れた日なので行楽の車が引っ切りなしに走る。道成りに行くと眼下には鴨神の田園風景の大パノラマが広がる。稲刈りをするのか、あちこちで人の動きが見られる。圃場整備がなされたとはいえ、秋のこの風景は古代から変わらずあったのだろう。事代主を祭神とする、農耕の民である鴨一族の勤勉さが為せる技だったに違いない。
葛城川の支流の一つを渡ってしばらく行くと伏見地域に入るが、山麓線下に丸い形の小さな池が見え、池周りに彼岸花がちらほら咲いている。カメラ雑誌に出てきそうな秋風景の絶好の撮影ポイントになるに違いない、と見上げるとカメラマンらしき人が集まり出してきている。やっぱりそうなのか。周りの土手は石積みで護岸されていて、取水溝と排水口も取り付けられた立派なため池なのだ。
高天への道
さらに歩くと「高天」の標識。左に折れ、坂道をズンズン登る。眼下には黄一色の稲田が広がる。400mも歩くと山裾の辺りに何やら怪しげな気配。さらに近づくとしめ縄を這わした鳥居、その奥に続く薄暗い山道が私を誘う。さあ、ここから天孫の神々が遊ぶ高天ヶ原か、と思うと背筋もピンとしてくる。曲がりくねる山道に逆光線が落ち、霊気漂う中を登るが、結構きつい坂道でもある。一汗かいた頃、道も平坦になり林の中を数10m行くと、パッと視界が開け、田畑の向こうに三角山とこんもりとした森が目に入る。今まさに刈り入れを待つ真っ黄色の稲田が広がり、空にはトンビが舞う。これが高天ヶ原の風景なのか、眼にしっかり覚え込まそうとする。
目が慣れたころ、その先に鬱蒼と茂る杉木立が見えてきて、それが並木であるとわかる。抜けると、正面に石の鳥居が見え、奥に高天彦神社の祠が現れる。静々と拝殿まで進むが、先ほどからの霊気のようなものが神社の鳥居をくぐっても漂っていて、凛とした空気感がある。山裾の下界から森を抜け真っ直ぐに神社と霊山に向かって行くことで、神に向かう気持ちがストレートに伝わる、そういうアプローチなんだなぁ。車で多くの人が訪れていて、駐車場は元より神社玉垣近くまで車を止めている。恐らく金剛登山者のものだろうが、麓から歩いてしんどい目をして登らないと、この天上の世界の美しさは分からないだろう。
祭神は、瓊瓊杵尊に司令し、地上に降り事代主神に国譲りを承知させるようにした高皇産霊神である。別名高木神で、神社の背後にそびえる三角山、白雲岳は神体山そのものとも言え、境内に漂う霊気なるものはこの山から降りてきているのだな。もう一つの祭神は市杵嶋姫命(いちきしまひめのみこと)で、アマテラスの娘とも言われ、高皇産霊と共に最も原初的な神でもある。そんなこともあり、ここには何かを生み出そうとする創造のエネルギーが渦巻いている気がする。それを予感しているのか、若いカップルも多く、拝殿では二拝二拍手一礼を丁寧に行っていた。
高天原のイメージ
若干の起伏があるが、神社周辺から北の方、高天の集落を抜けて高天寺橋本院にかけての台地は自然地形のままの平地が広がる。神社前では草地だったり、柿畑になってもいるが、橋本院周辺は一面の稲田で、見事な黄色、豊作の色に染まっている。青々とした金剛、つまり高天山をいただき、雲上に真っ黄色の豊かな世界が広がる、この風景をもって天孫の神々が住う天界と言わず、なんと言おうか‥‥、と見たのだろう。
この天界の黄色を目に焼き付けて、来た道を戻ることにする。今度は降るばかりで気持ちも軽く、早足になる。そして樹林を抜けると一気に視野が開け、近くの民家や遠くの稲田が眼に入ってくる。さーっと下りのジェットコースターに乗り下界に降り立ったような気分である。そうなんだ、あの森の樹林は天孫が降臨する時の雲間で、暗い中を大急ぎで降下していたのだ。登る時にはそうとは感じなかったが、降る時はまさに天孫降臨の過程そのものだ。
こうして車道を離れて一歩一歩村中を降ってくると、さっきの神々しくもあった真っ黄色の世界は何だったのだろうか、と狐につままれた気分になる。夢を見ていたような、全く別世界にいたような、そうか、あそこが天上界だったのかと思わずにはいられない。雲間は天界から下界、また下界から天界へと場面転換する偉大な装置でもあるが、高天の森はその雲間の役割を担っている。こういう想像から、天孫降臨のストーリーが思いつかれたのには、全く無理がないことが実感される。
葛城が伝える天孫降臨神話
紀記が伝える天孫降臨神話は、鳥越憲三郎先生が説かれるように、葛城一族が鴨一族を支配することから、神武から始まる欠史8代の大和征服への葛城王朝の歴史があり、大和政権の出現とともに葛城王朝が消え、また襲津彦の活躍で葛城氏が復活、雄略に本宗家が滅び、傍系の曽我氏が成り上がってきてそのルーツである葛城一族の歴史を神話化して後世に伝えようとしたのだが、天武の律令制の確立と同時に、蘇我史観を元に後の藤原氏がアマテラスをルーツに万世一系の天皇家の履歴として改編していった。国の起源を語る神話は、国家盛衰の歴史とともに塗り替えられてきたのだが、神話といえども全くの架空の話ではなく、なんらかの事実に基づいていると考えられる。
天孫降臨神話と同様に神武東征も架空性が強いが、この神話の根本を葛城一族の鴨一族の支配、葛城王朝の大和征服の過程と見ると、現実的に理解しやすい。紀記では、大和の一地方の征服史とするのは規模が小さいと九州から東国に股をかける壮大な物語にしたかったのだろうが、史実は意外と小規模に起こった現実的事象ではなかったのではないか?とは言えど、実り豊かな秋の晴れた日の元、高天の現実世界を見ながら、高天原と天孫降臨の神話世界に想像をたくましくさせることができたのは、心躍る体験だったし、古代史探検の至福のひとときだった。この季節、実り豊かな時期に来たからこその感慨だったのかもしれない。こういうことがあるから、探検歩きはやめられまへんな。
(探検日:2020年9月21日)
つまらん指摘ではありますが、市杵嶋姫はアマテラスの娘とありますが、アマテラスとスサノヲの「うけひ」によって生まれた子は、その物実によってどちらの子か決めることになったので、スサノヲの物実である十掴剣から生まれた市杵嶋姫はアマテラスの子ではなくスサノヲの娘です。