三野県主と生駒西麓の古墳

①はじめに

 大阪府立近つ飛鳥博物館の企画展「寛弘寺古墳群と紺口県主」(2019年4月27日~7月7日)の現地見学会に参加し、「三野県主と生駒西麓の古墳」というテーマで八尾市内の北東部の平野部から生駒西麓一帯を探り歩いた。(2019.6.1)

生駒西麓の御野県主神社から玉祖神社一帯の地図
縄文後期から現在まで人の暮らしが生きづく地域この一帯は古墳時代前期には三野県主一族の支配地だった

御野県主神社

 6月1日(土)、近鉄・河内山本駅に9時半集合、参加者50人はいるか、古墳時代の地域豪族の古墳を巡り、王権と地域豪族・県主(あがたぬし)との関係を探る見学会が始まった。まずその名も御野県主(みのあがたぬし)神社を訪れる。河内国河内郡上之島村の氏神で、 地域の豪族である美努連(みぬのむらじ)、三野縣主一族の祖神とされる。創建年代は不詳だが、平安以前にはその存在があったと考えられる、古い神社だ。

自然堤防の西側にはびっしり住宅が建て込んでいる。

 八尾市河内山本のこの辺りは、元大和川であった長瀬川と玉串川に挟まれた扇状地で、大和川によりもたらされた肥沃な土砂が堆積した、弥生時代からの豊かな農耕地だった。この県主神社の西側の雑木林が神社境内より4〜5m盛り上がっている。これが玉串川の東側の自然堤防だったという。玉串川の氾濫を防ぐとともに上流から取水しこのあたりの田畑を潤した、ということになる。684年天武天皇により、県主から連(むらじ)の姓(かばね)を与えられ、美努連(みぬのむらじ)を名乗るが、東大阪市水走、花園あたりから八尾市福万寺、上之島、山本あたりまでの広大な地域を治めていた。県主とは、律令制以前の地域を治める豪族であり、ヤマト政権から直接任命されていた地方官だった。大阪府内には摂津三島県主、河内には三野県主、志紀県主、大県主、紺口県主、和泉茅渟県主と6つの県主が存在したことが分かっているが、詳しいことがわからない。今回見学する大和川が流れていた八尾・山本から神立の生駒西麓までの広大な扇状地、肥沃な土地はこの当時としてはヤマト政権の中でも最も大きな農業生産力、経済力を持つ地域であって、ヤマト政権も手放さなかったであろう。ここにいち早く目をつけ、強力な県主を配置したということだろう。それはどういう人でどういう成果を残したか、この地域を歩き回って調べてみようというのが見学会の狙いなのだが‥‥。

②東山本の縄文~弥生期の遺跡群

 次に住宅地を抜けて心合寺山(しおんじやま)古墳に向かう。ずうーと平地で、びっしり家やアパート、マンションなどが建ち並ぶが、所々畑もある。今は夏野菜の植え付け時期で多くの人が畑に出ている。南北に走る国道170号線(外環状線)あたりから徐々に坂になっていくが、先程の神社から北側一帯は 池島・福万寺遺跡で5〜8mの標高があり、縄文晩期〜弥生前期の集落や墓がある大竹西遺跡、古墳期前期の集落、画文帯神獣鏡片が見つかり、さらに弥生前期中段から現代までの水田などの農耕遺構が重層している。外環状線付近には大竹西遺跡があるが、生駒西麓から西方の平野部にかけては縄文期からすでに陸地であったが、標高32m〜8mのあたりに弥生期の水田跡や木棺墓、土壙墓、土器棺墓で構成された墓域などが見つかり、多くの人が定住し、安定した生活の営みがあった事実が発掘されている。元東高野街道から右折、その辺りから上り坂と感じられるが、少し行くと住宅が建て込んだ裏側に鏡塚古墳があった。直径28m高さ5mの円墳だが、南部分が大きく滑落している。南東に方形をつけた前方後円墳とも見られているのだが‥‥。

③心合寺山古墳

 鏡塚古墳から見あげると、100mほど先に、見学会のメイン、北・中河内最大、全長160mの前方後円墳である心合寺古墳が白く輝き横たわっている。標高25m〜35mの西面する斜面に立地し、大阪府内では唯一、墳丘が復元された古墳である。摂津富田の継体天皇陵と見られる今城塚古墳は外堀堤が復元され、その上に膨大な数の形象埴輪が並べられていて、それはそれで見事なんだが、墳丘自体は崩れたままになっている。だからここの復元墳丘は美しく、見応えがある。

 前方部を下から登って行くと、10cm〜50cm程度の自然石がびっしり並べられている。斜面傾斜が緩やかだからそうは感じないのだが、石を段々に積み上げるやり方は石垣の作り方でもあり、角の石積みは城の石垣そのものだ。4世紀末〜5世紀初の築造なので、城を意識した石積技術は確立なされていなかっただろうが、このような古墳造成で培われた石積技術は、白村江の戦い敗北以後、対馬や屋島、高安などに造った対唐軍のための石垣城造りの元になっていたと、確信するのだが……。

 それはともかく、ここからの眺めが抜群なのだ。河内平野が一望できて、古市古墳群から上町台地、大阪港、遥か彼方には六甲の山並みが見えるが、古代には河内平野を大和川が悠々と流れるありさまも眺められたであろう。振り向けば生駒の山並みがぐーんと迫ってくる。この雄大な眺めを我が物とできるのは、河内を治めた雄ならではないだろうか。さて、この墳墓にはだれが埋葬されていたのだろうか?

前方部から西側、パンして河内平野を一望する。
後円部から東側、パンして生駒山地を眺める。

 この地域の首長墓系譜から言って、三野県主にかかわる累代の墳墓と目されるが、この5世紀初頭、古市では墓山古墳から応神天皇陵へと大古墳造りのピークに差し掛かる時期で、中河内の雄・三野県主は河内王朝のヤマト政権とは無関係のはずがない。むしろ、ヤマト政権は大和川の扇状地という豊かな土地の治世者・三野県主を大いに当てにしていたに違いない。そして、県主は古市の大古墳造成に大きな労力と経費を支出したに違いない。

④河内の県主とヤマト政権

 河内の他の県主にも同じことが言えて、志紀県主、柏原の大県主、南河内の紺口県主それぞれが豊かな土地を持ち経済力のある豪族たちだったが、彼らは地域を自立させながらもヤマト政権と連携する関係を持っていた。これらは単に支配・被支配の上下関係でなく、それぞれの地域の支配権を認め合いながら協力関係を持つ、政治連合、首長連合と言ったネットワーク型の権力構造を成立させていた、そんなことが言えるのではないか。その連合型が初期ヤマト政権の在り方だったが、7世紀以降、天智、天武などの有力大王が一元支配する律令制が確立していくが、それに向かう過渡的な社会権力構造として、大王と県主たちによる連合型政権が続いた、と見ることができると思うのである。

大阪府内の県主支配地
大阪府内に6つの県主一族が存在したという河内には4氏族と多くありこの地域が早くから文明開化していた証なのか
古墳の編年図
心合寺山古墳は古市に大古墳群が造成される5世紀前半の時期に当たる河内王朝と三野県主一族の関係はあった

 私が偉そうに初期ヤマト政権を論じても仕方ないのだが、今回の近つ飛鳥博物館の講演会でも、学芸員の先生たちはこうもはっきり県主と大王との関係に言及されない、そもそも県主の存在さえ明言されない。考古学的にはこれを確実に証明できる発掘物がまだない。何ともじれったい思いだが、まあ、はっきり言えば、私の推論のことをみんな言いたいのではなかろうか?好きなことを言ってる素人は気楽なもんだが、真相はどうだろうか?


⑤府内最大の横穴式石室―愛宕塚古墳

 午後はさらに生駒西麓を登って行き、大阪法科経済大学構内にあった全長50mの前方後円墳・花岡山古墳、全長70mの前方後円墳・西ノ山古墳、さらに標高60~80mの麓に渡って造成された全長105mの前方後円墳・向山古墳など、次々と古墳時代前期(4~5世紀)の古墳を見て回る。これらは三野県主一族に関係するものと見られるが、さらに上、標高70m辺りに、直径25m、封土の高さ9mの円墳、その中に高さ4.1m、幅2.4m、奥行6.8mと大阪府内最大の横穴式石室を持つ愛宕塚古墳がある。6世紀後葉の造成、一説に物部氏の有力者の墓と言われる。巨大な岩石が積まれた石窟空間、ここには蚊も寄ってこない、真っ暗でひんやりとしている。横穴式石室には何回も入ったことがあるが、4.1mという、背丈の2倍以上も高さのある空間は初めてで、まさに巨大空間、強大な権力者が眠っていたと、確信できる。

向山古墳は全長105mの前方後円墳、4世紀(古墳時代前期)の造成とみられる

⑥玉祖神社

 さて、ここでもう一つ推論。6世紀後半、蘇我氏と争い、ついに587年物部守屋は死没した。5〜6世紀には、饒速日命(にぎはやひのみこと)を祖先とし、大王家を武力と神事を持って支えたのが物部氏である。支配地域は河内一帯で、この三野県主一族とかなりな部分重なるわけだが、この両一族の関係はどうなのか?物部氏は大伴氏とともに4世紀末葉の河内政権の成立に伴って台頭してきた新興勢力であるが、大王による地方支配が強化されていく6世紀以降、王権に近仕し、特定の職掌を分担する伴造(とものみやつこ)豪族として強大化していく。河内の治世者は、ヤマト王権の三野県主から河内政権の伴造・物部氏へ移り変わるのだが、どのようにして物部氏の支配へと変わったのか?闘い滅ぼしたのか、禅譲されたのか、はたまた三野県主一族は物部氏の先祖なのか、6世紀には八尾を含めた河内は完全に物部氏になっているのは確実なことなのだが……。

 愛宕塚古墳は、前方後円墳が造られなくなる6世紀後葉の築造であり、石室が巨大である。また、それ以前の築造である県主一族の前方後円墳より高い場所(標高70m程度)にある。そして、八尾市北東部、高安11カ村の氏神である玉祖(たまおや)神社はこれらの墳墓よりもさらに一段高いところに鎮座し、これらの墳墓をはじめ河内平野一帯を手中に収め、この地域全体から崇められる場所にある。その少し下の南側にある都夫久美(つふくみ)神社は物部氏の祖神ウマシマジを祭神とし、物部氏の一族・積組連(つぶくみのむらじ)氏神とするが、物部氏の滅亡により振るわなくなり、玉祖神社に合祀されることもあった。もちろん推論だが、これらの古墳の形状、築造場所、その高・低を絡めてみるならば、物部氏と三野県主一族は敵対する関係ではなく、婚姻関係なども結び融合を図りながら、この地域の治めを三野から物部に移行していったと見られる。旧氏族と新氏族の権力の関係、自己主張しながらも先行者には敬意を払う、元々の地主神には絶対的に崇拝する、そういう目に見えない微妙な心情を映して、複雑な地形をなすこの山麓に永遠に魂を鎮めるにふさわしい場所を探していった。生駒西麓の中でもこの地域は、すごいデリケートゾーンであることを感じさせるのである。

これらの山すそに見えない力関係を推し測って、古墳や神社が造成されている。

 ここまでくると、物部氏がとても気になる。河内一帯を治めたとなると、やはりその実態を探検したくなる。生駒西麓を少し離れることになろうが、次回は物部氏の本拠、八尾市中にまで展開してその足跡を探ってみようと思うのである。

投稿者:

phk48176

古市古墳群まで自転車で10分、近つ飛鳥博物館まで車で15分という羽曳野市某所に住む古代史ファンです。博物館主催の展示、講演会、講座が私の考古学知識の源、それを足で確かめる探検が最大の楽しみ。大和、摂津、河内の歴史の舞台をあちこち訪ねてフェイスブックにアップします。それら書き散らしていたものを今回「生駒西麓」としてブブログにします。いろいろな意見をいただければ嬉しいです。

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