八尾デルタ・・・物部氏の跡を訪ねて

はじめに<長瀬川・玉串川に挟まれて>

 生駒西麓、その南部はほぼ制覇したが、もう少し陸の部分を見てみたい。弥生期には大和川の堆積土砂により河内湖がかなり後退し、広大な河内平野が現れていた。その中でも八尾・弓削(ゆげ)と呼ばれる一帯は、大和川が大きく二つに分かれ北向きに流れていた。この辺りから生駒山麓にかけ、前回に探検したように3~4世紀、古墳時代前期には三野県主のような有力豪族が支配していた。それを引き継ぐような形で、5世紀から6世紀、古墳時代後期にこの地域を支配していたのが物部氏だった。肥沃な河内平野はもちろん生駒西麓をも取り込む広大な支配領域をもち、豊かな財政力を基盤に中枢部でヤマト政権を支えた。だから、現在の八尾市域の大半のところ、どこへ行っても物部氏の事跡に行き当たる。八尾、弓削はその中枢地域で、渡来人たちと融合しながら大きく河内を発展させたのだが、それを成り立たせる地形の意味も探ろうというのが、今回の狙いなのである。

 大和川は長瀬川と玉串川の二つに分かれ河内平野を潤してきたが、 宝永2(1705)年 の付け替え以降も元川筋に沿って田畑の用水路として利用されていた。これらの二本の河川の間に広がる肥沃な平野は大和川によってつくられた三角州のようなデルタ地帯と見てもよさそうで、これを今回「八尾デルタ」と呼んで、この土地にある物部氏の足跡をたどろうという算段なのだ。(探検日2018.12.2) 

八尾デルタ地図
玉串川と長瀬川に挟まれた逆三角形の地帯=八尾デルタを一周りする

②西と東の弓削神社

 JR大和路線志紀駅下車。大阪外環状線を車で走る時はこのそばを何度も通っていたが、電車で行くのは初めてかな?そうではない?私の祖父の妹というのが弓削(ゆげ)に嫁いでいて、もう30年も前になるか、亡くなった時お悔やみに来たことがある。また、もう60年以上も前、嫌になるほど前やねー、小学校に上がるか上がらないかの頃、この弓削のおばちゃんの家に泊まりに来ていて、弓削神社の夏祭りに連れて行ってもらい、吹き矢を買ってもらったのが嬉しくて、今でも時々思い出したりする。娘のえっちゃんに手を引いてもらって、私より二つほど歳上でえくぼが可愛い、「パイナップルプリンセス」を歌っていた田代みどりに似ていて?ハキハキしたお姉さんだった。よく面倒を見てもらったな、今はどないしてるやろか?まあ、それは置いといて、弓削神社というのは、志紀駅を挟んで西と東に二つある。あの時連れてもらったのはどっちだったのかなぁ?

 先ずは、志紀駅に近い西の弓削神社。八尾市の保存樹に指定されている楠の大木に囲まれてひっそりと立つ。あるある、「物部の格式いまに除夜神楽(南山)」の句碑。弓削とは、弓削りを生業としていた物部氏の中の弓削部が居住していた地域で、弓削神社の祭神はやはり、物部氏の祖神、饒速日(にぎはやひ)命。 次は、JR大和路線の線路を越えて東側の弓削神社へ。ここも祭神は饒速日命で、物部氏の一族・弓削氏の本拠。江戸期より若江郡東弓削村の弓削神社と志紀郡弓削村の弓削神社が成立していて、どちらも式内社。祠はこちらの方が素朴で境内も土の地面で、地元の愛され感があるが・・・・・・。どちらも同時に立ったわけではなかろうから、どちらかが元の弓削神社なのだが?

③由義宮・由義寺と道鏡

 さらに東へ行くと、国道170号線・外環状線に出るが、平成29年(2017)2月に東弓削・由義(ゆげ)寺跡の現地説明会があったが、この地が奈良時代のもう一つの歴史の表舞台、平城京と並ぶ西京としての由義寺、その核心である由義寺七重塔があったことが証明されたのである。この地出身のいわゆる弓削道鏡(ゆげのどうきょう)は、若くして葛城山にこもり梵学、如意輪宿曜の秘法を習得し、看護禅師として名声を上げ、時の孝謙上皇の病気を治して一躍政界に打って出て、太政大臣禅師、ついで法王となる。その後も天皇に返り咲くことになった称徳天皇の篤い信任を得ていた。道鏡はこの天皇の元、地域寺でしかなかった弓削寺を格上げし、国家寺として「由義寺」を建立すること、さらに天皇の住まいであり政の拠点・宮殿として「由義宮」を造営することをめざした。称徳天皇は八尾への行幸は三度あったが、すべて道鏡が設定したもので、一度目の行幸(765年)で由義寺・宮の造営を願い出て、5年の歳月をかけ、由義寺を完成させ3度目の行幸(770年)の時天皇に見せたのであった。そのことは続日本紀などの文献に見られるのだが、その物的証拠がなく、幻の寺とも言われていた。それが、昭和40年代から始まる外環状線の建設工事などで断片的に見つかりだし、平成27~28年の八尾市の土地区画整理事業によって、1辺20mもある塔基壇跡が発見されたのである。その規模からみて七重の塔であることが確証され、平成30年、国史跡指定がされたのである。八尾市が全国に誇る文化財ができた、めでたいことである。道鏡の必死な思い、大活躍が目に見えるようだ。この寺・塔の建設には河内一帯から工事人夫が調達されたのだが、これを可能にしたのは弓削氏を中心とする物部氏のネットワークだったとみているのであるが……。

由義寺域地図
由義寺域は一辺250m程度由義宮は150m程度はあっただろうか

 あの、宇佐八幡により「道鏡を天皇にすべし」という神託ありとしたが、和気清麻呂によりそのうそが見破られ、皇位につけなかった事件。坊主が天皇になろうとした、向こう見ずな出世欲として、道鏡のことは良く言われない。地元では道鏡様様であったが、称徳天皇が亡くなると権勢を失った。そんな人物が物部氏の一族から輩出している。弓削の道鏡、八尾の今東光など、河内出身者は一般には悪名の声高い、実際に「悪名」なる映画もあるくらいだが、しかし、地元にとってはかけがえのない英雄なのだ。

④天然温泉・八尾グランドホテル?

 由義寺跡から西に、弓削神社の方に戻り、長瀬川に沿って北へ向かう。途中、弓削のおばちゃんの家らしき所、うる覚えだが、道から逸れた路地を入って板塀で囲まれた門のある家、そんなイメージの路地がいくつもあったのだが、目当てのその苗字の表札はなかった。ちょうど町会の役員さんなんだろう、各家にチラシを配っておられたので、その苗字を言って聞いてみたが、東にはないなあ、西にありそうや、ということだった。すっかり当てが外れましたがな・・・・・・。
 気持ちを取り直して、長瀬川沿いと言ってもコンクリート護岸の用水路なんだが、それに沿って新興住宅地の中をぶらぶら進む。まっすぐな道の行き止まりに細く曲がった旧道、ごみ収集のパッカー車が軒スレスレで通って行く。そんな旧村内にはお寺がいくつもあり、その一つ、善立寺には立派な鐘楼の塔があるが、この前の地震で山門改修中だった。道路脇には石階段の付いた石灯籠もあり、この辺りは京、大坂からの信貴山詣での街道でもあった、ということだった。


 旧村を外れると、準工業地域になるのか、住宅地の間に工場が並存する。その低い建物の間に天然温泉・八尾グランドホテルなるものがそびえ立っている。その中に八尾グランド劇場も組み込まれており、大衆演劇の一座が公演を打っている。温泉に入って宴会しながら芝居を観る、有馬や箕面まで行かんでも、近場で1日遊べる、というようなもんだろう。あまりに突然のグランドホテルであった。
 整然と区画された街並みの一角に由義神社とその境内に由義宮跡石碑がある。祭神は素戔嗚命で、由義宮が設けられた時勧進されたといわれ、物部氏の祖神である饒速日を祭った弓削神社よりは新しく、八尾木地区の氏神である。境内はイチョウやケヤキの紅葉が美しく、鳥の声がうるさいくらい鳴き渡っていた。

由義神社境内の紅葉の間から鳥の声が鳴き止まない。

東郷・中田遺跡群

 どこまで行っても平たんな土地が続く「八尾デルタ」は、肥沃な田畑が広がり、2000年以上も前から人が住み付いていた。先日の近つ飛鳥博物館主催の現地見学会で東山本地域の「池島・福万寺遺跡」「大竹西遺跡」などの遺跡を訪れたが、古墳時代前期、三野県主一族が東大阪市水走、花園あたりから八尾市福万寺、上之島、山本あたりまでの広大な地域を支配していた。その後には物部氏が引き継ぐ形で支配することとなったと推測したが、その南部とつながり、八尾デルタの中央部に位置するのが、東郷・中田遺跡群である。古墳時代後期、古市古墳群の造成時期にも当たるが、ヤマト政権の権力中枢を担う物部氏がこの地域も含めて支配することとなっていく。

大古墳築造が終了する時期、高安千塚古墳群の造墓が始まる6世紀初めころから多くの集落が営まれ、6世紀後半にはその分布がさらに広がっていく。この遺跡群の中の矢作(やはぎ)遺跡では、3間×4間の総柱建物3棟があり、その周りには3条の溝が確認されており、通常の集落ではない、居館のような建物だと推測される。そしてそれらが廃絶されるのが6世紀の終末で、587年に物部守屋が蘇我馬子や厩戸皇子らと闘い敗死した「丁未の変」の時期と重なることから、この地域を支配していたのは物部氏であると推測されるのである。また同じように、渡来人の墓とみられる高安千塚古墳群でも、6世紀末に造墓が終了していることから、物部氏が先進技術を伝え河内平野のあちこちの集落に大和民と融合して住まわせた渡来人の活動もここで途絶えていることを物語っている。八尾デルタ及び河内平野一帯が6世紀を通じて集落が大きく成長し拡大し、集落同士がつながり一体化していったことは、強大な支配者の元に安定的に繁栄していたためと考えられ、それは物部氏の河内支配と重なるということなのである。

 生駒山西麓の群集墓と集落遺跡地図
山裾は渡来人の群集墳墓平野には弥生期からの集落跡がいたるところにある河内平野をのぞむ大型群集墳 高安千塚古墳群新泉社 <em>生駒山西麓の群集墓と集落遺跡<em> 地図より

弥生期から鎌倉時代までの集落遺跡が広がる、河内有数の複合遺跡である中田遺跡、その石碑が住宅に囲まれた児童公園の片隅に置かれていた。ここに、総柱住宅、掘立小屋や竪穴住居の集落、田畑や林が広がる豊かな大平野を想像するのは難しいが、今も平坦な土地が広がっていることには変わりはない。子供たちがワイワイ遊ぶ姿を横目に、古代遺跡など何も匂わさない新興の住宅の中の道を東へ東へと歩いて行くのであった。

⑥玉串川沿いを歩く

 東へずんずん進み、東北の方向に流れる玉串川を越え、近鉄高安の操車場に突き当たる。そこを少し南へ戻り、住宅街を歩いていると、いつしか柏村稲荷神社の境内に入っていた。天気も良いのであっけらかんとした風景。何か沖縄か南洋の宮殿みたいにピンクやグリーンと白の明るい、よく見れば鉄骨柱の祠、その参道が西向きにまっすぐ伸びる。裏に回れば楠の大木が無残に途中から切られ、紅葉の時期だというのに落ち葉の一枚もない。そりゃ管理するのには便利だろうが、あまりに無残な姿、ちょっと合理的過ぎやせんかな、とあきれはてかけていたころ、住人の方に声を掛けられた。「この前の台風で木が全部途中から折れてしまいましてね、大変でしたわ」。聞いてみるもんですな、この前まで樹々は鬱蒼と茂っていたのだ。知らないとこの神社に偏見を持ってしまうところだった。しかし、一時でも酷い見方をしてしまって、すみませんでした。旅の途中で刹那に見るものには、その時々の気分で勝手な推量をするものだ。気をつけなければ‥‥。

 さらに、玉串川に沿って南下、外環状線の柏村交差点を渡り、「都塚」という地名のところを行く。周辺はどんどん開発され、田畑が所々残るのみとなっているが、まだ田畑が一面にある頃は、塚が十個もあったので「とうつか」、さらに道鏡のつくった由義宮の都の近くにあることから都塚(とつか・みやこづか)と当て字されたという。塚とは小型の古墳と見ていたが、実はそうではないことが後ほど判明するのだが……。

 そんな田畑を見渡せるようなちょっと小高いところに都留美島(つるみしま)神社が、今にも壊れそうにあった。開発の土地整地が間近まで来ていて、下からの参道が削り取られ、祠への階段が途切れて立ち入り禁止になっている。これこそ無残な姿にされた神社だが、周辺整備とともに綺麗にされるのだろうか?近くの、すでに入居されている住人に聞くと、住宅や大型スーパー、公園や遊歩道も整備されるとか。「まあ、賑やかになってよろしいがな」と、人ごとのように話し、「ちょっと急ぎますんで」と言い残して、自転車に乗って立ち去っていった。まあ、なんか、古代から累々と人びとの足跡を残してきた日本有数の歴史的地形なのだが、そんな感慨も虚しく開発の手が止まらない。

⑦二股

 さて、開発地の東の少し高いところを玉串川が流れていて、川沿いにうまいデザインの柵が施され、自動車道が続いている。それが途切れたところから歩道になっていて、川淵に樹木が植えられ、程よい散歩道になっている。川の水もきれいだし、樹木も紅葉していて気持ちが良い。とすると、西側にも川淵が迫ってきており、そうかあそこで合わさる、逆に流れが二つに分かれるということになる。もう少し行けば、あの有名な「二股」が見られると思えば、なんかドキドキしてきた。やはり、見事に「二股」に分かれていたのである。大和川から引かれた水が、柏原にいくつかあった水門を潜り、ここまで来て二つに別れて、西へは長瀬川、東へは玉串川となって流れていく。

 今度は長瀬川に沿って北へ、JR志紀駅に向かうのであった。柏村の玉串川沿いにもあったが、ここにもまたスーパー銭湯があった。八尾グランドホテルと言い、八尾のローカルブームなんだろうか、お風呂と宴会場、八尾はリラックス施設のメッカなのか?これは河内の歴史となにか繋がりがあるのだろうか?

 この八尾デルタを歩いてみて、確かにどこまで行っても平坦で起伏がないのであるが、この玉串川沿いにはわずかだが起伏を感じていた。都留美島神社辺りは一段高いところにあったし、そこから二股にかけての堤防沿いは外環状線が走る弓削辺りを見下ろすような形で歩いていたように思う。その歩行感を振り返りながらカシミール地図をよく見ると、なんと、驚きの発見をしてしまったのである。デルタ部分の内側のところの標高が10~12mに対して玉串川に沿って一段高いところは14~15mの標高を持つ。その高まった土地が200~300mの幅を持ってぐねーっと曲がって川筋の様子を見せている。ここが他の地域とは趣を異にしていて、玉串川の堤防とみられる土地で川に沿って何キロも続いている。同じことが西側の長瀬川沿いにも言えて、二股から分かれて東西に堤防が築かれていた。江戸期、長瀬川の幅が200mあったと言われるが、大和川付け替え以降、川幅が狭くなるにつれ堤防部分の幅が広がっていき、その上に集落が築かれていった。その跡が今も残り、区画整理された周りの部分と比べ不定形の町割りになって元の川の形で続いているのである。まだ誰も知らない?大発見なのか!

八尾デルタカシミール地図
カシミールスーパー地形図堤跡が14~15m平野部が10~12mと<em>川筋<em>がはっきり地形に現れている <br>
八尾デルタ国土院地図
グーグルマップ川筋の土手堤跡の町割が不定形なまま今も残っている

⑧道鏡が築いた堤

 さて、その堤防の元であるが、8世紀、まさに道鏡が活躍したころに築かれ、今に続いているという。道鏡が西の宮として築いた由義宮、由義寺を大和川の洪水から守ろうと、これらの寺院建築と同時に両河川の堤防をより強固にしたというのである。都塚の「塚」というのは古墳ではなく、洪水時の堤防補強のため、要所要所に土砂の備蓄をしていた土盛のことだという。また、八尾高校の狐山は長瀬川の堤防ではなく、この土盛りのことである。しかし、772年(宝亀3)8月18日に大台風に見舞われ、淀川も大和川も方々で決壊し、河内平野は一望の湖になったと伝えられる。その4月に没した道鏡は想像もしなかったであろうが、この大水害の時、由義京のことごとくが押し流されてしまったという。そのためか、これまで由義宮・由義寺の遺物は見つからず、流されずにいた基壇跡や瓦などが、最近になってようやく見つかったわけである。この堤防建設についても、弓削一族をはじめ元物部氏一族、またそのネットワークが大いに活躍したことだろう。

 ついでのことだが、帰りに西の弓削の町をあちこち歩いてみたが、目当ての家は見つからなかった。もしかと思い、西の弓削神社に戻り、玉垣を順に見ていくと、目当ての苗字の名がいくつかあった。やっぱり、こっちの弓削神社の祭りに連れてきてもらったのだなぁ。ちょっとスッキリしたな。

⑨付録―物部守屋のこと・・・渋川、久宝寺など

 物部氏を語るには、八尾デルタを離れて、その本拠地である渋川の辺りについても述べねばならないだろう。587年、仏教普及に抗する物部氏を滅ぼさんと守屋が居住する渋川の邸宅を蘇我馬子が襲撃し、これにより物部氏は滅亡したといわれる。聖徳太子が信貴山の毘沙門天に祈願し、四天王の加護により守屋を滅亡させんとし、戦勝得たことを記念して、「守屋墳」の西隣に大聖勝軍寺を建立したとする。守屋は仏教に反対ではなく、蘇我馬子は権力を持ちすぎた守屋を退けたかったという権力闘争の一環であって、そこに聖徳太子が利用されたというのが史実だと……。これを見る限り、聖徳太子も時代の人であり、権力の一端を担っていた政治家の一人であることが納得される。歴史は後世の都合で書き換えられることは、これまた事実であるが、物部氏の功績についてはひどく歪曲されている、そのことに腹立たしささえ覚える。河内の発展に尽くした物部、河内王朝・ヤマト政権の縁の下の力持ち的な物部氏の功績をもっと掘り起こすべきだとかねがね思っている。この聖徳太子にゆかりのある大聖勝軍寺は、叡福寺の上ノ太子に対して下の太子と言われ、また、竹之内街道沿いの野中寺は中の太子といわれる、とまあ、河内は聖徳太子中心の歴史になっていることも確かではある。

 北から来れば、JR大和路線をくぐって国道25号線にぶち当たる太子堂の交差点近くに、「物部守屋墳」なるものが神社仕立てで建っている。墓碑には「物部守屋大連墳」とあり、墓域を囲む玉垣に刻まれた名を見てみると、神社本庁、石上神社、石清水八幡宮、伏見稲荷神社、太宰府天満宮などなど、全国的にも有名な神社名が並ぶ。仏教に抗した守屋の神道擁護に対して全国の神社が墓造営に協力したということだが、ヤマト政権の祭りごとを仕切ってきた物部氏ならでの貫禄が伺えるのである。

 JRの線路を挟んで北側の天神社と南側の宝積寺を合わせて、物部氏の氏寺とされる渋川廃寺があった。JR八尾駅の南側に饒速日を祭る渋川神社、八尾の旧市街地には、近鉄八尾駅南西に物部氏の一族で栗栖(くるす)氏の住地であり祖神を祭る八尾神社、立石街道沿いに同一族で矢作連の邸宅だった矢作神社など、物部氏の跡地は多く、物部氏への信望もまだまだ篤い。さらに、もう一駅北の久宝寺には、弥生期からの久宝寺遺跡があり、6世紀初めころより急速に多くの集落が営まれることになるが、2間×7間の大型掘立建物を含む10棟以上の建物群跡が発掘され、これらが「日本書紀」にあらわれる物部氏の居館の一部ではないかと推測されている。また、久宝寺遺跡には長瀬川の舟運を元に難波、国内、大陸などと広く流通する港があったことがわかっており、この地域の支配についても物部氏が大いにかかわっていたのである。

 587年に物部守屋が蘇我馬子との戦い「丁未の変」で没した後は、蘇我氏により物部守屋直轄の一族は滅亡したと言われるが、周辺各地、全国に散らばった傍流も含め物部氏一族はその後も活躍していくのは歴史の通りである。八尾市立歴史民俗資料館では、物部氏についての全貌はつかめていないが、近年中に物部氏の展示会を行いたいという意向であった。大いに期待したいと思う。

投稿者:

phk48176

古市古墳群まで自転車で10分、近つ飛鳥博物館まで車で15分という羽曳野市某所に住む古代史ファンです。博物館主催の展示、講演会、講座が私の考古学知識の源、それを足で確かめる探検が最大の楽しみ。大和、摂津、河内の歴史の舞台をあちこち訪ねてフェイスブックにアップします。それら書き散らしていたものを今回「生駒西麓」としてブブログにします。いろいろな意見をいただければ嬉しいです。

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(2)件のコメント

  1. 金谷

    八尾にある大阪経済法科大学で教壇に立っていますので、改めて八尾のことが分かり、興味をお持ちました。
    地政学的にデルタ地帯とのご説明は理解しやすかったです。物部氏との関係もありがとうございます。

    1. phk48176

      コメントありがとうございます。八尾あたりの生駒西麓が日本で一番古い集落だと思いますが、古墳時代の三野県主から物部氏の働きはもっと知られて良いと思っているんですがね。カシミール地図、面白いですよ、年間2~3000円のはずですが・・・。

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