恩智

①はじめに

 2018年9月4日、台風21号が大阪を直撃、甚大な被害をもたらしたが、その翌々日、何かに引かれるように八尾方面の探検に出かけた。「生駒西麓」のメイン地域と言ってもよいだろう、恩智方面に展開したわけである。前回のブログ「河内六大寺」の最後、平野廃寺や瑠璃光寺、若倭姫神社の辺りは柏原市の最北部で、今回はその北側、八尾市に入り、昔恩智村と呼ばれた生駒山地南部・高安山の西麓の地域である。柏原市から八尾市にかけて高安山の裾野があり、いくつも扇状地を持つが、その中でも旧恩智村一帯に広がる扇状地が一番大きく、縄文から弥生にかけてすでに人が住み着いていたところである。太古から人が暮らしてきた地域の豊かさとは何か、探っていきたいと思うのである。(探検:2018.9.6)

恩智一帯の地図
1921年国土地理院発行の地図より

②神宮寺

 近鉄大阪線法善寺駅下車、国道旧170号に出てひたすら北に向けて歩く。しばらく行くと、西側は恩智川辺りまで伸びているか、おそらく300m四方もあろうかという大きな工事現場に出くわす。柏原市の施設で、洪水の時に水を貯めるための広大な土地、普段は野球場やサッカー場などのスポーツ公園になるという。工事概要を書いた公示板には工事費2億8000余万円とあるが、「エライ安いですな」と現場監督のような人に聞くと、「まあ、土地ならすだけですから、そんなもんです」と。この辺りは古代には海やったとか、物部氏の拠点やったとか話し込んで、今からそんな古代史探検に行くと言うと「ご苦労様です」。「好きでやってることで、ご苦労様と言われると辛いな」とか、愚にもつかんこと言うて別れる。

神宮寺

 すぐに八尾市に入るが、そこは神宮寺という地名、170号から東に入ったところに神宮寺という巨大な寺院があったというが、その南端に八王子神社が今もある。常世岐姫(とこよきひめ)神社ともいい、8世紀代に起源をもつ古い神座があるが、今は安産の神として信仰が厚い。我が娘も二人目を授かったと言っていたので、丁重に拝む。しかし、先日の台風の傷痕も痛々しく、大楠の枝がそこら中に散らばっている。そこから北へ少し入ると、神宮寺小太郎塚。後で行く予定の恩智の恩智左近と共に楠木正成に属して南朝方としてよく戦ったという。この河内一帯は全て南朝方、楠木正成に従って負け戦さをした者ばかりで、北朝方、足利尊氏や鎌倉幕府の関東者には怨みがある。それはそうとして、この地域、恩智、法善寺辺りも含めた共同墓地、神宮寺墓地がもう少し山に入ったところにある。一山全体が墓地で、古いもので鎌倉時代の大五輪塔や七重石塔などがある。北朝方への怨みもこもっている墓石もあろうが、ここから一望できる河内平野を眼下に慰められることも多かろう。奈良時代、行基がこの地に作らせたという河内七墓、長瀬、岩田、額田、垣内、上松とこの恩智神宮寺だが、お盆に七墓参りすると迷惑かけずに極楽往生できるというが、真夏に行くこの道中はかなりしんどいものになるだろうに……。

神宮寺、恩智、法善寺などの共同墓地。河内平野を一望する山裾に広がる。

③恩智神社

 さらに山裾の道を北にとり、山腹にある恩智神社へと向かう。途中、町会の役員さんたちであろうか、数人台風被害を点検している。私も町会長をしていて、一昨日町内を点検して回ったが、我が町の平地と違い山勝ちのところでは、倒木や枝落ち、崖崩れなどの被害が多く、苦労がしのばれる。竹やぶの中を通る道では落ち葉が山のようになっているところもあり、歩行困難。途中、畑のあぜ道に迷い込んだり、長い階段を登ったり、くたくたになるが、なんとか恩智神社にたどり着く。境内周りではチェーンソーや風を吹き付ける落ち葉掃除機などのエンジン音が鳴りっぱなしである。 神功皇后の朝鮮出兵のとき、住吉の神とともに恩智の神が皇后の船を守護したという、古い神様。河内一之宮が平岡神社、ここは河内二之宮で、格式の高いお宮でもある。元は麓の天王の森にあったが、恩智城造営の時、城より低いところに神さんがいるのはよくない、とここまで持ってきたが、こんなに高いところまで来なくても……。ま、風も涼しいベンチに座り、自販機で買った不二家ピーチを飲むが、実においしい。疲れた時は甘いジュースが一番良い。

 山道を下り、恩智の町の入り口まで来たが、そこから神社への長い長い階段が築かれているのを振り返る。これが700年前恩地左近一族により建設された石段だというが、昭和52年に再建された。40年そこそこで、石段がまだまだ踏み込まれていなく、周りとしっくり馴染んでいない。最近は境内下まで車道も整備され石段を登る人が少ないから、ますます馴染まない、そのうち雨水が周りの土を洗い、また石段が崩れる恐れもある。神社にお参りするありがたみは、よく踏み込まれた石段を一歩ずつ登っていくことにあるとも言えるが、良い石段になるには、長い時間をかけて鍛えられなければならないのだろう。

④恩智城

恩智を探検した経路
神宮寺から恩智へと迷いながら進む足取りがわかるカシミール地図

 神社の参道が坂道となって町中を貫く。沿道は昔ながらの屋敷が並ぶが、まず目に入るのが大東家。高安郡の村々をまとめる大庄屋で、何か役所のような構えであるが、ここの石垣は見事である。さらに坂を下ると恩智神社の大鳥居があり、その向こうに場違いなように車が盛んに通っている。後で気づくことになるが、対向するのも難儀な町中を走る狭い道が、なんと国道170号、元東高野街道なんだと。その根木に大屋敷、大きな蔵が二つもある入母屋の大屋根、見事な建築である。その他にもこの参道沿いには大きなお屋敷が並んでいて、見飽きない。

 なだらかな斜面地に立地する恩智の町だが、ほぼその中央部に当たる小高い丘に築かれたのが恩智城だった。今は石垣が残るだけだが、ここからの見晴らしは抜群で、河内全体が一望できる。河内一の豪族と言われ、楠木正成に属して南朝方として戦い、楠木八臣の一人とされるのが恩智左近満一だが、その人が築いた城で、湊川の戦で正成が没した後、正平3年(1348)四条畷の戦いで楠木正行戦死後、この城も北朝方に陥落された。そこから北へ少し下るとこの地を治めた恩地左近一族の墓があり、今でも恩智の人々の崇拝を集めている。その脇になにやら墓石が10数個二列に整然と並んでいるのを発見。明治初頭、西南の役で戦死された人々の墓で、どれもが明治11年6月建立とある。さらによく見ると、その出身地が讃良郡灰塚村(現・大東市)、渋川郡北蛇草村(現・東大阪市)・久宝寺村・正覚寺村、高安郡満願寺村、若江郡萱振村(以上現・八尾市)、丹比郡枯木村(現・大阪市東住吉区)など河内国各地に散らばっている。想像をたくましくするなら、河内国を治めた恩智氏に恩義ある一族からの出征者の御霊がここにそろって祭られた、とみられないだろうか。恩智氏はそれほど河内一帯に勢力を持っていた、云わば、恩智は河内の中心地であった、ということを物語っているように思えるのだが……。

恩智城址から恩智~八尾市街を望む。

⑤天王の森

 また、恩智神社参道に戻り、下ると、何やら公園らしきものが……。西端に神社の祠がありそうだが、そこに大木が倒れかかろうとしている。表示を見ると、牛頭天王を祀っていたところから天王の森と言われ、ここが恩智神社旧社地だった。先ほども触れたが、今の神社は恩智城築城の時、城より下に社があってはまずいと、山の中腹に移転されたものだった。先日の台風でムクノキの巨木が途中で折れ社の裏に倒れて、無残な姿を見せている。ちょっと痛々しい。北寄りの参道脇には、この辺り一帯が石器時代遺跡という標識があって、突然、ふっと時代は太古まで遡ってしまう。地図を見れば理解できるのだが、生駒山地西側山麓ではこの辺り、高安山から信貴山の山麓から河内湖までの間で、旧恩智村の奥にある谷から下る扇状地が一番広い。ということは、どこよりも広い肥沃な土地があるということで、河内湾・湖の魚介類が豊富に採れることと合わさって、ここには太古から暮らしやすい場所として多くの人が住み着いていた。そこへ、朝鮮半島から渡来人が押し寄せ、高度な技術、文化をもたらした。地勢的に有利で、自然の産物にも恵まれ、大和~難波の中継地で経済、文化が盛んであったことから、恩智は河内地域の中枢としての役割を担っていた。太古、古代、中世、江戸期を通して恩智が河内の中心地だった、そんなことが言えるのではなかろうか。

⑥墓地としての生駒西麓

  さあ、次へ。町中から山道へ入り、高安山の山腹と言えるところにある梅岩寺へ。宇治の黄檗宗万福寺の末寺で、聖徳太子が物部氏を撃ち仏教を取り入れる時、勝利を祈願して四天王像を彫ったが、その材のヌルテの木が植わっていたのがこの場所であったという。山奥のひっそりした山寺で、中国風の、というか禅宗風の山門が一際目を引く。境内は詫びたいい感じなのだが、 新たな墓地造成もしている。この寺もそうだが、それよりはるかに大きい規模で墓地開発しているのが大窪寺で、現地案内所もある。高安山麓西斜面一帯は各宗派競って墓地造成にしのぎを削っている、という感じだ。先の神宮寺墓地をはじめ河内七墓の古代の大昔より生駒西麓、高安山・信貴山麓は墓地としても好まれている。古代より河内平野はそれだけ人口の累積、つまり死者の累積が圧倒的にが多かったことだし、西に開けて風光明媚の景観の地だからこそ好まれてきたということで、古代生駒山西麓は河内の墓場でもあり、霊域でもあった、その意味はもっと深く考える必要があろう。

⑦垣内~教興寺

黒谷周辺の探検の軌跡
恩智から梅岩寺へ下りて垣内へ下りていくカシミール地図

垣内の畑に掩体壕が…。

 さて、また山道を下り、今度は恩智の北側の集落、垣内(かいち)の町中に入る。信濃の善光寺のきっかけとなったと伝えられる(元)善光寺。住宅地に囲まれてひっそりとたつが、楠木が尋常ではない。今までたくさんの楠木を見たが、これほどの巨大で、それも枝ぶりの繁盛なものは初めてで、圧倒される。当然府の天然記念物だが、台風で先の方の枝が折れているが被害はまだ小さい。家並みが途切れた畑中、何やら異様なドームが。掩体(えんたい)壕というが、戦中時敵機の爆撃を守るため軍用飛行機を格納する防空壕、高安山麓に20カ所程度あったらしいが、現在これのみ。今の八尾空港だが、大正陸軍飛行場からこちらに避難して来たというが、4.5kmの専用道を牛が飛行機を引いたという。戦争というものはとんでもない発想をするものだ。

お初徳兵衛の墓

 さて、お初徳兵衛の墓があるというので尋ねて見た。大通寺の小さな境内に「南無阿弥陀仏」と書いた墓石、自然石にわずかな加工を施しただけの墓石で慎ましい感じがする。あの近松の「曽根崎心中」の主人公がここ、南高安の教興寺村の出身とは?話はこうだ。この村の宗二の娘お初は曽根崎に勤め、同じく大坂の木綿問屋の養子徳兵衛と恋仲になり、二人は宗二の病気で村に帰ってきて身の振り方を教興寺の住職に相談するが、徳兵衛は寺男とし、お初は年季明けまで勤めることとし、後にめでたく夫婦になることができた。まもなく徳兵衛は病死し、その後を追うようにお初も亡くなる。その後、教興寺を訪れた近松がこの話を聞き、心中ものとして劇作した、ということが事実で、本物のお初徳兵衛は生きながらえそこそこ幸せに暮らした、ということなのだ。ま、いつの世も芝居というものは事実そのものではつまらんもので、脚色というものが付いて回る。幸せに暮らしたお初徳兵衛というのはあまり見たくはないけれども……。

⑧教興寺・黒谷

東高野街道=京街道

 西へ行くと東高野街道に出るが、そこから南へ少し行くと、一本松の垣内一里塚がある。東高野街道は京街道でもあり、京都と高野山また熊野の往還路で、平安・鎌倉時代、歴代の天皇をはじめ諸公家たちの賑々しい行列がいくどと幾度となく通ったであろう。南北朝、戦国時代には軍事道でもあったろう、歴史上重要な幹線道路であった。少し北へ行くと、信貴山への街道の起点がある。平安期信貴山朝護孫子寺が創建されたが、鎌倉期から聖徳太子信仰が高まり、太子所縁の寺院として京でも人気の参詣スポットになった。今でも東高野街道の信貴山への入口にはこれを目印にし、東へ進むのである。この坂道を少し登ると、この地域の地名でもある教興寺山門が正面に見えてくる。

寂れた教興寺

 さて、その教興寺なのだが、聖徳太子が物部守屋を討った時、秦川勝に建立させたと伝えられる。南方に寺池、大門池という池があり、臨池式伽藍の形式をもつ大寺院だったが、幾度かの盛衰もあったものの、江戸期に再興された。近松門左衛門も住んだこともあったが、今はえらく逼塞していて、西からの山門があるだけで、本堂などの伽藍がなく、明治18年に客殿を仮本堂としたまま現在に至る。境内だった南側は民家や工場に占拠されていて、というか、寺地を身売りしたのだろう。寂れた教興寺を通り、それに控え立派な門構えの屋敷が並ぶ街道筋を行くと、黒谷の旧庄屋坂本家の前を通る。その門前に屋根の付いた高札場があるが、当時の人々は見上げるように幕府や領主のお達しや触書を見たのだろうな。

石垣が美しい黒谷

 しかし、先に歩いた恩智も含め、坂道が多い黒谷集落の沿道に面して見事な石垣が築かれている。江戸期以降なのだろうが、自然石を隙間なくいかにも頑丈に、整然と、力学の構造美が遺憾なく発揮されている。坂道散策は一方石垣探訪でもある。最近は四角に成形したコンクリ石垣だから全く面白くない。また、古くても技術がないと粗雑な感じで見苦しい。この辺りのはどれも整然として美しい。石垣は上手い石工と豊富な石が必要で、お金が膨大にかかる。そういう意味でも、恩智から垣内、黒谷の地域は豊かで、お金持ちが多かった、ということが言えないか。
 ということで、台風一過の探検も坂道を上ったり下りたりでだいぶ疲れてきた。ケーブルカーで信貴山に登ることも当初の予定にあったが、上手いことにロープウェイは運休されていて、そのままおとなしく、河内山本駅経由で近鉄大阪線、柏原線を乗り継いで帰ることにしたのである。

投稿者:

phk48176

古市古墳群まで自転車で10分、近つ飛鳥博物館まで車で15分という羽曳野市某所に住む古代史ファンです。博物館主催の展示、講演会、講座が私の考古学知識の源、それを足で確かめる探検が最大の楽しみ。大和、摂津、河内の歴史の舞台をあちこち訪ねてフェイスブックにアップします。それら書き散らしていたものを今回「生駒西麓」としてブブログにします。いろいろな意見をいただければ嬉しいです。

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