暗峠越・国道308号線に沿って

①はじめに

 前回に平群町を探検したが、生駒山地を越えて大阪へ行く峠道は幾つもあるが、平群から大和、平城京辺りの東へ行く道が意外とない。竜田川の河岸段丘である平群町の東側は矢田丘陵、松尾山で囲まれているが、そこを越えて大和へ抜ける道が皆無なのだ。地図を見ても何も描かれていない空白地帯。矢田丘陵はさほど高くはなく、越えるのは容易なことだろうが、また地元の人が使う山道はあるのだろうが、誰でもが使える街道というものが皆無なのだ。物理的に行けても精神的につながりを求めなかった。これは修験道の山であり、厄除けの寺・松尾寺が人の通行を禁じているのだろうか、とても不思議な気がする。

暗峠越えの308号線地図
大阪から大和への最短の道は308号線沿いを行くことになる

 だから、平群から大和、平城京へ行くとなると、竜田川沿いに斑鳩まで下って法隆寺の南側を回って大和郡山経由で行くか、もう少し北へ行って生駒から山越えで行くことになる。今はトンネルや高架道を行く第2阪奈道がバイパスとして便利だが、国道308号線が大阪と奈良を結ぶ最短路線であり、かつては大阪枚岡奈良線として活躍していた。

国道308号線
東西に<em>ほぼ真直ぐ大阪奈良をつなぐ国道308号線<em>起点=大阪市中央区終点=奈良市三条大路

②暗峠越え

暗峠越えのカシミール地図
<em>枚岡神社~暗峠~南生駒榁ノ木峠 追分宝来山古墳を歩いた軌跡カシミール地図<em>

 暗峠には枚岡神社から入るとして、いつものように、近鉄道明寺から柏原、乗り換え大阪線堅下から布施駅経由で奈良線枚岡駅まで、河内平野を縦断するように遠回りして行くことにする。そんなことせずに、阿倍野から鶴橋に出て、近鉄奈良線で行く方がずっと速いのだが、この不便さを噛み締めながら電車に揺られることにする。以前の「高安」のところでも触れたが、この鉄道路線のない不便さが、高安や神立辺りの古墳や遺跡を開発から守ることになるのだと思えば、我慢もできるのであります。

枚岡神社から暗峠
枚岡神社~暗峠を歩いた軌跡カシミール地図

 さて、広々とした枚岡神社の参道に朝の斜め光線が入り気持ちが良い。少し上るが本殿まで行かず左へ折れ、住宅地の中に入っていく。しばらく道成に行くと、突然308号へと出る。これが国道?と言いたくなるほど対向車ギリギリの狭さ、それに想像以上の急坂。生駒山の急峻な西面に無理やり道を付けたが故の狭さ、険しさなのだが……。こんな調子で暗峠まで続くのかと思うと暗澹たる気持ちになる。

 車やバイクがビュンビュン追い越して行く。急な坂道なのにジョギングして登る人もいる。サイクリングの人は見ているこちらが気の毒になるくらいしんどそう。お年寄りも結構多く、杖を頼りにゆっくり登って行く。人それぞれ、思い思いに暗峠をめざす。

 約4km、写真や動画を撮りながら、立ち止まって休む時間の方が長いくらい時間をかけて上る。そんな余裕からか、「ファイト!」とか言って、ジョガーを励ましたりなんかしている。ほんとに、最初から最後まで急坂はやまなかった。

ジョギングはつらそう。思わず「ファイト」と声をかけたくなる。
ビュンビュン登山者を追い抜く車、やはり軽自動車が多い。
ヘアピンカーブを上る車。

 麓にはなかったのに峠近くの谷間に田畑が広がっている。水はどうしているのか気になるが、そこで作業する人と世間話をしたりしながら、そうこうするうちに峠(標高450m)に到着。江戸時代、参勤交代で殿様が乗った籠が滑らないようにするため敷かれたという石畳。何度も写真で見たことがあって、来たことがあるように思ったが、周りの風景は初めて見るものだ。峠の茶屋という風情もある食堂があって、そこで親子丼と缶ビールで昼食。次から次へと客が来る。峠までたどり着いたという安堵感が伴って、この食堂には和やかな雰囲気が広がっている。伊勢詣での客もこんな感じでにぎやかに峠を越したのだろうな。

③生駒東麓を下る

 さて、一般の方は一服したら大阪に戻るか奈良側に下り生駒南駅辺りから帰るのだろうが、古代史探検者としてはそんな物見遊山的なことは言っていられない。これから東へ下り、さらに一山もふた山も越えて、西大寺辺りか、平城京を展望できるところまで行かなければならない。自分で勝手にそう決めているのだが、果たして行けるものだろうか?

暗峠から生駒への地図
<em>暗峠から南生駒まで生駒東麓308号を下るカシミール地図<em>

 暗峠を越えた東へ下る道脇にも小洒落た峠カフェなるものが出現している。ここまで来てパスタなど食べてもなあ……。そんなことはともかく、断然視界が広がる。生駒山は西に急峻、東になだらかで、谷間に扇状地が広がり、田畑が段々状に下まで続いている。しかし耕やす人が少なくなったのか、耕作地の借り手、または草刈りや繁忙期のボランティアを募集している。畑のあちこちでご飯食べるグループ、芋を掘る一団、家族ではない仲間たちだろう、多くの人たちが田畑に出ている。眺めていると、「畑借りませんか」と声をかけてくる人がいる。南生駒町会のボランティアさんだろうか、あいさつ運動を進めるのぼり旗もあちこちで見かける。新住民と地元民との間にはいろいろ問題があって、ここの町会さんも頑張ってはりますな。当時、当方も町会長をしていて、そのあたりの悩みはよくわかるのであるが、ここでは皆楽しんでいる様子がある。

 生駒市は大阪都市圏の10%都市圏に属していて、人口の10%以上が大阪に通勤・通学していて、奈良県内で最も高いらしい。特に新興住宅地の住民は昼間大阪市民ともいえるだろう。そういう人たちが退職し暇を持て余してぶらぶらしている状況を当て込んで、生駒市のホームページには「市民力」というサイトがあり、生涯学習はもちろん、そういう老人力を大いに活用しようという窓口がいくつもある。その一つが、 耕作しない遊休農地と耕作を希望する人を仲介し、無償で農地を貸し出す事業だ。先ほどのお姉さんも、地元民でなくその方面の方なのだろう。以前テレビで、まだ若い女性課長さんが、人と人のマッチングに大活躍されている模様が放送されていたが、結構おもしろそうやね、生駒市は。

 右に左に緩やかにカーブしていく街道筋である国道308号線に沿って下りて行くと、昔からの集落が次々に現れる。西畑、藤尾、大門という山勝ちなところから下りてきて、だんだん建物が建て込んできたところが萩原町で、にぎやかになってきた。太い道路にぶち当たるとそこは近鉄生駒線が通る南生駒の町である。

④南生駒から矢田丘陵へ

榁ノ木峠越えの地図
南生駒から小瀬町を縫い308号線を行くが途中2度も道に迷う

 近鉄・南生駒駅に近づくと人や車の行き交いも多くなり、幹線道路と交差する。この辺り標高110mで、平群へ流れる竜田川の上流に当たる。川に沿って少し歩くうち一瞬道を見失うが、近鉄線をまたぐ踏み切りに「308」の標識が見えひと安心。先ほどの太い道路で一旦遮られるが、308号の街道は小瀬町の旧村に入り、今度は緩やかな上り坂になる。古い家並みが続くが、それが途切れた山の頂上部には新興住宅地が広がる。ここでは、旧村と新興住宅地が隣り合わせにあって、町会は仲良くやっているだろうかと、気になるところだが……。

 第2阪奈道路沿いに大規模な住宅地が造成され、旧街道っぽい308号が拡張され真新しい道路に姿を変えている。時折グーグルマップでチェックしながら歩くのだが、知らずのうちに見誤った。緩やかにカーブする下り道が元の旧街道らしく見えて、交差点で直角に左に曲がる308号に気づかず、ほぼ1kmも行き過ぎてしまった。308号は曲がりくねるというイメージがあるからだろうな。また坂を上らなあかん。このまま下れば南生駒の次の駅、萩の台にも近いし、もう諦めて生駒線で王寺に帰ってしまおうか?この辺りが思案のしどころだが、ちょっと一息おいて考えてみる。しばらくすると、「がんばれ、みのるちゃん」と、全国の古代史ファンの声援が聞こえたような気がして、もりもりと元気が出てきて、また来た道を引き返すのでありました。


 見誤った交差点を右に行くと、何か企業団地のようなものを造成しているのだろうか、工事中の看板が林立する。殺風景な工事現場みたいな道を上っていくと、真新しい大きな建物が見えてくる。道路際の広場で十人くらい和やかに話をしている。バス停のベンチに座っているようにも見えるが、さらに近づいてよく見ると、皆足湯に浸かっているんだね。ここは老人施設「やすらぎの杜延寿」と言うようである。反対を見ると大パノラマ、生駒山の東尾根が目にいっぱいになって飛び込んでくる。テレビ塔が林立しているのが頂上で、その左側、少し凹んでいるのが暗峠、そして山裾のいく筋かの道に集落がへばりついている。その一つを下って来たのだろう。生駒山の東側全貌を一目にするのは初めてだが、雄大な光景だ。長野県の安曇野から穂高連峰を眺めているような、行ったことがないけど、そんな高原にいるような気分になるのだった。

なだらかな生駒東麓の大パノラマ、まるで安曇野高原のよう?

⑤榁ノ木峠から追分へ

 もうひと山の上り、そんなに高くはないのだが、榁ノ木(むろのき)峠(標高270m)に向かう。この峠からは尾根伝いに南へ行けば矢田寺、厄払いの松尾山、北の尾根から谷筋に行くと東生駒の谷筋に下りて行くのだが、私は東へ、あくまで308号に沿って奈良、西の京、尼ヶ辻辺りまで行くことにする。東への下り坂、この街道に沿って石垣を積んだ立派な家々が並ぶ。道路はアスファルトに、家の建築様式も変わっただろうが、古代からのルートには大きな改変はなさそうである。平城京から生駒を経て難波へ、大和の都人が頻繁に行き来したにちがいない。

 途中でまた迷う。大分疲れてきているのだろうが、思うがままに歩いて行くと奈良県立矢田自然公園という公園の真っ只中に入ってしまった。これは308号ではないことに、今回は割と早く気付き、傷は浅いが、500mばかり無駄にしてしまう。また戻り、しばしアップダウンがあり、追分という集落にたどり着く。どこか見覚えがある景色。思い出すに、10年も前になろうか、梅の花見に熱中していた頃があり、確かここに来た覚えがある。追分梅林へ向かう四つ辻、その角に古い大和棟の家があった。それが村井家住宅で奈良県指定文化財だ。そしてもう少し行くと赤膚焼の陶器村がある。そら豆のような青い可愛い小皿を買ったのだったなぁ、と思い出に浸ることなく、次、ちょっと308号から逸れて富雄丸山古墳を見学に。  

富雄丸山古墳

 直径100m前後の円墳だが、円墳としては国内最大という。4世紀前半から半ばということだから、佐紀古墳群や西ノ京の宝来山古墳のようなヤマト政権の大王クラスの前方後円墳群が盛んに造られつつある時期で、政権が河内へ移る直前の造成とみられる。前方後円墳でなく円墳であることは、大王家ではないことを明確にしているが、最大の円墳であることで大王家に直属する地域首長を序列化したトップに位置する者が葬られているとみられる。大和(奈良盆地)の境界にある交通の要所に配置された各地の首長を統括する役割があったのか?また佐紀古墳群の南西にあることから、大和から河内や西国への出入り口にも位置し、そのころ力を付けてきた河内勢力の防御、またはそれとの橋渡しの役割に大活躍した豪族であったのか、と推測をたくましくするのだが……。

 丸山街区公園を取り込んで円墳の周りを巡ることができるが、うっそうとした森林の中を歩くようで、かなり大きい。この古墳は富雄川が流れ込む大和平野の入り口の高台にあり、眺めも良く、肥沃な土地を支配した豪族にふさわしい墳墓と言えるだろう。

⑥宝来山古墳・垂仁天皇陵

宝来山古墳への道地図
追分から<em>308号線は<em>第2阪奈道路に寸断され忠実にたどるのは難しくなる

 先を急ごう、空も赤く染まりかけて来た。まちがって無駄足はもう許されない。近くに第2阪奈道路の高架が通り、周りは開発が急速に進んでいる感じがする。忠実に308号をたどることはかなり難しく、この辺りからはグーグルマップに頼りきることにする。第2阪奈道路によってあちこちで308号も寸断されており、車がビュンビュン走る側道を行くことになる。一時大きく逸れたがなんとか旧道の308号にたどり着くことができた。ここも車の往来は激しいが、曲がりくねる旧道というのはなんとなしに落ち着く。

 五条畑という旧村を通り、村はずれの大きなため池に出合うが、そこを最後に308号とおさらばして、最後の目標地点、宝来山古墳の方角に向けて歩く。何年か前、神功皇后陵などの佐紀古墳群を探検した時の忘れ物で、まあ、唐招提寺を見に来た時にでも寄ってみるかと思っていたが、今日、数年間の念願だった宝来山古墳にまで来たわけだ。最近は小規模の群集墳の探検が多く、久しぶりに巨大な前方後円墳と出合った。北側から東〜南側を回ったが、整然としていて、大王の古墳にふさわしい風格、静寂さがある。西を見やれば生駒の山々、東には若草山から南の方、「倭は国のまほろば たたなづく青垣 山隠れる 倭し美わし」の山々が、もう消え入るほどの明かりしかない日の光に照らされ美しい。大和東側の山々を見渡せ、そして生駒の山々も間近に迫る、こんな美しい大景観に囲まれ、ひっそり佇むのが宝来山古墳だ。

宝来山古墳垂仁天皇陵
北東部後円部より全景を見たパノラマ
後円部、北東からパンで全景を見る。彼方に生駒山系。
すぐ東側を近鉄生駒線が走り、最寄り駅は尼ヶ辻である。
前方部、東南部からパンで全景を見る。

 ここに眠る大王は垂仁天皇とされているが、その根拠は、土師氏との関係からとみられる。垂仁天皇の皇后日葉酢媛命(ひばすひめみこ)が亡くなった時、土師氏の始祖である野見宿祢(のみのすくね)が殉死に代え埴輪を並べることを提案し、それを任されたことから始まり、古墳造成や埴輪制作など葬送の職掌は土師氏が専任とされた。佐紀古墳群の造成は土師氏と同族の菅原氏が行ったが、その拠点は宝来山古墳の北側、菅原町、尼ヶ辻町一帯である。垂仁天皇はこの菅原氏と関係が深く、日葉酢媛陵古墳が佐紀古墳群にあることなどから、宝来山古墳は垂仁天皇陵とされるのである。ヤマト政権の墳墓を天理・巻向のオオヤマト古墳群から大和北部の佐紀古墳群に場所を変えつつあったその矢先に、佐紀古墳群の西南2kmの少し離れたところに垂仁天皇陵をつくることに何らかの意味を見出すとするなら、4世紀前半頃から垂仁はすで大和以外の地に目を向けだしていた、と言えないだろうか。大陸との関係が重要になりつつあり、河内勢力が勃興しつつある頃、大和を越えて、西方を向こうとしていたのではないか。その手足になり動いたのが富雄丸山古墳に眠る強大豪族であったが、この大和から河内にまっすぐ伸びる東西線、308号線沿いの街道の重要性が高まりつつあった、そのように想像をたくましくするのであるが・・・・・・。

 ということで、枚岡神社から暗峠、南生駒の町から矢田丘陵を越え、西ノ京まで、9時間もかかった。古代の人の方が健脚であったろうから、3時間くらいで行き来したであろう、そんな日常の道であり、情報伝達の道であったと推量される。なんとか本日の予定終了。尼ヶ辻駅に着く頃にはもはや6時を超えて、夕闇に包まれていた。カシミールスーパー3D地形図で追跡すれば直線距離は12km程度であるが、迷い道にも入り21.6kmの移動距離であった。ああ、お疲れさん、よくやった!皆さんの熱い声援に支えられて、よくぞここまで。ありがとうございました。

投稿者:

phk48176

古市古墳群まで自転車で10分、近つ飛鳥博物館まで車で15分という羽曳野市某所に住む古代史ファンです。博物館主催の展示、講演会、講座が私の考古学知識の源、それを足で確かめる探検が最大の楽しみ。大和、摂津、河内の歴史の舞台をあちこち訪ねてフェイスブックにアップします。それら書き散らしていたものを今回「生駒西麓」としてブブログにします。いろいろな意見をいただければ嬉しいです。

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(2)件のコメント

  1. 金谷

    この暗越奈良街道の西側の江戸時代のスタートは玉造の二軒茶屋ですが、そこからスタートして少し進み河内の国(東大阪市)との境にあるのが東成区深江地域で、摂津名所図会にも深江菅笠を販売している街道沿いのお店が描かれています。その名残を継承するために深江郷土資料館(伊勢神宮式年遷宮に奉納した菅笠や大嘗祭に使用されている写真など展示、2010年開館)があり、2021年2月には500坪のお屋敷を別館として公開しています。これらもこの街道の繁栄ぶりが分かるものです。私自身も玉造から南生駒駅まで歩きましたが、日頃の運動不足を感じました。

    1. phk48176

      さっそくブログを見ていただきありがとうございます。深江の菅笠はかつて「大阪人」や「SOFT」で取材したころがありますが、もっと話題になっても良いと思います。ご活躍期待いたします。それはそうと、角谷一圭さんは今はどうなってますかね?

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