①はじめに
石切さんや野崎さん……、隣の奥さんを呼んでるみたいやけど、「石切神社」とか「野崎観音」などと正式に言うのが面倒くさい、地元民なら知っていることで「みなまで言うな」という意識になり、親しみを込めて神社やお寺に「さん」付けをして呼ぶ。特に生駒西麓には寺社がかなりありそうで、またそれぞれに独特のご利益があり、熱狂的な信者が付いている。信者さんは、一度お参りしたら体ごと持っていかれるような、それがうれしくてお参りに行くのを楽しんでいるような、大阪人の享楽と相まみえるような宗教心というものがあるのではないか、そんな気がしている。生駒西麓にある寺社の独特な宗教心を探求したい、ということで生駒山を南から西回りで、まずは柏原地域内を見てみることにした。少し調べるとありましたがな、「河内六大寺」、東高野街道(旧国道170号線)に沿って点在する古代寺、今は廃寺となったものばかりで、その跡も明確ではないが、文献等で推測されるもの、中には創建は四天王寺や法隆寺と同じ頃のものもある。天平期から奈良・平安時代、天皇を始め朝廷の方々が古代難波と大和を行き来するときの中継点であった。南から、鳥坂寺、家原寺、知識寺、山下寺、大里寺、三宅寺という六つの寺、河内六大寺があった。(探検日:2017.12.17)


②大和川に沿って
天湯川田神社・鳥坂寺
300年以上前の1704年、大和川が今のように堺の方へ付け替えられたのだが、それ以前は柏原あたりで石川と合流し大きく北へ蛇行していた。奈良からと南河内からもたらされた堆積土砂が大きな平野を形成することになり、この肥沃な平野のおかげで河内地域の繁栄が築かれてきたといってもよくらいだが、今回訪れる河内六大寺もその繁栄とともにあった。結論を言ってどうするの?という感じだが、そんなことはもう忘れたように、今大和川は西へとまっしぐらに堺方面に流れ込んでいる。
まず、近鉄柏原南口駅から大和川の北岸、堤防の上を上流へ、つまり東へ東へと歩いていく。石川と合流する辺りの堤防沿いに柏原市役所があり、そこを通り過ぎると、近鉄大阪線とJR大和路線が並行して走るのが見え、高井田駅まであと500mというところか、両線の軌道に挟まれて小高い山がある。高井田集落に氏子を持つ天湯川田神社とあるのだが、実はその頂上に、河内六大寺の一つ高井田廃寺・鳥坂寺(とっさかでら)の3重の塔があったという。塔心の基礎石と雨落溝が発見され、これらの石の距離などから見て高さ約20mの三重塔で、7世紀中~後半に建立されたのではないかと推測されるという。記紀に垂仁天皇の王子、譽津別命(ほむつわけのみこと)が壮年になってももの言わぬ子だったが、鵠(くぐい)が飛ぶのを見て思わず言葉を発した。出雲まで追いかけ鳥を捕まえ、その後皇子と暮らすうち話せるようになった。その鳥を捕まえたのが天湯川桁命で、その人を祭っているのがこの神社であると……。何度かこの話を読んだことがあったが、その有名な話の元がまさにここなんですな。その意味で、神社が元か寺が元か?垂仁天皇というのは、紀元前後に在位した11代天皇とされるが神話の世界であり、実在するとすれば紀元3世紀後半から4世紀前半にかけての大王とされるがその存在は不明である。鳥坂寺の塔心礎は昭和36-7年に発掘調査で発見され、7世紀の建立という事実がある。鳥を捕まえた天湯川桁命の話はこの辺りに伝えられた伝承だろうが、鳥坂寺が建立されたのちに「鳥」をキーワードにこの寺にかぶせてストーリーができた、そんな感じがする。鳥坂寺については、この小山の東・北一帯に金堂、講堂、僧房や食堂跡も見つかったことから、かなり広い寺域を持ち、天平勝宝8年(756)に孝謙天皇が河内六大寺を行幸された時、立ち寄ったという由緒ある寺院でもあった。生駒山地南端から突き出た丘陵部先端の小山は、平城京から大和川沿いに来て、河内へ入ろうとするときの大きな目印になったに違いない。








③安堂・家原寺へ
二宮神社
近鉄のガードをくぐり、生駒山地最南端の東側斜面、一戸建て住宅街の急坂を上っていくと視界が開けてくる。大和川を手前に、石川や古市古墳群など、南河内の一帯が一望のもとにある。新興の住宅街を越え、西側の斜面の方に降りていくと、風景はガラッと変わる。昔ながらの大きな屋敷が立ち並ぶ旧村、安堂に出る。杵築(きつき)神社に行きたいのだが、迷う。ここでスマホのグーグルマップの音声ナビに道案内をお願いしたのだが、これも道がわからないらしい。ナビができないくらい細い道や路地に入り込んでしまっていた。そこへ現れたのが地元の人、「ああ、二宮神社のことやね、そこを道なりに行ったら宮さんへ登る石段があり‥‥」と。「春日神社と二つ並んでいたんですが、今は両方ともなくなって、一つの二宮神社があります」と、これは社務所の奥さん。いただいた由緒書きを読むと、二宮神社は、杵築神社と春日神社を合わせた神社だったが、安堂村内で氏子を異にしており、両氏子は反目しあい物議が絶えなかったこともあり、双方の財産を合併し一社を建設し両社を合祀することにしたという。大正13年のこと。鳥居をくぐり境内に入ると、奥まったところに小山があり、階段を登ったところに現在の一つの「二宮神社」があった。祠は真新しかったが、その脇に「春日神社跡」と彫られた小さな石碑がぽつんと立っている。元は祠がここにあったのだろう。鳥居をくぐって帰ろうとしたが、その右手の土手面が緑の苔の生えた黄色い山土で、これが大和絵などによく描かれる山の土なのかな、と見入っていると、その一画に「杵築神社跡」の石碑が立っていた。 二つの神社はなくなっても、その後を示す石碑が立ち、人々の記憶には残そうとしている。二宮神社は山の頂上近くにあり、その隣の大日禅寺の塀に沿って行くと、安堂の町全体を見下ろすような形になる。








家原寺
二宮神社から下って行くと大きなお屋敷に囲まれて四角い形の、日本では「辻」と呼ぶのだろうが、ベネチアの街中にあるカンポと言ってよさそうな広場に差し掛かった。東西と南北の旧街道が交差する四つ辻、何か荷物の中継地のような、市が開かれていたようなそんな趣のある広場なのだが……。この辺り、「河内六大寺」の内、安堂廃寺の元「家原寺跡」があり、通り過ぎたがちょっと上の老人会館内にその言われを書いた標識があった。広場西側には立派な鐘突き堂があるお寺、正休寺がある。中へ入ろうとすると隣のおじさんが寄って来て、「ここに家原寺の塔の基壇石があります」と教えてくれる。 1m×1.5m、高さ60cmくらいか、表面にうっすらと円形の盛り上がりがあって柱の置かれた場所であることがわかる。ついでに、そのおじさんに「表の四角い広場はどう使われていたんでしょうかね」と問うと、「あそこは四角いため池やって、埋めたんや」とにべもない返事。街道筋の面白い話が聞けると思ったが、完全に期待を裏切られた。しかし、地元の人の話は聞いてみるもんですな、自分勝手に幻想を持ってしまうと良くない。先ほどの二宮神社でもそうだが、最近はその辺に人がおったらすぐ話しかけている。善良そうな?老人の私の風貌を見て相手も安心するんやろね、大概の人は気安く答えてくれる。年は取るもんだね……。





④知識寺
業平道から石神社
カンポ広場の一角から北へ伸びる道は、「業平道」と呼ばれており、その一部がタイル道で整備されている。柏原市の町おこし事業の一環なのだが、この道は安堂の町の南から通じており、在原業平は前回の通り、大和川沿いに来て竜田越えをして高安の女に会いにやってきた、と断定している。八尾の高安では、業平は竜田川沿いに来、平群から生駒の十三峠を越えて来た、としている。竜田川は生駒山東麓の水を集めて大和川に合流する川で、竜田道とは王寺から北へ行く道ということになる。「から紅に 水くくる」竜田川とは、いかなる川か、また竜田道とは?各自治体の綱引きがいろいろあるのだが、この件は後の回にまわそう。
さて、その歴史の散歩道・業平道を行くと山の斜面を縫う登り道になり、途中の展望台からは生駒西麓の山肌が北方に連なり、山麓に開けた柏原、安堂や太平寺の町が眺められる。さらにその先は八尾や大阪市内のビル群がかすんで見えておる。北側眼下に赤土の地面とそこに生える大楠が目に入る。緩い坂道のプロムナードを下り石(いわ)神社に入って行く。府天然記念物に指定されているが、自由奔放に枝を広げた大楠がすっくと立つが、朽ちたところがなく、今を盛りと元気に育っている。石段を上がると祠があるが、きれいに掃除されていて気持ちがいい。ここから北西に広がる寺域に六大寺の一つ、大平寺廃寺の元、知識寺があったとされる。




知識寺
それは東西に五重塔が立つ薬師寺様式の伽藍配置をもつ大寺院だったという。その東塔の心柱を支える礎石が石神社への石段登り口の脇に置いてある。柱穴の直径は120cmもあり、高さ48mもの五重塔を支えた、と推測されている。聖武天皇が知識寺の大仏を拝され、東大寺大仏を発願されたというが、孝謙天皇、藤原頼通なども何度も参詣し、奈良・平安時代、大和と難波を結ぶ中継点として重要視され、河内最大の大寺院だった。知識寺の寺域は120m四方あったとされるが、今の奈良・薬師寺のそれと変わらない大きさだ。今はすっかり住宅地だが、推定寺域の周囲を歩いてみるとかなり広かったことが感じられる。その北側の一角に柏原唯一の葡萄酒醸造所、堅下ワイナリーが構えている。ふと見上げると、東には生駒山麓が迫り、山の中腹にはどこからもよく目立つインド風の白い塔、妙法寺の仏塔が真上に見える。それほど生駒山に接近したところである。











石垣が美しい観音寺
南北に通る業平道を越え山辺に行くにつれ急坂になる。その坂に沿って、石垣が積まれ、その上に築かれた板塀と白の漆喰壁の農家住宅が並んでいる。この一画には、新建材の今風の住宅はなく、日本建築の粋のような調和のとれた街並みを作っているが、そこを石タイルが張られた歴史の散策路が通っている。道を登って行くと、知識寺の唯一の遺品でもある経机が受け継がれている観音寺がある。大平寺の集落や河内平野一帯を見渡せる坂上に構えられているが、その石垣が美しい曲線を描いていて、規模はちょっと小さいが、大阪城の千貫櫓を彷彿とさせる。石段の階段全体を覆うように桜の大木が枝を伸ばしている。春には一幅の絵のように桜の花で包み込まれるのだろう。「春にこの桜を見に来ること」とちゃんとスマホにメモしておこう。後日談だが、次の年の春、忘れずに桜を見に再訪したのである。それはそれは見事であった。ご近所の方が数人見物に来られていたが、まだまだ知られていない、私にとっては生涯の花の名所BEST3には必ず入るであろう。坂道を苦労して登って来た甲斐があろうというものだ。








⑤大里寺(大県廃寺)
坂を下り業平道に戻るが、どこもきれいに整備されているわけではなく、途中で切れ、田畑の間を行くことにもなる。山裾にはブドウ畑が広がると同時に、そこを開発したのだろう、マンションや老人介護施設などのビルも建つ。そんなところに「業平公園」というポケットパークがあり、その前に「ちはやふる 神世も聞かず 龍田川 から紅に 水くくるとは」の歌碑が載る堂々たる「業平道」の道標が立つ。業平はのどかな生駒西麓の山すそを歩きながら高安の女に会いに行ったのか、とこの竜田越えに賛同したくなる。




さて、六大寺探しなのだが、大県(おおがた)南廃寺の元・山下寺はもう少し山への坂を上っていったところのように思うが、今日は先を急ぐ。そして次は、東高野街道、つまり国道170号まで戻り、大県廃寺の元、大里寺跡を訪ねることに……。堅下小学校の南側とは言うものの、住宅地が広がるのみで、何ら形跡がない。体育館の脇に何やら標示板があるような、ほとんど字が消えていて、わずかに「大県 鉄」と読めるのみ。この辺りは大県遺跡で、縄文期から栄えており、5世紀以降鍛治生産の工房が多かった、ということを説明しているらしい。韓式系土器も大量に出ていて、韓鍛治集団の存在も考えられる、という。ここから東、山辺に近づくと、グーンと見上げるところに鐸比古鐸比売(ぬでひこぬでひめ)神社があって、「鐸」と言う字が使われ、高尾山の向こう側も含め、この地域一帯が金属加工に関係した生産を営んでいたとみられる。








⑥三宅寺(平野廃寺)
また、東高野街道に下りて来て、三宅寺跡に建った平野廃寺を探そうと、わずかな手がかりとして「平野」という地名を見つけようとしているのだが……。あったあった、ありましたがな、170号沿いに「平野交番」「平野集会所」。少し東へ坂を上ったところに「平野老人会館」。しかし平野廃寺、三宅寺跡には出くわさない。ま、いいかと下りかけたが、ちょっと待てよ、坂のずっと先に何か木立が見える。ダメ元で近くまで行くと、その西側一帯が三宅寺跡だと推定されるという若倭彦(わかやまとひこ)神社がある。そこから西側、坂下の方の旧村らしい町並みを眺めるのだあった。




若倭彦・若倭姫神社
何度坂を登ったり下りたりしたか、1時も過ぎているのに昼ごはんも食べていない、もう限界に近い疲労。しかし、諦めないで良かった、史跡巡りの旅には、こんなことがよくある。アスリートではないが、諦めずにもう一踏ん張りすると、思わぬ発見につながる。お孫さんを連れたおばあさんがとなりの家から出てこられて、「由緒ある神社なんでしょうね」と声をかけると、ここを北へ行く道沿いに「若倭姫(ひめ)神社」があって、ここと対の女神さんを祭っているという。こういう地元ならではの情報がありがたい。言われた通り行くと、また坂上に瑠璃光寺があり、その奥に件の祠があった。このお寺の入り口に仏像を彫った石棺仏があった。古墳時代の家形石棺の蓋石の裏に彫ったもので、深みがあって慈悲深いお顔をされている。






河内平野の豊かさ=河内六大寺
弥生から古墳時代のころ、河内平野一帯には広大な河内湖が広がっていた。古代の水辺は不安定でかなり上下したのだろうが、河内の古代寺は陸地から山麓の比較的高いところにあり、水没しない安全な場所に構えられていたことが分かる。そして、大和川は肥沃な堆積土砂を運び、河内平野は豊かな土地であった。紆余曲折はあったものの、「河内六大寺」を何とか見つけて来たわけだが、さほど広くはない柏原の地域にかなりの数の寺社が、まさに林立していた。この密集度は、奈良、京都にも負けないくらいだっただろう。渡来人の定着とともに発達した技術や仏教文化を見るに、生駒山西麓の先進性はもっと評価されてもいいと思う。ある意味、石切さんや野崎さんのように、古代からその本質を変えないまま現代に継続されているのが、生駒西麓のあり方ではなかろうかと、河内六大寺の跡がそう語っているように思うのでる。

