河内湖北東岸を巡る

JR学研都市線が放出(はなてん)・徳庵・鴻池新田・住道と来て大きく北に曲がり、野崎へ向かう。

①はじめに

 春の陽気になり、花粉症真っ只中、また新型コロナウィルス感染拡大中だが、「生駒西麓」探検に出かけることにする。冬の間はこもりがちでウズウズしていたのだが、少しでも春の気配がしたら探検に出かけたくなる。このシリーズも12回目を数え、柏原から北上して野崎辺りまで来ていて、生駒西麓とみられる地域の北端に行き着きつつあり、今回の「飯盛山~四條畷〜寝屋川」で一応の幕としよう。
 さて、東高野街道沿いに北進してきた時、野崎近くから生駒の山容が変わり、山塊がぐわっと近づいてきたのだが、それが飯盛山だった。スーパーカシミールで見ると、どこよりも山襞が細かく、まるで腸壁のようで、生駒山地から振りちぎられそうな山端のように見える。山頂に三好長慶が飯盛城を築いたというが、たかが314m、たいした事もなかろう。登り、降り含めて1時間と踏んだのだが、なかなか、急峻なアップダウンの連続で、もうくたくた。結局、四條畷神社に降りてくるまで2時間半かかってしまった。(探検日…2020.3.7/11)

②野崎詣りの段

 飯盛山の上りは野崎観音の裏から野崎城跡を通り、大東市野外活動センターをめざす。野崎観音は「新版歌祭文、野崎村の段」で有名だが、野崎村はお染と久松が心中を固く決意した場所であり、2人の決意を見て取り、久松の許嫁、お光が尼になり‥‥、という悲劇の始まりとなった場所である。黄色い菜種花が咲き、屋形船が行き交うのんびりした風景を思い浮かべるが、だからこそかも知れないが、男女の別れの悲しみのこもった場所でもあるのだ。ま、しかし、今も春の連休の頃、野崎観音・慈眼寺ではすべてのものに感謝してお経を捧げる「無縁経法要」があり、「野崎詣り」としてたいへんな人出であるが、「罪滅ぼし」といった感じで一年に一回は観音さんにお参りしようということなんだろう。3年ほど前(2017年5月4日)に出かけたが、噂通りのにぎやかさで、JR野崎駅から野崎観音境内への登り口階段の手前までびっしりと屋台が並ぶ。それは見事なものだった。江戸期に始まったというが、大坂市中からも遠くなく1日かけた遠足気分で、お染久松の悲しい物語りをささやきながらも、今の幸せを噛み締めて歩いて来たのだろうなぁ。

③飯盛山に登る

野崎飯盛山四条畷地図
野崎観音から登り野崎城址より飯盛山飯森城址をめざす

 さて、野崎観音慈眼寺本堂裏から山へ入り、急坂を登る。何カ所か、少し上るごとに平地になり、そこに休憩所などが設けられている。地元の人たちにとっては毎日の散歩コースで、休み休み上るということだろうか。中腹に石造りの九重塔があるが、永仁2年(1294)造立とあり、北河内最古の層塔らしい。渡来人の秦氏が主君と両親の追善供養のために立てたというが、古墳時代の古代から活躍した秦氏が河内では13世紀でもまだ力を持っていた、とは驚きである。さらに上ると、野崎城跡に行き着く。標高は111mだが、東高野街道に近く、大東、四條畷、枚方の方まで見渡せる交通と戦略上の要所だったのだろう。実際に南北朝の四條畷合戦(1348)の時、北朝方がここに陣を張ったとされる。先程登って来た途中に何カ所かあった平地は休憩所ではなく、野崎城を構成する櫓郭の場所だったのだな、と合点がいく。

野崎城址からの展望。野崎や四条畷の街が手に取るように分かる。

 次は、七曲りコースを経て飯盛山頂をめざすが、一旦谷底まで降りる。せっかく登ったのにもったいないと思うが、一本道なので仕方がない。何か本格的な山登りの雰囲気になって来ましたな。そんな心積りはないのに、と足取りは重い。登攀態勢に入るといきなり「七曲り坂」の看板。あまりの急崖なので、つづら折りにしか登れない、ということだ。長らく山歩きなどしていなかったこともあるが、足腰がずいぶん弱っている。木組みの階段を10段も登れば息が切れる。立ち止まって一息入れないと次へ進めない。マスクも取り、ジャンパーも脱ぎ、喘ぎ喘ぎながら、なんとか一山越したとひと安心するや、また下りになり、この間の苦労が水の泡。

 二山三山越えたところで、なんとかクヌギ林の平坦な山道になるが、これがまた延々と続く。尾根道を歩き出した頃、元は石垣だったように見える荒い石組に出合い、平たい場所も現れ、お城の二の丸か三の丸かの雰囲気が出てきた。最近テレビでも奈良大学の城郭研究家・千田嘉博氏が登場しだして、あちこちの山城を紹介している。映像とともにそう説明されたら天守の基壇であるとか、土盛が土塁であったり、凹んだところが抜け道などに見えてきて、各要素が揃ってくると城の全貌が現れてくる。今まで雑木林だと見ていたところに城郭のイメージが立ち上がってくるのが、ダイナミックでたいへんおもろい。南丸とか千畳敷、高櫓槨などと地形の変化を見ながら徐々に上って行くと、なんとはなく城の形が見えてくる。この飯盛城はかなりな規模だったようだ。

展望とからのパノラマ。大阪平野が一望できる。
本丸北側からの展望。大阪市内から北摂一帯が見える。

 標高314mの山頂一帯を高櫓槨とし、やや北側に本槨を置き、東西400m、南北650mの範囲に城郭を築いている。永禄3年(1560)に完成、三好長慶が入城した。270度に開けた視界で、北は京都、比叡山、比良山系から北摂、六甲の山々、大阪湾から淡路島、南は四国山地も見渡せ、この膨大な地域を支配に置こうとした。戦国時代の終末期、まだ信長も秀吉も出ていなく、三好長慶こそが天下人で、山襞が複雑で急峻な山地のため攻めにくい、国内屈指の山城を築いた、ということになる。飯盛山は東西南北へと通る街道が各地と結ぶ交通の要に位置し、全国を支配できる絶好のロケーションにあった。ここに日本一の名城があったことはあまり知られていない。とても残念なことだと思う。

④四条畷神社

 さて、北向きの尾根筋の急坂を降りる。雨で木の階段の根元の土が流されている個所が多く、実に歩きにくい。西向きに方向を変え、降りきったところが四條畷神社。山道と直角、北向きに真っ直ぐ歩き拝殿に向かう。ここは南北朝時代、四條畷の戦いで戦死した楠木正行(まさつら)を祭る神社で、「大楠公」と呼ばれた楠木正成の子が正行で「小楠公」と呼ばれた。天照や瓊瓊杵尊などの架空の神さんではなく、現存した人を祭っている。この地域の人々は、それほど正行にぞっこんだったということだろう。私の幼少の頃、昭和30年代というのはまだ戦争の名残があったのかもしれない。地元、南河内の英雄、楠木正成、正行親子の「忠孝」、つまり正成が正行に言い残した言葉、「どこまでも正統の天皇、後村上天皇をお守りせよ、そのことが父に対する孝行でもある」と。天皇に対する忠誠、親に対する孝行、それが一致する「忠孝両全」の考えなのである。校長先生の挨拶などにそのことに触れられることが多かったように思う。「忠孝」はともかく、今でも菊水の御紋と楠公さんには愛着があり、何故だかわからぬが足利尊氏は大嫌いである。その辺りはやはり、インプリントされているのだな。

 そこから西に真っ直ぐ、見事なまでに真っ直ぐに参道が伸びる。その距離約1km、国道170号線が野崎の辺りで大阪府道20号線に名を変えるが、それを越え、JR線も越え商店街を突き抜けたところ、「小楠公墓所」まで真っ直ぐに伸びている。神社から緩やかな下りで、両側に瀟洒な住宅が並ぶ。途中、2軒すごい邸宅が並んでいる。まるで日本の寺院とタイ寺院を思わせる凝りに凝った建物だが、只事ではなさそう。でもガスメーターや二階のベランダに竿竹が見えたり、生活臭があるのは隠せない。この辺りの名物建築なのだろうがさらっと流そう。

⑤四条畷

 JR四條畷駅までのこの辺り、楠公さんゆかりの地であることを思わせるネーミングは、やはり多い。楠公マンション、楠公運送、国道から西は楠公通りと名を変え、楠公郵便局などもある。その通りのドン突きが「小楠公墓所」で、墓所の四方は一辺20mくらいの石の玉垣で囲まれ、2本の楠木が合体した巨大樹が全体を覆っている。大久保利通の揮毫による墓碑は肉厚の巨大な石塊で、大楠の下でも威容を誇っている。周りは広場になっており、ゆったりとして落ち着く。この墓所と山裾の四條畷神社が真っ直ぐな道で結ばれていて、それがこの街の東西の骨格を作っている。今は府道20号、JR、それに国道170号の外環状線など南北の交通が主で、大阪通勤圏の中で通過都市になりつつある。

 さて、振り返り一本北に入ると、細い道でありながらすごい賑わい。楠公通りの商店街も各種の商店が立ち並ぶが、車が走り歩行が途切れる。こちらはホコ天、実に老老男女が思い思いに闊歩している。買い物はここの方が便利で親しみがあるのだろう。
 踏切を越え左、四條畷市立歴史民俗資料館へ向かう。標識に沿って畑や住宅地の間を右左に曲がり500mほど行くと、蔵のような白壁と大きな屋根が見えてきたが、何やら静か。やっぱり、ウイルス感染予防のため休館になっている。こんなところには混み合うほど人が来るはずがないのに、と少々腹を立て、インターフォンを鳴らしてやると、学芸員風の方が横から出てこられ、あいさつ。「一人なんですが入れませんかね」まあダメやね、「史跡案内マップなんかいただけませんかね」と言うと館内に戻りもって来てくれた。

⑥正法寺跡発見

四条畷から忍ヶ丘地図
資料館から旧東高野街道を北上次に清滝街道沿いを東へ国中神社旧正法寺など四条畷の史跡を巡るさらに西へと下り忍ケ丘駅から忍岡古墳まで

 もらった地図を元に先ずは古い東高野街道に沿って、と歩き出したが、資料館から出たところがその街道で、ここへ来る時も歩いてきた道でもあった。家々が立て込んだ街中をグルーとゆるく曲がっており、古街道であることが分かる。国道163号の太い道のガードをくぐり、清滝川沿いに清滝街道を東へ上る。国中神社をめざすが、境内への石段下に旧正法寺付近で見つかった双子古墳の石棺が地蔵さん風に展示されている。この地域(国)の中心で産土神を祭る国中神社にお参りして、この辺りでは最大の寺院だった正法寺跡を探すことに。資料館でもらったのはイラスト地図なので、場所が曖昧でよくわからない。グーグルマップにはなく、勘を頼りに探すが、この辺りは山へ向かう起伏のある土地でそこを無理やり住宅開発したようで、古いものはほとんど残っていない。位置的にはこの辺りと見当をつけて、新しいバイパス道を歩くが見当たらない。腹も減ったし、次も行かなあかんし、と諦めかけた時、何やらフェンス越しに看板のようなものが‥‥。あったあった‼︎寸前のところで諦めるところやったが、やはり粘りだね、史跡発見は!説明板の後ろは広場になっており、ここが正法寺跡だと。東西に三重塔を持つ薬師寺式伽藍配置だったと想定される、白鳳時代建立の大寺院。古墳から寺院へと権力誇示の対象が大きく転換していた時代、大化改新以降、律令制が整備されつつある、天智、天武、持統の時代の建築だった。東高野街道と難波・大和を結ぶ清滝街道の交差点でもあったこの地域は交通の要衝としても重要で、あの時代、大寺院を造れるかなり大きな勢力があったと予想できる。

 街中へ降る途中、竹藪や雑木のこんもりした林が見え、古墳とかの史跡がありそうなのだが、その山側の斜面を利用して巨大なゴルフ練習場が立っている。その周辺も真新しい造成地が土砂をむき出しにしている。大阪大都市圏通勤者用の住宅やレジャー施設の開発の手が伸びる地域で、古代史跡保護にとってはやばい状況でもある。

⑦忍岡古墳

 四条畷から一駅歩いたことになり、JR忍ヶ丘駅を抜け、西側の住宅地に入る。駅のすぐそばにまだ田畑が残り、自転車置き場や駐車場が次の開発を待っているように見えるが、無秩序というか成り行き任せに家やビルを建てたみたいで、計画性がうかがわれない。地主の権利と開発業者の主張が行き違い、行政が調整できなかった、そう見て取れる。そんな住宅地の先に何やら小高い林が見えてきた。忍ヶ丘の地名の元になった「忍岡古墳」だな、と見当をつけて歩き出すが、道があるようでない。住宅の隙間に辛うじて引いた通路という感じの道が縦横に走り、行きつ戻りつしながらも、ともかく高いところへ向かう坂道を探して歩く。 坂を上りきったところにこんもりした林があり、それが忍岡古墳であり忍陵神社である。全長92mの前方後円墳で、円墳上に神社があり、祠の横に発掘された石室が保存されている。

忍岡古墳から西側一帯は、広々とした馬の放牧場だったと言われている。

 忍ヶ丘駅付近からあの可愛い子馬の埴輪が出たり、少し西のあの蔀屋北遺跡からは馬の骨が出たりと、ここから西側一帯が馬の放牧地だったとされる。渡来人たちが馬を朝鮮半島から船に乗せて運び、馬飼の技術を伝えた。弥生から古墳時代にかけ、この辺りは渡来人が大活躍した先進地域で、ヤマト政権を大いに支えていたところでもあった。今は木々が密集し展望は効かないが、第二京阪国道の高架を覆うカバーがピカッと光る辺りに何匹もの馬が思い思いに駆け回っているような、今まで想像もしなかった古代の牧場の風景が新しく加わったように思う。あとは寝屋川市南部まで、古墳を訪ねる探検に再出発、ちょっと疲れているのだが‥‥。

 古墳の北側に巨大なため池「新池」が横たわっていて、讃良(ささら)川とに挟まれたその東の縁に更良岡山遺跡、讃良寺跡があるとイラストマップに載っている。最近造成されたのか、周辺の新興住宅地を歩き回ったが、史跡の兆候が全くない。去年あたりに住宅開発されてしまったのか?その凄まじさには驚くが、そのおかげか、一昔前の集合住宅、つまり棟続き長屋や文化住宅が取り残され、現在のマンションや2世帯住宅などと隣り合わせに立っている。集合住宅建築のグラフ誌を見ているような感じなんだが……。

⑧高宮廃寺跡〜太秦高塚古墳

豊野浄水場から高良神社地図
忍岡古墳から北へ寝屋川市内に入り高宮廃寺跡太秦高塚古墳少し戻り高良神社石宝殿古墳と河内湖北岸だった<em>打上地区の<em>遺跡を巡る

 さらに北へ、寝屋川市域に入る。第二京阪道路の建設で大きな土地改造があったとみられる。深い地下を通っていたら上の土地はそのままなのだろうが、トンネルが浅いところを走っているので地上はすべて改変、造成しなおされている。それを越えたところの山地に高宮と名の付く新興住宅地が広がる。坂を上るが、その中腹、住宅が途切れたところに広々とした雑木林が現れる。家の裏の狭い道を下ると植林したとは思われぬ手付かずの林の中を行くことになり、しばらくすると神社の祠が見えてくる。それが大杜御祖(おおもりみおや)神社、もう一つの式内社、高宮神社の祖を祭るもので、この地域の根本の神さんと言える。神社境内一帯が高宮廃寺跡と重なり、その伽藍配置は正法寺にもあったように東塔、西塔、金堂が並ぶ薬師寺式で、7世紀後半の建築だとされる。経過からいうと、大杜御祖神社が最初で、それを移転させ高宮寺が造られ、それが廃寺となった後に大杜御祖神社が元の場所に戻ったということのようだ。

 葛城にも高宮廃寺があり、もう20年も昔、風の森から金剛山に上る途中立ち寄った記憶がある。この高宮とどう関係があるのだろうかと、少し調べてみた。葛城一族は4〜5世紀ヤマト王権を支えた大豪族で、外交、軍事が強かったとされる。その中でも葛城襲津彦(そつひこ)は神功皇后の新羅征伐に同行したとされるが、軍事面で大いに力を発揮したのは確かで、手柄として新羅からの渡来人を多数引き連れ帰り、襲津彦の拠点、葛城に住まわせた。その後、渡来人たちの中でも秦氏は河内や京都に活躍の地を広げていったが、その一族が葛城と同様な高宮寺を建てたと推測されるのであるが、どうだろうか。
 さらに、この住宅地を抜け、大阪市豊野浄水場へと向かう。今まで写真では知っていたのだが、この浄水場が大阪市域を離れた寝屋川市にあったとは・・・。正門脇に太秦高塚古墳、全長39mの帆立貝型前方後円墳で、径37m、高さ7mの二段築成の円墳がきれいに再現されている。円墳の淵には円筒埴輪が並べられ、整然とした幾何学形態になっている。この一帯には太秦古墳群と言われる多数の古墳があり、古墳時代中〜後期の造成で、渡来系氏族・秦氏の墳墓群だと見られる。高台の見晴らしの良い場所に設られているということは、そこから見下ろされる一帯を支配したと考えられ、秦氏の権力は相当大きかったと思われる。

貝殻型前方後円墳の太秦高塚古墳。後円部から帆立型の前方部までパンする。

 野崎城跡には、秦氏が主君と両親の追善供養のために立てたという九重石塔があった。忍岡には大きな牧場があり、放牧や馬飼いの技術は渡来人が伝えたものだ。これらの事例を見ても、秦氏をはじめとする渡来人との関係がかなり濃いところであり、北河内の開発にとって渡来人のかかわりがかなり大きいものだったということがわかる。

⑨石宝殿古墳

 今度は元来た道を戻り、寝屋川公園方面へ。地下にある公園駅を越え、打上団地内の坂道を登り、そこから山の方へ外れ、石宝殿(いしのほうでん)古墳を見学に。打上地域の産土神社である高良神社の境内脇から山道があり、100mも登れば巨大な石塊が見えてきた。積まれた土はすっかり洗われ、きれいな花崗岩の石室が丸出しになっている、と見たが事実はそうではなかった。

 上部石塊は径3mの丸形、高さ1.5mもあろうか、それが蓋になり、下部も石塊を床状にくり抜かれている。石槨内部の前室が幅55cm、高さ70cm、奥行90cm、後室が幅90cm、高さ68cm、奥行140cmということで、人が横たわるに少し狭いが、巨大な空間が彫りぬかれている。表面が平滑に磨かれた見事な石彫のようでもある。石の扉がついていた横口式石槨で、古墳時代終末期、7世紀後半の製作とみられる。入り口の羨道部の両脇に立つ石塊はともに長さ2.5m、高さ1.5m厚みは右側が40cm程度、左側は不定形だが、両内側が平滑な平面で石槨へのアプローチとみられる。これら全体が石室ならこの羨道部に石の蓋が必要なのだが、いまだかつて見つけられてない、というか、元々なかったとされる。つまり花崗岩の四個の巨石を組合せた封上をもたない、いわば巨石の墳墓であると言える。石塊の組み合わせの墳墓として、あの明日香村の鬼 の雪隠・俎が有名だが、元の位置にあり造成時のままの姿で残っているという意味では、石宝殿古墳は貴重な存在だ。

 この7世紀後半の時期は、律令制へと政治体制が確立しつつあり、権力の誇示方法は、正法寺や高宮廃寺でみたように、巨大墳墓から寺院建設への転換期を迎え、文化、生活習慣にも様々な変革がなされてきた時期でもある。墳墓形式においても、仏教の導入とともに火葬が頻繁にみられ、複数埋葬ができる横穴式から横口式を旨とした単独墓へと切り替わりつつあった。打上地区には、「打上八十塚」の名で知られるとおり、古墳時代後期の群集墳が存在していたが、それらは追葬を行なうこが可能な横穴石室を持つ墳墓と見られ、それらとは明らかに異なる横口石槨を持つ単独墳として出現したわけである。この地域は、河内湖の深奥部の北岸に当たり、水際が後退し徐々に陸地化していき、農耕地や放牧地として開拓されていったが、石宝殿古墳は、この地域のかなりな有力者の墳墓とみられるのである。

 この墓をつくる花崗岩石塊はこの美しさを保持しながら1400年以上もこの場所にあったのかと、感慨ひとしおであった。周りが薄暗くなりお別れをして神社まで降りてくると、今まさに大阪湾の向こうに夕陽が沈む瞬間だった。能勢の山、六甲、淡路島、泉州の山々も見渡せる壮大な風景が広がっている。古代から続くこの地の支配者はこのパノラマ風景を我がものにしようとして競ってきた。わたしも南は柏原から、北は寝屋川のこの地まで何日もかけ歩き続け、何度もこのランドスケープを眺めてきたのだが、この風景との出合いが「生駒西麓」に足を運ばせる最大の魅力なんだと思う。美しい夕景に心奪われながら、このシリーズに幕を下ろすにふさわしい探検ができたと、満足して帰途につくのだった。(完)

投稿者:

phk48176

古市古墳群まで自転車で10分、近つ飛鳥博物館まで車で15分という羽曳野市某所に住む古代史ファンです。博物館主催の展示、講演会、講座が私の考古学知識の源、それを足で確かめる探検が最大の楽しみ。大和、摂津、河内の歴史の舞台をあちこち訪ねてフェイスブックにアップします。それら書き散らしていたものを今回「生駒西麓」としてブブログにします。いろいろな意見をいただければ嬉しいです。

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