①はじめに
「日下」と書いて「くさか」と読むのを知ったのは、神武東征神話で生駒山を越え、大和に攻め入ろうとした神武天皇を阻んだ生駒山の豪族・長髄彦(ながすねひこ)と戦った場所の名前としてだった。そこが「日本書紀」にある孔舎衛坂(くさえのさか)で、後に日下という地名になる。東大阪市石切の少し北にあり、元々「くさか」と呼ばれる地で、「日下」という漢字を当てたのだが、なぜ「日下」?難波から見て朝日が昇る山の下側に当たるから?そうではなく、くさか=草香という地名があり、その枕詞が「日下(ひのもと)」だったのが、「飛ぶ鳥あすか」のように枕言葉自体が地名の「あすか」になるように、「日下」が「くさか」になった、という説が自然な感じがする。「草香」とも「孔舎衛」とも書く古代からの地名であり、大和の都からは幾つも山を越えなければならないが、一直線に最も早く難波に行ける峠の道が、大坂側で最初に出合う村でもあった。


また、この辺りは縄文海進の紀元前6000年前から5、6世紀頃までは、河内湾や河内湖東側の汀線で、枚方からまっすぐ南進する東高野街道、つまり国道旧170号線がこの汀線に沿って走っていた。縄文、弥生、古墳時代あたりの史跡をたどり、河内湾・河内湖の時代の汀はどうだったかを想像しながら、東高野街道を歩いて見よう、というのが今回の探検の趣旨であるが、どうなることになりましょうか?(左図:5世紀ころの河内湖・探検日…2017/11/4)
②瓢箪山稲荷神社

「日下」という地名のいわれだけで探検するのにはちょっと心もとないので、予備知識を付ける上で東大阪市立郷土博物館に寄ってみることにする。瓢箪山(ひょうたんやま)が最寄り駅だが、そこへ行くのに、大阪市内に入らず、近鉄河内長野線・大阪線・奈良線経由で道明寺~堅下~布施~瓢箪山まで行くが、連絡待ちが長く1時間半もかかった。すんなり阿倍野~鶴橋~布施~瓢箪山と行った方が随分早かろうに!大阪線高安駅から奈良線瓢箪山駅あたりまでの南北をつなぐ路線がないので布施まで遠回りをせなあかんわけです。








それはそれなりに理由があるのだろう。ま、瓢箪山駅を降りるといきなり商店街。エライ賑やかで、自転車もずんずん行き違い、慣れてないと危ない。この商店街の道が東高野街道で170号線そのものなのだが、なんかとっても庶民的な街の感じ。とすぐに、瓢箪山稲荷神社の鳥居に出くわし、左折、東に向かうと赤い鳥居が見え、お稲荷さんだと分かる。きつねの彫り物と赤い鳥居がセットの別社、末社があちこちに立つ。隠れた人気スポットで、お参りの人が絶えない。人それぞれのいろんなご利益があるのだろう。
山とも言えぬが土盛にしては大きい神社地をぐるっと一回りしたが、この山様は瓢箪山古墳という円墳が南北に二つ並ぶ双円墳と言われる古墳だ。あちこちえぐられているものの、なんとはなしに双円墳に見えるかな?標高15mの瓢箪山古墳から生駒山へ続く標高140mの山中まで、山畑古墳群と呼ばれる70基ほどの群集墓を形成している。


郷土博物館(標高100m程度)辺りまで、1kmほどの間に30基あまりの墳墓が点在するが住宅の密集地でもある。自転車を押して登る主婦らしきご婦人に「エライ坂ですな、毎日大変ですやろ」と、掛けんでもエエのに声掛けると、これまた答えんでもエエのに、ふーふー言いながら「健康にエエ思てね‥‥」などと反応してくれる。
③山畑古墳群
ずうっと家が続き、途切れた所、畑もあったりする辺りに東大阪市立郷土博物館があった。この山側に古墳がいくつかあり、比較的大きい22号墳の横穴石室内の中に入れて見学できる。これも双円墳と言われているが、東側の円墳はえぐられて円には見えないが、東西20mくらいはありそう。石室内は高さ2mくらいあって十分立つことができて広い。今までいくつも横穴式石室に入ったが、最近は恐怖感も薄らぎ、石室空間に慣れてきたようで違和感がない。ということはだんだんあの世に近くなって来たということか?







山畑古墳群は、八尾の高安千塚古墳群、柏原の高井田古墳群など生駒山地西麓の群集墓と同様に、いずれも渡来系の有力者の墳墓と見られるが、山畑のものは6世紀後半から7世紀初めにかけての築造で、馬の放牧を担った馬飼部を率いた渡来系氏族の墳墓と考えられている。さらに南の近つ飛鳥博物館のある一須賀古墳群も渡来系の有力者の墓だった。古墳時代を通じて、ヤマト王権が集権化していく過程で、大土木技術や統治制度、生活用品や知識など、高度な大陸文化を必要としたが、それらを伝えたのが渡来系の人々だった。そして、河内湖東沿岸から河内一帯は、渡来人たちが倭国本土に入る玄関口であり、彼らは河内一帯に住居することとなった。















郷土博物館へ入って学芸員、と言っても一人しか見えなかったけれど、今日の散策の趣旨を述べ地図と史跡ガイドブックを求めると、いろいろ親切に教えてくれる。枚岡神社に行きたい、というと山裾を縫っていく里道、地元民しか知らないような野道を地図に赤線を入れて教えてくれる。それに沿って行くと、大阪平野一望の大パノラマが広がる場所に出た。すぐ手前のスタジアムは、花園ラグビー場か、阿倍野ハルカス、大阪市内の高層ビル群、ここから見る夕陽は見事だろうな。学芸員さんが言うには、西方浄土そのものが手に取るように分かるらしい。さもありなん、です。




木漏れ日が美しい枚岡神社を南から入り、七五三で賑わう本殿で一礼し、参道を西に近鉄枚岡駅に向かう。この広々とした参道や境内はだんじりが暴れ回れるようにしたものだろう。下側の駅から参道を見上げる風景はゆったりしていて気持ちが良い。
④神武東征の激戦地・日下の今
次は電車に乗り、ともかくも一番高い所、石切駅へ。ほぼ100mの標高、雲も出ていて暗くなってきたが、ここでは北摂の山々も一望できる。赤い屋根の家並みを手前にして、彼方に光る海も見え、何か日本ではない、おとぎの国のよう。近鉄の線路に沿って少し山側に行くと、神武と長髄彦が戦った孔舎衛坂(くさえざか)の名がつく昔の駅ホームと大正2年、岩盤崩落で大惨事を起こしたことで知られる旧生駒トンネル入口が見える。鉄ちゃんにはたまらんだろうが、廃線遺跡が目前に広がる。まだ山奥にこの地名の由来になった石切場や石仏群もあるが、それはまたにして、坂を下り日下の村を訪ねよう。

生駒山地からの水を一時貯めるため池も多いが、その一つの池の淵に、本来は暖地の海岸に自生するヒトモトススキが生え、東大阪市の天然記念物に指定されている。つまり、暖かい南の地方から海を渡ってきて棲みついた植物で、この辺りが海岸べりだったことを伝える。さらに下ると、「御所ケ池」という名が地図に載っているが、見当たらなく、その場所は、今は埋め立てられ、住宅用地に造成されつつある。見上げると、近鉄石切駅のさらに上にも住宅が広がっていて、そのふもとの日下地域まで住宅地が続いている。ついこの前まで畑だったような所にも新築の家が所狭しと並んでいる。少し下がると上田秋成隠棲地でもある正法寺跡という案内板があるが、楠木二本残すのみで寺の跡形がなく、住宅で埋め尽くされている。






この辺りは、近鉄線が二本走っていて、1kmも歩けば、新石切か石切のいずれかの駅に着く。特に、地下鉄中央線と直結する近鉄けいはんな線が開通して、本町の都心まですぐ行けてとても便利になった。その分住宅開発が凄まじい。遺跡や史跡がどんどんなくなり、今では石碑が立つのみ、というケースが多い。その一つが「日下貝塚。ジオラマか何かで貝塚跡が再現されて詳しい解説もあるかな、と期待したが道端に石柱が立つのみで、愛想のないことだ。便利さを求め凄まじい開発がされるなら、高安から北方面の瓢箪山までに鉄道がないことは良かったのかもしれない。高安千塚古墳群のように、高安から神立、六万寺といった地域の山裾にはまだまだ田畑があり、古墳や遺跡がたくさん残っている。鉄道があるかないかで、こうまで違うのかと、古墳巡りというのは都市開発の実態を見ることに似たり、と思えてくるのである。










とは言えど、日下の村人にまだ昔心があるのも確か。生駒越えの旧街道筋に大きなカヤ(榧)の木が立つ河澄家が東大阪市指定文化財として残されている。日下村の庄屋を務めた旧家で、19代当主雄次郎の娘ナミが富田林の杉山家に嫁いで誕生した娘タカは、あの石上露子だったという。東高野街道つながりですな。少し下った井上家も手入れの良く行き届いた立派な旧家だ。また西地蔵や東地蔵などがそれを覆う祠も建てられ大切に管理されている。石切場が近いということで、石屋や造園業などの店も街道筋に並ぶ。
⑤河内湖の汀線ー東高野街道を歩く



下り坂がだんだん緩やかになりだしたところで、国道170号にぶつかる。この辺りが、河内湖の汀だったことがよく理解できる。穏やかな瀬戸内海のさらに内海であった河内湖、その汀は波一つない穏やかな浜辺であったろう。京の公家衆が高野詣でに通ったころの平安期や鎌倉期、湖はすでになかったろうが、まだ湿地も残り、田畑が広がり、彼方に上町台地の深い緑、四天王寺の塔も見通せて、のどかな風景だっただろう。その汀沿いに枚方から四條畷まで来、さらに八尾、羽曳野、河内長野まで、ほぼまっすぐ東高野街道が伸びていたのだ。






今度はこの街道伝いに北へどこまで行けるか分からないが、歩き出したのである。車がひっきりなしに通る。しばらく道なりに行くと、右側に「孔舎衛小学校」その隣が「JA孔舎衛」とあり、これも「くさか」と読む。さらに北へずんずん行くが、地図と照らし合わせ周りをよく見ていくと、「浜地蔵尊」「浜の橋」「一里松の跡」、神武天皇が「浪速の渡(なみはやのわたり)」を越えて湾に侵入し楯津(たてづ)に上陸したとする「楯津浜碑」などもあり、浜辺に関係する名称が次次々出てくる。やはり、この街道は浜辺を通っていたことに確証が持てるようになる。




さらに行くと、右=東側の山容がぐっと迫り、黄色くなりつつある陽の光が山の斜面を照らす。そこはもう四條畷市との境界、生駒山が途切れて飯盛山系になる。その間の谷部には、へアピンカーブを作りながら山越えをしようとする阪奈国道への入り口、寺川交差点がある。子供が小さいころ、生駒遊園地にはここを登って行ったものだが、生駒遊園は今、どうなってるの?あの観覧車はいずこ?


大阪産業大学を過ぎ、寺川交差点辺りに来るともう薄暗くなってきて、寒くなる。足取りも早くなり、飯盛山がどんどん近づく。そして、あの観音さんの野崎まで来てしまった。いつの日か、5月の連休にお参りに来たので土地勘もある。あんなに人で埋まっていた賑わいはどこへ行ってしまったのか、というくらい参道の商店街は店も閉まっているところもあり、閑散としている。とまあ、なんとかJR野崎駅にたどり着きましたな。と、すぐに電車が来て、温い暖房の車内に滑り込みましたがな。とりあえずは放出まで。乗り換え東大阪線で久宝寺、そして大和路線で柏原まで帰るのでした。あー、疲れた!
しかし、後日考えてみたのだが、何故神武は日下から大和に入ろうとしたのだろうか?
日本書紀は奈良時代に書かれたわけだが、都は平城京で、大阪側から大和に侵入するには日下辺りから入るのが一番速い、つまり、一直線で大和に入れる。一方、十三峠越えとか竜田越えとかで入ろうとすれば、何故そのルートかの意味づけの説明をする必要が出てきて面倒でもある。神武東征という物語を直截にわからせようとすれば、難波から大和へまっすぐ入る、これに限るのである。日下からのルートは生駒山頂上への直接ルートだから、生駒西麓でも最も急峻であり、侵入の困難さが良く伝わる。だから長髄彦に拒まれ撤退することの言い訳にもなろう。そんな訳で、少し南側にはなるのだが、次回は平城京への直線路ともいえる街道筋、国道308号線に沿って暗峠で生駒越えをする探検をしてみようと思う。