生駒越え

①はじめに

石切から生駒山越えの地図
石切から生駒山頂上を越えケーブルで寶山寺に参り近鉄生駒駅まで下るスーパーカシミール地図

 歳がいくと、夏の暑い日中に出かけるのは命に関わることなので、古代史探検はずっと控えていた。今日はちょっと涼しいので、居ても立ってもおられず、探検に出かけることにした。この前、暗峠から308号を歩いたのは6月17日だったので、二カ月ぶり。「街道を行く」ではなく「古道を行く」ファンの皆様には長いことお待たせしましたな。待ってない?そうですか!
 今回は、暗峠よりまだ北方の石切から生駒山頂上部に向かって正面からぶつかる登攀になる。生駒山頂近くには興法寺があるが、そこへ向かう「巡礼の街道」、河内のサンティアゴ・デ・コンポステーラなのである。生駒山上を越すと、奈良の真言のメッカ、「生駒の聖天さん」と親しまれる 寶山寺があり、そこへは大和からの巡礼街道がある。さらにその先、富雄から東へ行けば、奈良の都、平城京へ直通する。奈良時代、難波宮への最も早いルートで、暗峠越奈良街道よりはきついルートだと推測しているのであるが‥‥。今回もあえて大阪市内を通らず、河内平野を縦横に走る近鉄線を乗り継いで時間をかけ、そして石切駅に降り立った。(探検日…2018/8/19)

近鉄奈良線が石切方面に近づくと生駒山上が迫ってくる。
生駒山麓の石切駅へ電車が上ってくると、河内から大阪市内一帯が眼下に見える。

②辻子谷越え

 生駒山中に源流を持ち、石切の街中を下り、恩智川に流れ込む音川に沿って登っていく。いきなり急坂になるが、道の正面に爪切地蔵堂が見えてくる。弘法大師が一夜に爪で刻んだという伝説があるが、ともかくこれからの生駒越えの道中の安全を祈る。しばらく行くと、石切劔箭神社上之宮との分かれ道になるが、急ぐ道中でもないので、神社に立ち寄ることにする。よく行く石切さんは下之社の方で、いずれも饒速日尊(にぎはやひのみこと)を祭り、古代には物部氏の守り神であった。山の中腹にあるのでお参りする人も少なく、上之社の方が俗っぽくなく、石段を上ったところにある境内も明るい清澄な感じで、さわやかな気分になる。さらにその奥には、日本武尊の妃、弟橘姫命(おとたちばなのひめみこ)を祭神とする婦道神社がある。日本武尊が東北へ遠征の途中、海難に遭遇した時、身代わりとなって海に身を投じて海神の怒りを鎮め、夫の無事成功を祈願したという弟橘姫命の行いが婦人の道とされたが、今日日には通じない。おおらかな神話の世界として感じる方が良いのだろう。

 また元の道に戻り、生駒の山裾を削る辻子谷に沿って登坂する。こりゃ、暗峠越えよりはるかに急坂やがな。10mも行けば立ち止まり休憩をとらざるを得ない。少しも緩やかな坂にならず、ずっと急坂が続く。その道端に赤い前垂れをした地蔵さんが一定間隔をあけ並ぶが、この急坂を登る人を慰めるために立っていてくれるのだなと感謝もしたいが、しかししんどい坂である。
 しばらく行くと広場があり、その奥に大きな水車が回っている。江戸期から昭和30年代まで、この谷を削る急流を動力源として水車が活躍していた。辻子谷から音川に沿い、東高野街道の辺りまで、江戸期には100基を超えていたと言う。精米、製粉、油搾、そして薬種細抹の製造のため、立派にエネルギー産業として成立していたわけだ。当然のごとく、昭和50年代にほとんどなくなり、これではいかんと立ち上がった地元の人達「昭楠会」の皆さんが水車を復元された。我々くらいの年寄り中心だろうが良い仕事をなさる。こういう「もの」を作って残すというのは、皆さんに理解されやすく、本当に楽しいだろう。うらやましい限りだ!

辻子谷音川にあった水車小屋地図
調査により確認された辻子谷の音川一部は宮川にあった水車群

③巡礼の旅=地蔵巡り

 さらに登って行くと、ひょいと一人のおばあちゃんが道沿の家から出てきて、続いておじいちゃんも。「エライ坂ですな」「ええ運動になるけど、車なしには生活でけへんな」「お地蔵さんが多いですね」「上の興法寺さんまで88体あって、四国の八十八か所巡りと等しいご利益がある。昔は巡礼で登る人が多かったが、最近はめっきり減ったね」とのこと。この急坂と地蔵さんはセットで、やはり祈りの道なんですね。

 かなり登ってヘトヘトになりだした頃に道が細くなり、車の通行禁止の表示。さらに山道が続くが、しばらく行くとアスファルト道が行き止まりになり、石段の山道に入り、さらに急坂になる。どこまで続くんや、この坂は!怒りさえ覚えるが、しかし、数十m、近いところだと数mごとに必ず2体一対で地蔵さんがいらっしゃる。赤い前掛けをして黙って道行く者を見ておられる。台石に文字が彫られているが不鮮明なものが多い。登りかけに見つけたのには「十三番、十四番」とあったが、一体ずつ手を合わせ拝みながら行くと急坂も気にならず心穏やかに登っていけるのだろうな。石段の山道に入って一組だけだが、5〜6人連れの巡礼の一行と出会った。白装束で手に数珠を持ち、ゆっくりと坂道を下りて来られる。立ち止まって眺めていると、道を開けてくれていると思われたのか、一人一人が「おおきに、ありがとございます」と丁寧に礼を言われる。ああ、ええな、ああやって巡礼の姿で山道を行くというのは……。いつしか心静かになって、「同行二人」、こうやってお大師様と一緒に歩けるなんてありがたいことや、と感謝の気持ちになるのだろうな。いっぺん四国へ巡礼の旅に出かけたろかいな、という気にもなるのだが、さて……。

④興法寺

 10段も上れば一休みという、のらりくらりの登攀だが、やっと興法寺への階段に取り付く。数十段の階段を上ったところに「八十二番」と彫られた文字が見て取れる。もう最後なのだと、ホッとする。そして階段を上りきったところに石の鳥居があり、昔は神宮寺だったのだろう、その先にお寺が見える。寺の山門が額縁効果となって境内が一幅の風景画さながらに見える。モミジの葉が涼やかに揺らいでいる。中に入ると、やはり、山寺なのか、あまり手が入れられていなく、荒れたままになっている。通り過ぎてはきたが、この谷筋に沿ってかなりな数の寺社が点在している。地図に載っているものを見ても、麓の石切神社上之宮、大観音寺、天主寺、寳光寺、國光院、清谷寺、三光滝妙覚寺、慈雲寺、仁徳寺など、そして最も高いところにあるのが鷲尾山興法寺なのである。この谷筋は生駒山上への急坂を登る修験道でもあり、人々に霊威をもたらす信仰の谷であり、お地蔵さんに守られた巡礼道なのである。

生駒への道周辺の寺院地図
音川に沿う谷筋には麓から<em>大観音寺<em>石切神社上之宮大安寺<em>清谷寺三光滝妙覚寺<em>一成寺仁徳寺など最も高いところに興法寺<em>ある<em>寺院の密度がかなり高い

⑤生駒山遊園地へ

 そこからまた山道が続くが、辻子谷ハイキングコースと名付けられ、比較的緩やかな道が生駒山上まで続く。途中で大きく山崩していたが、めげずに登ると、あの生駒山上遊園地が眼前に広がる。飛行塔やチェーンタワーは健在、イーグルフライは新しいものだ。入園料が無料、乗り物は2〜300円程度でその都度払う。なんかほっこりしますな。我が子がまだ小さい頃何度か来たことがあるが、幼稚園児から小学生くらいだろう、まだまだかなりな入園者が来ている。涼しいし、お手頃なので、そこそこ人気がある。スリルを追い求めるテーマパークとは違って、遊園地入門編として、やはりなくてはならない存在なんだろうな。何度も廃園の危機もあったろうが、よく頑張っていると思う。レストランで軽くランチをし、早々と、今度は生駒東麓、生駒聖天さんと親しまれる宝山寺をめざし、遊園地の乗り物みたいなかわいいケーブルカーに乗り込む。

⑥生駒聖天さん・寶山寺

 生駒ケーブルは近鉄生駒駅まで通じているが、途中の宝山寺駅で下車、そこから少し歩き、「観光生駒」のアーケードに迎えられ、寶山寺への階段を登るのであった。こんな山中に異様な景観、かつての道頓堀や千日前の歓楽街にあったような雰囲気、石段の両側に風格もあり、気品も備えた建築様式の旅館であるような料亭であるような、りっぱな建築が立ち並ぶ。人が往来していると華やかなんだが、誰一人出ていない、シーンとしていて、なんか妙な?

 石段はまだ先の寶山寺まで延々と続く。何度も休憩をとりながら、ここでも汗びしょりになりながらなんとか山門までたどり着く。よく手入れが行き届いた境内で、ふんだんに石が使われていて、美しい。さまざまな動物の彫刻をあしらった五重の塔、重厚な社、反り返った屋根がちょっと中国風だったり、平野の寺院にはない、山岳寺院の荘厳さがある。本堂では護摩焚きの火炎が天上まで燃え上がっており、不動明王が本尊。また、鎮守神として歓喜天(聖天)を祀り、真言宗十八本山という。参拝者は丁重に祈りを重ねる熱心な人ばかりで、私のような物見遊山的な見学者は少ない。元は7世紀役行者が開いた修験道場で空海も修行したというが、現在の繁栄に結び付くのは、江戸期、宝山湛海律師が再興し歓喜天を祀った頃からで、現世御利益があると人気を集めだした、と。住友家をはじめ大阪の商人が多数お参りに来た。


 重厚な境内を見下ろす山腹、その岩山には洞窟を掘り込み、修行をしたとされる般若窟がある。さらに上には塔もあり、尋常ではない祈りの山だなあと、感じ入るばかり。一休みし下山してくるが、寄付金額などが彫られた、神社で言う玉垣を見ていくと、ヘェ〜と、これまた驚く。何とその金額が半端やない。五百萬円なんてざらにあり、一千萬円、三千萬円、五千萬円、そして一億円‥‥。流石に一億円は石板一枚ではなく、一区画を設け、仏さんの立像付きである。永代供養なのだが、こんな高額の寄付を見たことがない。ほとんど個人名だが、持っている人は持ってはるんやな。商売人には信仰の篤い人が多いといえど、この膨大な額、ちょっと尋常じゃない、何から何まで驚きの空間でしたな。

 後は生駒駅まで下るだけ。この参道続きの道を下っていくと、緩やかにカーブを繰り返しながら、徐々になだらかになっていく。階段状の坂道が、旅館や飲食店の町並みから住宅地に変わっていく。そしてアスファルトの普通の街路になると事務所ビルやマンションになり、近鉄生駒駅にぶつかる。駅に近づいたところで、遊び人風のおじさんを追い抜いたり追い抜かされしていると、写真撮って歩いてる私を不審に思ったのか、話しかけてきた。「30年ほど前までこの辺り女郎街やってな、繁盛してたもんやけど」と。「聖天さんに参った後の精進明けやったんですかね?」「写真撮って何したはりますねん?」「この曲がりくねった道は昔からの道で、奈良の都から難波宮に行く一番早い道やないか、と。天皇も貴族も通った道やないかと思うんですけどね、1500年前は」「オレは30年前くらいしか分からんわー」てなことを話しながら別れましたけどね。ふーん、聖天通りのあの歓楽街風の、旅館、料亭風でもあり、そうでもない、あれらはなんなん?にわかには信じられないが、やはりそういうことか?

⑦平城京から難波宮までの最短道

 ということで、平城京から難波宮までの最短道であることは確かだろうが、生駒山の東・西の両側に濃厚な祈りの拠点が形成されている、ということはどういうことだろうか?古代から修験僧が跋扈する険しい修行の道で、庶民が行き来するには恐れ多い、霊験あらたかな道であったのだろう。それが近鉄がトンネルを掘り、大阪、奈良を容易に行き来できるように便を図り、なおかつ霊場でもあった生駒山上を遊園地にしてしまい、まあ、親しみやすい生駒山になってしまったが、本来は難波と大和を分け隔てる境界として、重要な役割があった。むしろ、越えるに越えられぬ障害、祈りなりお祓いなり、精神的には修養を積んで乗り超えねばならない高いハードルがあったのではないか。そこに神武の大和への進入を拒否した、この土地の持つ古代からの意味があるのではないか?と、元に戻るのであるが、大和における生駒山の持つ意味合い、人を寄せ付けない神域としての生駒の意味をもっと深く考えなければならない、改めてそう思うのであります。

投稿者:

phk48176

古市古墳群まで自転車で10分、近つ飛鳥博物館まで車で15分という羽曳野市某所に住む古代史ファンです。博物館主催の展示、講演会、講座が私の考古学知識の源、それを足で確かめる探検が最大の楽しみ。大和、摂津、河内の歴史の舞台をあちこち訪ねてフェイスブックにアップします。それら書き散らしていたものを今回「生駒西麓」としてブブログにします。いろいろな意見をいただければ嬉しいです。

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