①はじめに
「伊勢物語」の在平業平が「高安の女」に会いに来た「竜田道」というのは、竜田川沿いに登り、平群から生駒山の十三峠を越えるルートだと、八尾市高安の地元の方たちはそう主張していた。一方、柏原市の河内六大寺の大県、知識寺跡辺りでは、業平は生駒山地の南端を回り、生駒西麓沿いに来たとして、そこを「業平道」とも名付け、立派な石の標識やそのいわれを書いた案内板も立てている。さて、「竜田越え」といわれる道はどちらが正しいのだろうか?大和から河内・難波へとやって来る、生駒山地を越える古代の道とはどんなものか?「生駒西麓」を探検するにあたり、まずそのあたりから始めることにしよう。
河内湾が真水化していき、河内潟・河内湖と呼ばれる弥生期のころから、これらの喫水域、つまり生駒西麓の地域は大陸からの人、物資、技術が盛んに伝わり、先進文明地域でもあった。そのため、大和と河内との行き来は盛んで、それらをつなぐ生駒山を越える道は何本も通じていたとみられる。古墳時代からすでに大陸への窓口として重要だった難波だが、応神朝には大隅宮、仁德朝には高津宮、大化改新時の孝徳朝には長柄豊崎宮の難波宮、そして奈良時代の聖武朝には後期難波宮と代々難波に宮があり、宮廷人も大和と難波を頻繁に行き来していたが、その一つに竜田越えと呼ばれるルートがあった。当時では珍しい石組みの井戸だった「竹原井」を見物するため、斑鳩に住まいする聖徳太子が高井田にやってきたという記録がある。それらは、柏原あたりを経由して、生駒山地南端部を通る道筋のように思えるが、天皇の行幸道であるなら速くて安全でなければならない。そういう事情から、大和と難波を結ぶ官道として、竜田越えルートが確定してきたといえるのではなかろうか。
大和と難波を結ぶ街道としては、竹之内街道は推古朝からの官道として整備されたが、遠回りであり標高が300mと結構高い。穴虫峠や田尻峠を越える大坂越えというのもあったが、山・谷を何度も上り下りをしなければならない。大和川を船で行けば良さそうなのだが、亀の瀬をどうしても漕ぎ渡ることができず、積荷を降ろして陸路を行かねばならなかった。それは現代でも大和川の舟運が行われていないことからも分かる。大和川の右岸沿いに進むルートもあるにはあるが、亀の瀬辺りが古代より山崩れが激しく、その山道は懼(おそれ)坂道、また畏(かしこ)の坂といわれていたくらいで、危険な道で通るものは少なかった。竜田越えはなんと言っても大和川を渡らなくてすみ、安全な道とするなら、果たしてどこを通る道であったのか?今回、生駒山地の南端の山々や峠を登ったといわれる古代街道の原点でもある「竜田道」を探検したいと思う。(探検日:2018.1.8)
②龍田大社から始まる竜田道
というようなわけで、天気も穏やかな正月明けの7日、JR関西線三郷駅から出発、龍田大社に詣でることから始める。まだ初詣の初々しさが残るが、本殿左奥の竜田戎ではえべっさんのお払いがすでに行われていた。登った坂道を降りまた駅に近づくと「龍田古道→三室山」と書いた案内看板が目に高橋入る。ガイドブックにも載らないし、誰も見向きもしないルートで、迷いながら自分で道を探さなくてはならないかと悲壮にもなっていたが、地元では当たり前の道、正にこれが行きたい竜田越えではないか。竜田の歴史を愛する三郷町の人々の暖かさを感じる。で、ともかく先々その看板を頼りに歩くことが必定である。
万葉歌人が行き来した竜田道
竜田の地は、業平の詩歌以前に万葉集で最もよく詠われた土地でもあり、西方山手側の新興住宅地に入る境目に、犬養孝先生の筆による立派な石造りの歌碑が立っている。奈良時代の歌人・高橋虫麻呂が主君に付いて難波へ行くときに詠った「わが行は 七日は過ぎじ 龍田彦 ゆめこの花を 風にな散らし」。龍田彦は風の神さんでもあり、7日以内に帰ってくるので、それまでは風を吹かして花を散らさんといて、とお願いする詩である。つまり、これから奈良の都人も難波との行き来で通った竜田道に入っていくわけだな。徐々に坂道となり住宅が建て込んでくるが、高山という集落に入っても辻辻に案内看板が立ち、迷うことがない。住宅地を過ぎ、いよいよ山中に入る。「三室山生活環境保全林」として散歩道も整備され、少し歩き疲れたころに休憩地があり、その傍らに万葉歌が書かれた看板が立っている。「龍田山 見つつ越え来し 桜花 散りか過ぎなむ 我が帰るとに」(大友家持)これも難波を行き来した時に詠ったものだ。「君に因り 言の繫きを 龍田越え 三津の浜辺に みそぎしにゆく」(八女女王)「夕されば 雁の越え行く 龍田山 時雨に競ひ 色づきにけり」(作者不詳)などなど、桜もそうだが、秋のもみじも見事だったということだ。天皇行幸道ではあるが、多くの歌人たちも往来し、桜を、また紅葉を楽しむためにも訪れたのではなかろうか。そして、三室山からの眺めは、明日香から三輪山、平城京の都まで眼下に一望できた絶景の位置でもあった。三室山山上に近い山道沿いには、桜と紅葉の若木が取り合わされて植樹されている。三郷町制50周年記念植樹のようで、山上に近づくにつれその数が増え、山上は杉やヒノキなどの大木を切り、桜と紅葉の林にし、137mの頂上の展望台からの見晴らしをよくしようとするものだ。三郷町さんは万葉歌とともにある町なんだと、なかなか粋な計らいをしてくれてます。
神降りの道でもある竜田道
さらに登り、森深くなるところ、石段にお墓とも見える石碑のようなものが立っており、地元の人に言わせると、この辺りが龍田大社のあった跡だという。そこから尾根筋の龍田古道に沿って両側に、NPO「龍田・三室山桜の会」の世話により、個人が桜を寄付した「桜の里山公園」がいくつも続き、14号園まで数えることができたが、この山全体が桜の園へと生まれ変わろうとしている。今年の花見の候補地としてここもメモしておこう。
この先尾根伝いに登り、広いアスファルト道路に出て少し登ると、この辺りの最高峰、約286mの「御座峰」があり、これらの山全体を総して龍田山と呼ばれる。ここが龍田大社の風神が降臨した地とされ、7月の第1日曜日に「風鎮大祭」、翌日には「御座峰山神祭」がこの地で行われ、大社へ神を運ぶことから、龍田古道を「神降りの道」とも呼ばれる。神事の道として生きているからこそ、桜や紅葉の植樹で古道としてよみがえらせようとしている、わー、エエことです。
③竜田山を下り峠八幡へ
さて、これからどう行くかが問題。雁多尾畑(かりんどばた)の金山媛(ひめ)神社へはすぐのところで、そこから柏原の安堂へ帰ろうとはしているが、竜田関だったという麓の峠八幡神社や亀の瀬も見たい。ということは別の道をたどり一度大和川付近まで下り、川伝いを歩き、また雁多尾畑へ続く別の道を登ってくるということになる。今まで以上の距離を下りてまた登るということになるが、また日を改めて来ることも難儀なことで初志貫徹することに。ということで来た道を途中まで折り返し、左の道に入り峠八幡神社まで下りていく。
亀の瀬は地滑りの名所
途中この山地最大の難所、古代から何回も繰り返してきた地割れや地滑りの場所に通りかかる。亀の瀬辺りの山道は懼(おそれ)坂道、また畏(かしこ)の坂といわれていたくらいで、危険な道だった。地滑りは4万年以上も前から起こっているといわれ、昭和6年(1931)のそれは大規模で、関西線トンネルが崩壊し、同時に起こった大和川の川底隆起により川がせき止められ、王寺町一帯が浸水することとなった。1960年代以降本格的な地すべり対策事業が開始され、昭和42年以降は対策の効果もあり大きな地滑りは発生していないという。広大な山の斜面一帯にいくつか土留の段差が作られ、ところどころで水抜きパイプや掘削口があけられている。この工事区域のための資材運搬のため、太いアスファルト道路が整備され、区域東側のケヤキやカシなどの雑木林の中を急カーブが縫っている。だから、今はもう古い山越え道は跡形もない。麓のほうの峠集落を通る道、また畑と畑の境には地滑り防止の石垣が何重にも作られており、昔からこの地すべりには苦労してきていることが分かる。
峠八幡神社南方に竜田関が…。
下り坂を大きく迂回する道を下りてきて、川岸が見え出したところに峠八幡神社、その石段の横に地蔵堂がある。地蔵菩薩坐像で、石の掘りも深く真新しいのかと思えるが、鎌倉末から室町初期の作りと書かれている。大事に保管されてきていたのだろう、なかなかよいお顔をされている。この神社の前の道が川筋を行く竜田道で、少し西側の交差のところ辺りに、前期難波宮や壬申の乱くらいから竜田関が設けられていたという。天武天皇のとき、大和を中心にして4つの関所が設けられた。東国へは不破の関(岐阜)、中国へは吉備の関(岡山)、山陰へは石見の関(島根)、そしてこの竜田関である。壬申の乱のとき、大伴吹負の軍が柏原の高倉山から大津軍が大坂から攻めてくるのをいち早く発見したと言われるが、この時吹負は大和からこの関を通り龍田山に登りそこから尾根筋を通り高倉山にたどり着いたのではないか、と推測する。そんな意味で、竜田越え道というのは軍事的にも重要な幹線道路だったと言える。
④亀の瀬から金山神社
亀の瀬の雄大な風景
さて、今度は大和川右岸の川筋に沿ってしばらく行くと大和川一番の急流、亀の瀬にでる。その北側の山地全面に地すべり対策工事が施され、木の一本もない傾斜地が広がる。今日の大和川は水かさが少ないのか、はっきり亀の背が見える。つまり、亀の甲羅の形をした岩が川面に出ていて、亀が流れに抗して歩んでいるような……。対岸にはJR大和路(関西)線の電車が5分おきくらいだろうか、割と頻繁に?行き交う。ここで大きく川が蛇行しているため、川をはさんで広大な風景が広がる。さらに右岸を西へ、急崖が迫る細い道をテクテク。崖淵の道路に沿って伸びる線路が大和川をまたぐ鉄橋につながっているが、そこを通って走ってくる電車の流れるような動きは、かっこうええなあと、鉄ちゃんならずとも、ほれぼれして見入ってしまう。
金山彦神社は青谷が氏子
崖崩れがなかったら気持ちのよい道なのだが、今でも壁面や路面にところどころほころびが見受けられる。昔はしょっちゅう崖崩れがして先まで行けなかったのだろうな。そして河内堅下の駅が見え、線路を渡って青谷の集落へと入る。駅を越え少し行ったところからまた坂道に入っていくことになる。なだらかな坂をずんずん登っていくが、どの家も石垣を築き、土砂崩れを防止している。デザインは必要から生まれるというが、どの石組みも美しく、門構えが見事な家が続く。と、大きなため池が見え、その向こうに金山彦(ひこ)神社。「金」というのは鉄で、おそらく5世紀ころの朝鮮半島からの渡来人が鉄鋳造を伝え、この山で製鉄を営んだ。古代にはふいごなどなく自然の風が頼りで、山地の風がよく通るところに鋳造所を作った。そこが竜田山で、先ほどの御座峰に風神が降臨し、それを祭るということは、鉄を作るのに必要だった風のありがたみに感謝し、期待することに由来する。鉄との関係で風神があり、風の神様を祭る竜田大社が創建された、と言えるのであり、製鉄を盛んにするということが原因であろう。
金山媛神社は雁多尾畑の神社
さらに坂道を登り小一時間、山道沿いに堅上小・中学校があり、その上方、急崖の中腹に金山媛(ひめ)神社が見えた。神主さんは元サラリーマンで近年ここに「就職」したとおっしゃる。数年前に新築され、すべて真新しいがしっかりした建物だ。全国に金属関係の氏子さんがおられて、そういう方々からの寄付ですかと聞くも、氏子は雁多尾畑(かりんどおばた)の地元の方ばかりだと言う。ここには金持ちが多いのだろう。そういえば下の金山彦神社も新築だったが、何故媛神社が高いところにあるんですかね、と聞くと、夫婦一対とも姉弟とも言うと、まあ、青谷と雁多尾畑のそれぞれの地区が自分たちの神社を持ちたかったのだろう。上下関係ということはないと思うとのことだった。さらに上ったところにある雁多尾畑の集落も山肌斜面に門構えが立派な大きな家が続くが、稼ぎの元はブドウなのだろう。農協の前の道を西に行き、集落を離れるとそこらじゅうにブドウ畑が広がっていた。
⑤雁多尾畑から柏原へ
竜田山から柏原は意外と近い
雁多尾畑の集落から柏原方面へ向かうべく、坂を登ったり下りたり、ぶらぶら歩いていると、もうだいぶ日も傾いてきて4時近くになっている。こんな山奥で日が暮れたら「えらいこっちゃがな!」と自然と足の運びも早くなる。だいぶ下ってきて横尾という集落に入る。門構えといい塀といい松といい立派な家に見とれていると一人のおばあさんが出てきて、「写真撮ってなさるか」、と呼びかけてきた。「みかん食べるか」とくれるのでいただくと、これが甘くおいしい、疲れが吹き飛ぶ思いだ。何やかやと世間話をしているとますます暮れていく。話も途中でお別れして、半ば駆け足で坂道を下っていく。しばらく行き、トンネルを抜け一山を越えた感じのところ、何か見慣れた光景に出くわす。そう、この前訪れた生駒西麓である柏原の安堂という集落に入っていて、あのベネチアのカンポ広場かと見まがう四辻に出たのであった。そうだったのか、尾根と谷間伝いに行くと竜田山と柏原の町とは意外と近いのであった。
さて、業平が高安へやって来た竜田道とはいかなる道かは不明なれど、古代王族が難波と行き来した道は三室山や竜田山のある山道であり、別ルートとして、峠八幡神社までは川を伝い、そこから竜田山へ向かい山道に合流するという竜田越えであったことは間違いなかろう。そして竜田川と言うのは、三郷から亀の瀬辺りまでの大和川を指すとも言われ、地元では業平はこちらの竜田越えをした、と言う意見が圧倒的。そして細い川だったが竜田川がもう一つあり、峠の村辺りから大和川に流れ込んでいたが、昭和の崖崩れで小さい池だけ残して、道はなくなったしまったという意見も実録した。その真実はともかく、竜田山は風の神さんの降臨地であり、歌の名所でもあり、竜田越えは古代人にはたいへん有名で憧れの場所だった。伝説的でもある竜田道なのだが、その奥深さは歩いてみてこそ分かることなのだ、と実感されたのである。