高安

①はじめに

 さあさあ、始まりましたフンフン古墳探検。冬場は寒いし、春先は花粉症でして、ようやっと動き始めました。今回は高安・千塚古墳群、霊地「生駒西麓」の象徴的なところ、千塚というくらいだから、数えられないくらいの古墳がある、というところ。楽しみだなあ、ってちょっと趣味が悪い?
 さて、今日は朝からエエ天気。近鉄道明寺から柏原線に乗り換え大和川を渡りJR大和路線との共通の柏原駅で下車。そこから歩いて近鉄大阪線堅下から乗り、河内山本で折り返しで信貴山口へ向かう信貴線に乗り換え服部川で下車。この小刻みな乗り換えがたまらなく好きだ。この間じゅう、近くに遠くにずうっと生駒山を眺めていられるのだ。生駒山西側は、石切から北部は近鉄もJRも山裾を走り、山のかなりな高さまで住宅開発がされているが、柏原から高安辺りまでは電車道に遠くて、宅地開発はそれほどでもない。だから、その分、こういう山裾の古代遺跡が手付かずで残っているのであるが‥‥。(2018.4.28探検)

高安一帯の地形図
恩智黒谷を過ぎる辺りから生駒西麓は東側に<em>弓状<em>に湾曲する等間隔の等高線が八尾市境界玉祖神社辺りまで伸びる山裾から集落地域までなだらかな斜面をつくっているがこの一帯はまた高安千塚古墳群と呼ばれる横穴古墳の群集地でもあった

②俊徳丸の墓?

 さて、まず地元の神様、服部川八幡宮、祭神は誉田別命、つまり応神天皇、我が地元の誉田、宇佐、岩清水と同じ八幡さん、戦いの神さんだが、なぜこんなところに?と、玉垣を見ていくと、どこかで見覚えのある名前が……。「中谷作次郎」、ちょっと違うが中谷作治さんという高安の地元の方がおられ、新聞コレクションで有名だった。雑誌の取材でおじゃましたことがあり、ずんずん坂道を登って行った記憶があるが、この方は作治さんの親御さんだろうか、まだご存命だろうか?この神社も曰くありそうだが、先を急ぐので次へ。しばらく町中を山の方へ登っていくと、頑丈そうな土手が眼前に現れ、そこには大きなため池が横たわっているのであった。山からの水を一旦ここに溜め、徐々に抜き出し下の田畑を潤す、そういうため池の機能を見事に発揮する実に分かりやすい位置にあるのだが、これはため池の絶品だなあ。

この辺りではひときわ大きなため池。土曜の昼前、オープンした精肉店の宣伝飛行機が旋回していた。

 さらに上ると、坂の途中に標識があって、左「俊徳丸鏡塚古墳」とあり、細い道を行くと、単なる石垣かと見えたが、やっと本日最初の古墳との出合いであった。これからいくつもあろうが、横穴式石室を持つ6世紀の古墳だが、この付近に俊徳丸の生まれた長者屋敷があり、謡曲「弱法師」や浄瑠璃「摂州合邦辻」で有名になったことから、ここが俊徳丸の塚と伝えられてきた。ま、美しい誤解だとは思うが……。
 さらに家並みの間の細い道を行くと山との境地に佐麻多度(さまたど)神社があり、産土神とされるが、元はさらに山へ100mも登った扇状地にあったとされる。かなり古い、もちろん式内社であるが、木立に囲まれ、重心の低い均整のとれた社殿は美しい形をしている、ということが見えてくる。この美しさは、素通りでは見えてこない。座って腰を落ち着かせると、相手から見てちょうだいと言い寄って来てくれるのである。

③来迎寺墓地

 佐麻多度神社から左の山道に入ると立石峠ハイキングコースとなるが、右手のアスファルト道へ。この道に沿って高い壁を築いている大邸宅、また人里離れた別荘のように見える家もあるが、山を切り開いたものの途中であきらめた宅地開発地のような、空き地も多く、パラパラと住まいが建っているものの、空地も多く、中途半端を絵に描いたようなところがある。さらに山奥に「八尾農免農道」という、農業を免除された農道?というか、意味不明な道路が走っていて、その奥に、抜塚(大窪・山畑7号墳)があり、そこを抜けると来迎寺墓地が広がっている。抜塚というのは、墳墓だった土盛りの下の横穴式石室への入り口部分、羨道(ぜんどう)がぽっかり口を開けていて、人が優に通れて、抜けられることから名付けられた。石室はさらに大きかったのだろうが、なくなっている。この墓地が原因で住宅地が広がらなかった、という気がするが、八尾市街を一望できる眺望は素晴らしい。

来迎時墓地からは八尾市街が一望の元にある。

④高安千塚古墳群

高安千塚古墳群探検の軌跡
近鉄服部川駅から東方へ高安山西麓に横穴式石室を持つ円墳が群集している

 さて、これから高安山のふもと一帯、郡川・服部川・大窪の標高60〜180mの地域に群集する200を超える古墳群(周辺を含むと300基とも言われる)の探検が始まるのであります。 高安千塚古墳群は横穴石室の上に、径10~30m程度の円墳を築くもの、これが6世紀末終焉。平尾山千塚古墳群は、生駒山系の南端、大和川を見下ろす柏原の南斜面に1400も群集し、これが高安終焉の後7世紀にかけて増大する。この時期の政変で物部氏が曽我氏に滅ぼされたことに関係するとして、高安千塚古墳群は高安にあった河内の物部氏一族の墓だとした。その後の調査によりそれは違っていて、高安山裾の群集墳は、渡来系の葬送形式によるもので、3~4世代で一巡することにより、1世紀程度で終焉した。近つ飛鳥博博物館がある一須賀や崖地を掘り抜いた高井田の群集墓と同様、渡来人豪族たちの墓と見られる。
 これからぐいぐい山地に入っていくが、まだまだ未調査で放ったらかしの状態。今は鬱蒼とした樹木に囲まれ、墓の土盛りにも大木が立ち、視界が見通せず、墳墓であることを見分けるのも難しい。しかし、目が慣れてきてよく見ると、墳墓の周りは意外とブッシュがなく、それとわかってくる。そう見えてくると、なだらかな山裾全体にポコポコと土盛りが無数にあるように見受けられる。近づくと大きな石塊がゴロンと横たわり、さらに近づくと地中スレスレのところに口を開けており、そこが石室の入り口であることがわかる。山肌の自然地形を利用しながら、何重にも石垣を築いているところもある。これらの石垣は古代古墳造成時のもので、山崩れを防止するものと思われるが、そうだとすると、一山の山裾全体にわたって多くの墓を築くという、かなり大規模な造成計画に基づいていると思われるが、どうだろう?石室の上の土盛に立つ大木は、土の層が厚くないので倒れているものも多く、それが倒れ巨石がむき出しになり、石塊が落ち、それにより石積みが崩されていることも多い。さらに雨水により土が流されて、石室がきれいに剥き出しになり、容易に中に入れるものもある。土盛りの墳墓が、この1500年足らずの間にさまざまな現れ方をしており、山中をさまよいながら、それらと出くわし、その偶然の発見が実に楽しい。まだまだ手付かずの1500年を遡る遺跡がわんさと我が物にできるのである。たまりませんなぁ‥‥。

⑤松尾谷~神光寺

 高安千塚古墳群の内、最も数の多い「服部川支群」を探検してきたのだが、今まで何人も踏破はしているのだろうが、この山奥、人の手では如何ともしがたい。特徴あるものは調査もされ、名付けられてもいるが、手つかずで放っておくしかないものもあろう。奥深い山中の古墳探しもひと段落して、松尾谷に沿って下りていく。少しすると、山を切り開いただだっ広い神光寺墓地があり、その外れに石室が二つ繋がっているという二室塚(にしつづか)古墳がある。他に例がない横穴式石室だが、明治の初め、大阪の造幣寮のお雇い外国人、ウィリアム・ガウランドにより「双室ドルメン」としてイギリスで紹介されたくらい珍しい、という。また、この墓地には元々いくつも墳墓があったが、墓地の拡張により壊されたり、また墳丘が削られモヒカン状態の墳墓となったものもあり、哀れを誘う。その墓地の一画に懐徳堂や平野の含翠堂主ら、大坂の町人学者の墓が並ぶ区域もある。

神光寺は墓地のふもと、谷筋に立つ美しい寺で、医王山薬師院神光寺と称し曹洞宗系の禅寺だが、歴代の医者からの誉も高く、大阪市中からの参拝も多いのだろう、栄えている寺だ。そこへの道筋にも墳墓がいくつも散在しており、高安千塚古墳群の範囲にある。そして麓まで戻るが、神光寺と谷一つ隔てた法蔵寺へ行くには、谷をふもとまで下り、谷を渡り隣の尾根筋の道をまた登っていかなければならない。この谷筋に架かる橋がないので、いちいち麓まで降りなければならない。そういう不便な所だからこそ、墳墓がいくつも残っているのであろうが、まあ、しんどいことよ。

⑥法蔵寺・開山塚古墳

 さて、次は郡川という地域で、大覺山法蔵寺があり、土佐・長曾我部氏の子孫、好山和尚が建立したという。境内からの大阪の眺めは絶景で、ここに寺地を求めた理由がわかる。さらに奥の山中に開山好山和尚の墓、清涼塔があり、それは墳墓の西側を削り石積みで囲んだ塔を建てる祭壇が築かれている。全長14mもある両袖式横穴式石室を持つかなり大きな円墳で開山塚古墳(郡川1号墳)と言われるが、好山和尚の時には古代古墳と認識されていたのだろうか?その周辺にもいくつか墳墓があるというが見つけられなかった。

 ここまで来ると、高安山から降りて来るハイカーとも出会い、なんとなく里心も付いてくる。尾根道を下り麓の住宅地に入るが、谷筋を横切る狭い昔からの道を行くと、なんと山へ伸びる線路があるではないか。よく見ると普通の線路とはちょっと違っていて、線路に沿ってロープが伸びている。そうです、信貴山ロープウェイの線路だった。もう一息、これで信貴山まで行くか、とも思わないでもないが、今日のところは帰るとする。下りの坂道を一目散に歩くが、帰り道となるとなんだか気が抜けて、仕事中?はそんなに気づかなかったが、足が痛くなる。右足の膝の内側。ひきづるように、クタクタになりながら、近鉄高安駅まで歩くのでした。

 余談だが、高安の山裾には造園屋さんが多い。それらの庭石はどこから来たのだろうか、と推測するのだが、果たして古墳の石室の石を持ってきたのが始まりではなかろうか?史跡と認定される以前からの生業であるから罪とは言えないが、横穴式石室古墳が群集していた地域だったからこそ成り立った造園業ではなかろうか?今回の探検の始まり頃、山の入り口付近、ここにもいくつも墳墓があるのだが、クレーン車を入れて巨石を運び出す作業をしている人を見た。ひっそりと、何か盗掘っぽい感があって見るのもはばかれたが、まあ、冗談なんだが‥‥。

投稿者:

phk48176

古市古墳群まで自転車で10分、近つ飛鳥博物館まで車で15分という羽曳野市某所に住む古代史ファンです。博物館主催の展示、講演会、講座が私の考古学知識の源、それを足で確かめる探検が最大の楽しみ。大和、摂津、河内の歴史の舞台をあちこち訪ねてフェイスブックにアップします。それら書き散らしていたものを今回「生駒西麓」としてブブログにします。いろいろな意見をいただければ嬉しいです。

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(2)件のコメント

  1. ハタ

    素晴らしい記録です。とても勉強になりました。

    1. phk48176

      返事が大変遅くなりました。コメントありがとうございました。今後もよろしくお願します。

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