高安山―信貴山

①はじめに

 恩智や垣内、教興寺、黒谷、高安千塚古墳群のある高安といった各地を巡ってきたが、いずれも南北に尾根が伸びる高安山地の西の麓に点在する集落である。488mというさほど高くもない高安山であるが、というより高くはないからこそ人々が容易に利用することができた山ともいえる。しかしながら、高安山は古代より大和の防衛上とても重要な拠点であり続けたし、信貴山と一体になって霊場として、人々の精神的支えの場所でもあった。生駒西麓を探検する上から、高安山-信貴山を知ることは必要欠くべからずの山々であったが、なかなか上る機会がなかった。しかし、ケーブルカーを利用すれば、いとも簡単に上ることができるのであるが……。

高安山一帯の地図
高安山麓の集落の恩智、垣内、教興寺、黒谷、そして高安千塚古墳群。

 高安山へは、信貴山口駅からケーブルカーで登るつもりだが、近鉄信貴線に乗らず、敢えて手前の近鉄大阪線高安で降り、麓から歩いて信貴山口まで行こうというのである。東に向かって歩き出し、外環状線・旧170号線辺りから緩やかな坂が生駒西麓に向け伸びる。家々の甍越しにもう間際まで迫るように高安の山が見え出すその頃、見覚えのある山門が現れた。信貴山道の道標やお初徳兵衛の墓などがあったりしたあの町、寂れた寺として愕然としたあの教興寺の山門である。「ああ、そうか」と、今までパーツパーツで歩いてきた恩智や高安のいろんな集落とがつながり、これらと高安山との地理的な関係が理解できたのだった。ならば先を急ごうと歩き出すと、あの美しい石垣にも出会い、意満寺の今日のお言葉、元庄屋宅玄関にあった高札場、さらに権現社もあって、高安のおさらいをさっさと済ませ、あのケーブル駅、信貴山口まで住宅地の中を歩くのだった。(2019.5.3 探検)

②ケーブルカーに乗って

  40分に一本なので、ハイキング客、信貴山参拝客でほぼ満員になる。なめらかにケーブルカーは上っていく。見る見るうちに河内平野の街並みが遠ざかる。今日は霞んではいるが、泉州から六甲麓まで大阪の全体が見通せる。これは大阪側から攻めて来る敵軍を一望の元に把握できる最大の防衛拠点だったに違いない、と納得するのである。

ケーブルカーはゆっくりスタート。
見る見るうちに上昇していく。
頂上付近では八尾の市街が一望。

 ケーブルカー高安山駅の脇を通り、高安山をめざす。久しぶりの山登りで、トレッキング用シューズの紐を締め直し必死の覚悟で山道に付いたが、山歩きの人に追い抜かれるのは仕方がないが、ジョギングで追い抜かれるは、はたまた自転車で登るやつもいたりで、私のしんどさはなんなのさ、と我が脚力の無さに愕然とする。しばらくすると今まで麓からは何度もランドマーク的存在であったドーム屋根、高安山気象レーダーが目の前に現れた。西は広島、東は富士山麓まで、半径300kmをカバーする。台風シーズン、紀伊水道を来る台風進路予想などはこれにお世話になっているという。昔から「高安山レーダー」などと気安く呼んで親しみがあるが、近畿の気象観測にとってはかなり重要な働きをしているいるらしい。

アブに悩まされながら、自転車に追い抜かれながら上る。

③高安城倉庫跡

 それを越え少し下りになり、生駒山上へと続く峠道を外れ右に行くと、階段があり少し高くなる場所があり高安山?と思ったが、関電鉄塔の足が見えたので素通りした。そして信貴生駒スカイラインを越えると下りになり、左の脇道、「50m行くと 高安城倉庫址」の標識。エエ、高安山はどこ?もっと登らなあかんやろうに、と思いながら2号倉庫跡に着く。縦横4つずつ、16個の礎石、南北3間東西4間の広さに並ぶ。少し歩くと山端に3号倉庫跡、こちらも16個の礎石。発掘時にはその外側に掘立柱跡が18個あり、湿気除けのための深い庇を付けたためと推測している。記紀を始め古文書に記されていた幻の高安城だったが、昭和53年に市民グループ「高安城を探る会」がこれらの礎石を初めて発見し、その存在が実証されたのだった。私も「古代史を探検する」と標榜している限り、こんな貴重な発見をしたいものだが‥‥。

   さて、663年、白村江の戦いのこと、天智天皇は唐と新羅連合軍により攻められていた百済を防衛するため朝鮮半島へ進出しようとしたが、海戦になれない天智軍は大敗を期した。唐の威力に恐れ慄き、その後大陸軍からの侵攻に備え、各地に防衛の城を作った。昨年夏に行った対馬・金田城もそうだし、太宰府・大野城、讃岐・屋島城などを築き、この高安城は本拠地・大和を防衛する一大拠点だった。白村江の敗北という事件は、日本歴史上初めて外敵に侵略されるという恐怖感を体験した、まさに時代を画する祖国防衛の転換点だった。唐を中心とする世界意識とそれに支配されることの恐怖感覚が天智天皇の中にトラウマのように出来上がり、それに敏感に対応したのである。さらに都が大和では攻められやすく危険だとして近江へと遷都してしまう。672年の壬申の乱の時、高安城は近江軍の防衛拠点でもあったが、大海人皇子軍の攻めを見越し、城や食糧貯蔵倉庫などを焼き払い逃走、跡形もなくなった。
 今回訪れた倉庫跡で発掘された土師器の甕や杯、盤などは730年頃のものと一致していることから、平安期に本格的な城郭を備えた城、倉庫群が再建されと見られる。この3号倉庫跡からは、今日は霞んでいるが、生駒山上、矢田山、その彼方には若草山、大仏殿、右には信貴山が一望されるという。

3号倉庫址からの展望。北は生駒山上から平城京、南は藤原京まで見えたという。

④高安山~信貴山の情報伝達力

 次に信貴山に向かうべしで、倉庫跡説明板にある脇道を行くとずんずん下り、かすかに残る踏み跡を辿って行くと背丈まである草ムラに突してしまった。これはヤバイと気を取り戻し、地図を見ると、この道はどこにも描かれていない。信貴山への道は先程の標識まで戻り、元来た道を行くのが正しいことが確認できたのだが、またブッシュの道を上るのかと思うと気が遠くなる。「高安城跡付近で老人(男・67歳)の遺体を発見。ハイキングをしていたと見られる」の見出しで新聞に載ったらどないしょ!誰が発見してくれるの?獣に喰われ遺体など跡形ないのんちゃう?67歳てどうしてわかる?なんて想像して、ゾッとして一目散に駆け上がるのであった。

 まあ、一命を取り戻し信貴山への尾根道を下る。ウグイスの声があちこちで聞けて快適なハイキングコース。生きていて良かった。下りきったところが大門ダムサイトへの下山路と信貴山朝護孫子寺への登り道との分かれ道。信貴山上へとまた登ることになる。途中、松永屋敷跡という平らな地面が連続する場所があったが、杉木立に覆われて何もなく、家屋など今は見る影もない。山上には「信貴山城」の説明板があり、東西550m、南北700mにわたって120以上の郭を配した中世城郭。戦国期、木澤長政、松永久秀が築城入城し、大和を抑える本格的な山城とした。しかし、天正5年(1577)織田信長に背き、織田大軍の総攻撃を受け、50日間籠城したものの落城、その後、廃城となる、とあり、城の跡形なきよう徹底的に潰されたのだろう。

高安山⇄信貴山

 先程の高安山は松永久秀により信貴山城の出城とされたところでもあり、高安山と信貴山とは、大和と河内を結ぶ要衝地として一体的に捉えられていたのである。高安山と信貴山は直線距離が約1.1km、歩行距離は尾根道沿いほぼ南東方面に、私のGPSでは途中倉跡を見に行ったり、ブッシュの中を彷徨ったりしたので約3kmになっているが、実際には2km程度だろう。だから、大阪方面からの敵状を把握後全速力で信貴山城に伝えるとして15分以内には伝わるだろう。実際に高安山〜信貴山を歩いてみて直観するのは、高安山は大坂方の状況、信貴山は大和方の状況を見る拠点だった。そうやって機能的にエリア分けをしていたとみる。「敵が来たぞー」といった簡単な内容なら、指呼の距離で声を上げて伝達すれば、ものの2〜3分で情報は伝わるだろう。

高安山~信貴山関係地図
カシミール地図上の歩行軌跡。

 大正年間の初め頃は高安山に櫓を組み、その上から双眼鏡で大阪からの信号を見て、もう1人が手旗を振って大阪の米相場を大和の方に伝えていたという。そして今、高安山には気象レーダーが50年前から設置され、近畿の気象観測には欠かせないものとなっている。
 高安山は488m、信貴山は437mと決して高くはないが、高安山⇄信貴山の重要性は古代からずっと続くものだった。高安山は河内平野を一望できる物見櫓としては絶好の場所、平城京、さらに飛鳥をも見通せる信貴山は大和の把握、その間の尾根道を迅速に行き来することによって、大和、河内の間の情報伝達力は優れたものになる。この情報の行き来は、邪馬台国以前より「クニ」という意識が発生すると同時に認識されていたように思う。大和・河内の関係ができた古代から、すでに誰もが知る情報伝達路でもあったろう。

⑤信貴山朝護孫子寺

信貴山頂上にある空鉢護法堂には一願成就を願う参拝者がひっきりなしに訪れる。

 高安山からの道は、また信貴山詣での信仰の道でもあった。「信貴山の毘沙門さん」と呼ばれるが、右手に宝棒を持っているのは「心ある者には金銭財宝を意のままに授けて、商売繁盛させてやるぞ」、左手の宝塔は、「この中に充満する福を信ずる者の願いに任せて与えてやるとの福徳のお印」という意味がある、という。経済繁栄なしには幸福もない、という現世利益の神さん。寺院でありながら鳥居もあり、神仏一体の神さん仏さんであり、その現実性からか、京阪神一円にすごい人気がある。エエなぁ、大阪的で、野崎観音もそうやったし、石切さんもデンボが治るといい、生活そのもののちょっと向こう側に神さんがいたはる。朝護孫子寺の本堂下には真っ暗闇の胎内巡りのコースがあって人気だ。また、虚空菩薩堂前の水屋で水を汲み延々階段を登り信貴山頂上にある空鉢護法堂にお供えする、そんなひと汗をかく「苦行」をすることでご利益があると確信できそう。50年間も水を汲んでお供えした、という功労碑を建てていただいた方もおられる。ここはここで、特有の信仰空間がある。

玉蔵院の日本一大地蔵から境内を一巡見まわす。
本堂の舞台から王寺から平城京辺りまで一望できる。

 起源を聖徳太子が物部守屋を討伐せんとした時、天空彼方から毘沙門天が現れ必勝の秘法を授かったこととし、6世紀末としているが、物部を悪もんにしているのが気に入らない。実際には、平安期、「信貴山縁起絵巻」が描かれたた頃から実質的に繁盛し、聖徳太子の関わる起源は後付けだと思う。大阪側からは見えないが、大和側からは三角山の形がはっきり見えて、いつも信貴山を意識できる、そういう大和の守り神でもあるのだろう。帰りは、王寺までバスで行きJR大和路線に乗ることにしたが、王寺辺りから見る信貴山はなだらかな里山っぽい様子の中で一際目立つ三角山の山容をしていて美しかった。

 

投稿者:

phk48176

古市古墳群まで自転車で10分、近つ飛鳥博物館まで車で15分という羽曳野市某所に住む古代史ファンです。博物館主催の展示、講演会、講座が私の考古学知識の源、それを足で確かめる探検が最大の楽しみ。大和、摂津、河内の歴史の舞台をあちこち訪ねてフェイスブックにアップします。それら書き散らしていたものを今回「生駒西麓」としてブブログにします。いろいろな意見をいただければ嬉しいです。

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