⑧葛城・南郷遺跡群・・・イメージ探訪

 今までの古代遺跡巡りでは現物として何らかの史跡が存在していたが、今回は1カ所以外何ら遺跡そのもの、石碑、祠や寺院、それに説明板すらない、そんなところを歩くのである。頼るは、『葛城の王都』(坂靖・青柳泰介著<新泉社>)と発掘調査時の地図をもとにグーグル空撮地図に落としたお手製の遺跡推定図。いろいろ資料、地図も準備したが、現場ではこれが一番役に立った。今回の探検を正確に表現するなら、南郷遺跡群(跡)を訪ねるということになるのであるが・・・・・・。

葛城の王都新泉社
葛城の王都新泉社とお手製のグーグル空撮遺跡マップ

圃場整備事業

 南郷遺跡群は2000年前後、小さな区画の棚田や段々畑を統合して大区画にする奈良県圃場整備事業において発掘され、次々と古墳時代期の工房、住居、館、祭事場、それらにまつわるさまざまな遺物が発見された。大きな都市的遺跡として考古学的な大発見だと注目されたが、調査と記録がされた後全て埋め戻された。入り組んだ田畑がスッキリとした大規模な田になり、水路整備もされ水田面積が飛躍的に増えた。それはそれで結構なのだが、史跡としては何ら残さなかった。 

南郷遺跡群エリア地図
探検の軌跡カシミール地図の上に各遺跡場所を想定してマッピングした

 手がかりが何にもないところでは想像力を総動員して、何かのきっかけを見つけて古代の姿のイメージをつくっていかなければならない。ずいぶんあちこち歩いたが、手がかり全くなし、そこには田園風景があるだけだった。金剛の山裾を幾つかに区切る川筋、麓からは高台を眺め、高台からは裾野を見渡す、坂の上り下りを何十回と繰り返している中でいくつかのヒントもあった。金剛の雄大な山容から山裾に広がる田園風景に包まれて、思索を重ねる楽しい遺跡の跡?を探検する旅でもあった。

名柄遺跡

 近鉄御所駅から奈良交通バスで室戸橋、室宮山古墳に行く時の最寄りバス停だが、そこから山の方、つまり名柄の方へ向かう。今日は竹内峠越えする国道166号線に沿って登って行く。葛城山と金剛山の重なるところ、古代人は蜻蛉(あきつ)が交尾する姿と見て、ここから東方を秋津洲(あきつしま)と名付けた。この166号線の周辺に、室宮山古墳に眠る首長を含めた葛城一族の居館があったと言い、その一部が名柄小学校校庭に復元されているらしい。まずはその小学校をめざし、南へ、名柄の町中に入る。運動場では子どもたちが親の指導で野球をしている。その脇を過ぎ、少し高台に行くと、居館の周りにあった堀端の石垣が再現されている。居館自体はどこにどうあったかまではわからないが、かなり広範囲を占めていたであろう。西側の高台だから東方の名柄一帯、室宮山古墳自体も視野の中にあったろう。

 正門から出るとそこは葛城古道の街道筋で、今まで何回か歩いているところだ。何軒か屋敷がなくなり更地になっているが、空き地の奥まったところ、そんなところに地蔵さんがあるなんて妙だな、と立ち止まって見ていた。隣家のおばあさんが洗い物をしていたので声を掛けると、あの大邸宅ももう誰も住んでなくて、欅の大木が家を傾かせかけている、などと話してくれる。金剛の吹おろしで寒いでしょうと言うと、新潟出身でこんな山奥にお嫁に来たけど、新潟と比べたら大したことはない、冬は雪かきが大変でしょうという問いに、昔はそんなに雪かきなんかしなかった、2階から出入りしていたし、雪の中の方が温いんですよ、とか土地の話をいろいろしてくれる。色の白いさっぱりした方で、大阪人のようなねちっこさがない。文化、風土、人間性の違いを見たような、そう言えば、新潟出身の人とこういう風に話したことが今までなかったなぁ。

谷を越え南郷遺跡群へ

南郷遺跡群の想定場所
グーグル空撮マップに落とした南郷遺跡群北側から見たの想定場所

 そんなことはともかく先を急ぐ。古道に入り、故・堺屋太一氏の生家を行き過ぎて、昔ながらの街並みを下ると谷筋になるのか、葛城川の支流・百々川が流れる。今回のガイドブック「葛城の王都」の地図では、この川から南側一帯に南郷遺跡群の各遺跡が点在するのだが、何の表示もない。しばらく行くと御所市立葛上中学校があり、校舎の北側の道は金剛の山麓に続く緩やかな坂になっている。地図で見ると学校を見下ろす坂の上に佐田クノキ遺跡が広がっている。鋳造鉄斧が発掘されたが、これは朝鮮半島では多量に出土しているものの日本では例が稀で、農具ではなく祭り事に使用されたかどうか、というところ。道は左に曲がりまだ坂が続くが、クノキ遺跡の上方に井戸キトラ遺跡が位置している。そこを通り過ぎると正面によく茂った高木の塊、村の鎮守様の風情があり、入ってみるとまさに高木神社だった。小さいがよく手入れされていて氏子の慈しみが感じられる。

金剛の麓に広がる遺跡、キトラ遺跡とクノ木遺跡。

 一休みして出ると、何か空を舞うものが‥‥。飛蚊症がまた始まったかと自分の眼を疑ったが、確かに何かの物体が空を舞っているのだ。古代人もびっくり!エーッ、エンジン付きのハンググライダーが次々やって来て 、旋回しながら北の方の台地状のところに降りていく。金剛山の中腹辺りから飛び立つのだろうか?

倉庫群の井戸大田台遺跡

百々川水路から井戸池田遺跡を見渡す。

 井戸という集落を通る坂道を上がると交差路に差し掛かる。名柄からの葛城古道と交わる辻で、西北隅の木立の下にお地蔵さんが祭られている。山の方への上り道、井戸と南郷の境界を行くことに・・・・・・。先ほどの百々川の上流を渡ると、坂に沿って田が広がるが、そこが井戸池田遺跡である。その上を県道30号・山麓線が走っていて、地図には更に上に遺跡が記されている。それが井戸大田台遺跡で、標高220mから240mの標高差20m、水平距離が180mくらいだから11%の勾配、かなり急な斜面に立地してる。今は数段の大規模な田んぼが造成されていて、最上部のところまで森林が迫っている。

渡来人親方が居住したと言い、最上部に広がるのが井戸大田台遺跡だった。

 古代には一帯に樹木が生えていて、急峻な山肌を人が住めるように開墾したのだろう。ここにがあり、5〜6世紀、渡来人の親方層が住居としていた石垣基壇を持つ立派な大壁建物が建ち、さらに一辺9mの大規模な総柱構造の掘立柱建物が3棟南北に並んでいた。床のある建物で倉庫として使われ、塩や鉄を蓄え交易センターとしての役割があったのではないか、と考えられている。室宮山古墳はこの地を治めた王の墳墓だが、小形の円墳が集まる巨勢山古墳群は、このような渡来人の親方層の古墳だったとされる。

南郷角田遺跡

 その南側の下方、山麓線の東側に広がる遺跡が南郷角田(かどた)遺跡で、南郷遺跡群発掘の当初に見つかった。武器を中心とする特殊工房、さまざまな装飾品や容器・道具を作っていた複合的生産工房とされる。例えば、製塩土器、琥珀製勾玉、ガラス、鹿角製遺物、須恵器、小鉄片(鍛造剥片)、甲冑、鉄製品(鋲どめ、釘状などの武器・武具)、金、銀滴、銅滴、小玉、管玉、滑石製小玉など多様な物が出ている。山麓線に沿って、続きの南側に南郷生家遺跡がある。 

 道路から外れるとトンネル栽培の畑があり、私よりも若く働き盛りの中年のおじさんがいた。ここは南郷遺跡群と言うんですね、と尋ねると、もう20年も前やろか、かなり長いことかかって、調査が遅れてるとのことで地元の人も発掘に駆り出されたとか、ちょっと下の田の端の角にハカナベ古墳があって…とか、思い出すまま話してくれた。ハカナベ古墳は一辺20mの方墳で石舞台古墳と同形式の貼り石が巡らされていることから、7世紀にはこの地は蘇我氏の影響下にあったと推測される。その古墳らしきところには蔓性の果樹が植えられているが、遺跡らしいものは何もなかった。

ハカナベ遺跡を眺め渡す。

 少し降り、北へ行ったところ、先の角田遺跡の下側になるが、石垣の基壇を持つ大壁建物が発掘調査当初に見つかった南郷柳原遺跡がある。大壁建物は5世紀前半のもので日本最古と考えられ、渡来人の親方層の住まいと見られる。周辺に土器や鍛治関連遺物が多数見つかり、また、その下の竪穴住居の周辺ではふいご羽口や鉄滓などの遺物も出土しており、鉄器生産が行われていたとみられる。

南郷柳原遺跡を眺め渡す。

山地と平地

 古墳時代の古代には急斜面の山地に農地を開拓することはなかったであろう。まして水田は秋津洲と呼ばれる平地にはあったが、山地にはなかっただろう。時代が降って耕作道具や灌漑技術が整ってきた頃に初めて、山間部でも小規模の段々畑とか棚田と呼ばれる水田を開拓できたであろう。そして、古代遺跡などとはつゆ知らず、あちこちから掘り出した敷石などは石垣にしたり、元の水路を付け替えたり、さまざまな改変をしてきただろう。一言主神社付近の森脇地区では高地の所以、今でも狭いながらも棚田のような田んぼがいくつもある。そんな棚田が最近まで山裾に並んでいたのだが、2000年を境に大規模圃場へと整備されていった。そのおかげで南郷遺跡群が発見されたのではあるが‥‥。

極楽寺ヒビキ遺跡へ

 今回最も訪れたいと思っていた場所は極楽寺ヒビキ遺跡であった。ヒビキ遺跡には東~南側の開けたところから2度ほどチャレンジしたものの入り口が見つからず断念していた。御所市役所文化財課にも聞き、グーグルの空撮マップでも確認しており、今までとは違うコース、南側の山裾上方からアプローチすることにした。

 南郷遺跡群のほぼ中間、南郷柳原・ハナカベ遺跡を通る道を南へ、南郷集落内の住吉神社の裏側に回り、葛城川の支流・天満川の谷筋を下る。以前にも通った道だが、谷筋を橋があるところまで降り、そこを渡り、山裾に広がる整備圃場をほぼ登り切ったところから田畑の間を抜ける道を見つけることになる。この山裾を登る道の彼方に金剛山がどっしり構えていて、刈り取られた棚田に西陽が差し、逆光の美しい雄大な景色に出合える。何回来ても気持ちが良いので、坂の畦道を登るのも苦にならない。

 かなり登ってもう一息で山麓線というところまで行くと田んぼの中に一軒家があり、そこからまだ上へ行く小道を選ぶ。今まではその道を無視していたのが失敗の原因だった。田畑の間を北方に行くと、竹藪に囲まれたかなり広い一画が目に入ってくる。あれだ⁉、やっとヒビキ遺跡に行き着けると思えば、胸の高まりさえ感じる。

四たびのヒビキ遺跡

 しかしながら、後日再度調べると、本当はここではなかった。ぬか喜びとはこのことで、まだ途中のところ、この下側を行くと竹薮の中に道が通り、さらに奥に開けたところがあるのだ。本日(12月5日)、四たびになるか、やっと念願の極楽寺ヒビキ遺跡に到達できたのだった。感無量!

 四方竹林や樹木林に囲まれているが、それらがなかったら実に見晴らしの良い高台だし、金剛の山稜も迫る雄大な景観の中にある。面積6000㎡、ほぼ60m 100mといったところか、こじんまりとした広さだ。2004〜5年に発掘された敷地西側に、堀と塀で区画された2000㎡の敷地があり、その西側に面積220㎡、67坪で5間×5間の大型掘立柱建物である高殿(楼閣)があったとされる。高殿東に広場、南から堀に渡された橋を通って入る構造になっていたという。王が高殿に登り南郷の領地、さらに奈良盆地をも眺め国見をしたであろうし、遠方からの客を迎えたり、儀式や祭り事を執り行ったと考えられる。焼け跡が残ることから、葛城円大臣が雄略帝に滅ぼされた時のものかとも推測される。

水の儀式の南郷大東遺跡

 もう一つ是非見たいと思っていたのが、水の儀式を執り行った場所とされる南郷大東遺跡で、ヒビキ遺跡のほぼ真下の位置にある。ヒビキ遺跡の北側は急斜面になっている崖下を天満川が流れているが、その途中の一部を堰き止め、水を引き下流部に導水施設を作ったと考えられる。発掘当時の写真を見ていると、木樋を何本もつなぎ、儀式を行う覆屋に緩やかな流れの水を導いてきたように見え、何か厳かな雰囲気を醸し出している。古代には、水祭りの儀式は重要だったようで、飛鳥の酒船石遺跡や最近また発掘された天武朝の飛鳥京苑池などがよく知られているように、権力者の管理の元で存在した。この導水施設は埴輪にもなっていて、応神天皇陵の陪塚、狼塚古墳にも埋まっていた。それほど水祭りは重要とされていたが、水はあらゆる生物の生命の源であることは認識されていただろうが、王がこの儀式を執り行うことにそれ以上の意味があったに違いない。水の管理は、水田から稲を採るという生産、つまり水は経済、繁栄の源泉だったし、権力維持・強化の源でもあったからであろう。

 とはいうものの、遺跡を示すものは何もない。大きな区画の田畑があるばかりで、水の祭祀場などがあったとは考えられない。北側に雑木が続く川筋と西方に金剛の山並み、その麓にこんもりとした林がある。全体の風景の位置関係を想像すると、その林が高殿がそびえていたであろうヒビキ遺跡だと気づいた。金剛山からの雄大な風景を前にしてしばらく佇んでいると、王が国見をする高殿を遠望し、川からの水が絶えず清々と流れていたであろう神聖な空間のロケーションが浮かび上がってくるような気がした。

高殿のあったヒビキ遺跡から見下ろせる位置にあった導水施設(大東遺跡)。

南郷遺跡群とは

 南郷遺跡群の北端から南端まで歩き、見るべきものはほぼ見た?感じだが、ついに遺跡の現物にはなんら出合わなかった。この山裾を下りバス停へ向かおうとするが、4時37分のバスまで30分しかないので写真を撮るだけにして、中央部から東寄りの遺跡を回った。

南郷遺跡群全景
極楽寺ヒビキ遺跡南方から見た南郷遺跡群全景

 天満川を北に越えたところに広がる圃場の中に南郷安田・岩下が隣り合わせに、さらにその上方に南郷生ノ坪の各遺跡があるが、かすめながら歩く。大型竪穴住居があり他とは孤立した環境にあった南郷千部遺跡、親方層の屋敷が確認された井戸井柄、竪穴住居や掘立柱建物がたくさん見つかった生産拠点で、鉄器やガラス生産の佐田柚ノ木遺跡、玉や鉄器生産の下茶屋カマ田遺跡など、立ち止まっては写真を撮りながら進む。カマ田遺跡は、葛城探検で何回か通ったことのある小殿の集落にあり、今まで見ているはずだった。集落内の道を駆け足で下り、24号線沿いの奈良交通「小殿」バス停にたどり着く。もうすでに陽は金剛の山端に入りかけている。この時刻、夏にはまだギラギラ太陽が輝いていたのだが・・・。

 今日一日かけて南郷遺跡群を見て回ったことになるが、ただただ田畑が広がっ ているだけで、私は何を観てきたのだろうかと、バスを待ちながら無力感に陥っていた。ここは遺跡だということをどのように確かめればよいのか?地図上でその近くに来ていることは分かるが、写真には田畑と遠景の御所地域の山や平野が映っているだけだ。現場に立った時に自分自身の中で浮き上がる遺跡イメージを確認しているに過ぎないのかも知れない。まあ、なんと雲をつかむような話であるが、1日歩き回った後の体の疲れだけは確かな手応えとして伝わってくるのだった。(探検日:2021.11.14/12.5)

投稿者:

phk48176

古市古墳群まで自転車で10分、近つ飛鳥博物館まで車で15分という羽曳野市某所に住む古代史ファンです。博物館主催の展示、講演会、講座が私の考古学知識の源、それを足で確かめる探検が最大の楽しみ。大和、摂津、河内の歴史の舞台をあちこち訪ねてフェイスブックにアップします。それら書き散らしていたものを今回「生駒西麓」としてブブログにします。いろいろな意見をいただければ嬉しいです。

おすすめ

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です