新町井関に水が集まる。
石川取水口を見つける。時たま通る散歩コースの中に、幾つかの用水路が合流する貯水池があり、常に満々と水を湛えている。そこを通るたび、何故ここに水が集まるのだろうと、気にはなっていた。羽曳野市新町地区にあるのだが、昔から字(あざ)名で「井関」と呼ばれるところだ。井関とは人工的に川を作り堰を設け水を分配する役割がある、そういうところだろう。


ここから南へ用水路が続いているのは何とはなく知っていたが、どこから始まり、どこまで流れているかなんて考えたことがなかった。この堰は石川から流れてくる水を集め分配しているとするならば、大溝に流すためにあるのではないか。つまり、これは古市大溝そのものではないか、と気付いたわけである。この辺りに住まいして60年以上になるが、我が家の1kmも行かないところに古市大溝が通っていたなんて‥‥、さてさて古市大溝をさかのぼる探検の始まりであります。
新町から東阪田‥‥崖下標高36mを流れる。
新町の井関から南下、幅3mを超える用水路が続いているが、たっぷりの水を湛え井関に流れ込んでいる。旧の国道170号線の下を潜り、東阪田、そうだ、この正月に探検した庭鳥塚古墳の基壇下を湾曲しながら流れている。東阪田という地名は元は坂戸と言い、坂の戸口にあるという意味だが、この辺りから南、喜志・富田林方面へ丘陵部になる。つまり石川の河岸段丘なのだが、段丘の東縁に東阪田の集落が形成されている。近年、丘陵地が隈なく開発されて、段丘の崖下にも住宅地が広がっている。




古市大溝、つまり用水路は段丘の崖下、北側から東側の縁に沿って流れている。周辺は立て込んでいるので、遠回りしながらちょっとした空き地から水面を眺めることになる。用水路の片側は急崖でその縁に沿って伸びているが、これは水路として開削がなされたのであって、自然の川筋ではあり得ない。


私の住まいはこの河岸段丘の西端に位置するが、小さい頃からあまりこちらには来なかった。電車道があり、国道も走っているので何とはなしに縁遠かったが、石川へ泳ぎに行くときは東阪田の町中を通り、石川側の水守、これも堰を管理している場所のような地名だが、そこから急勾配の坂を一目散に降り、いかにも川端の地名の広瀬に出て堤防を越え河原へと行くのであった。


それはともかく、東阪田の標高は45mから50mもあり、水路に沿ったところの標高は大体36mくらいで一定している。水路の間際まで住宅が迫って近づけない所は、10m内外の標高差の高台まで一挙に登ったり、また降ったりしながら、できるだけ水路に近い所を歩くようにしている。高台でも昔は放ったらかしの崖地や田畑があったが、今はほとんど宅地になって、道が入り組んでいて、迷うことがしばしばだった。






木戸山から大深
富田林市立喜志小学校の北側の坂を降り、木戸山に入ると平地で、水路に沿って歩けた。水路は崖の縁から田んぼの中をカーブを描きながら東向きに行き、途中で広瀬へ流れる水路と合流する。さらに南へ向かうが、速い流れのような水音が聞こえてきたかなと思うと、そこは水門だった。南からの二つの水流が水門で調整され、また二つに分かれて北へ向けて流れていくのだった。




水門を越えて行くと、平行する二つの流れは大きく離れて別々の水路になっている。本流は、喜志町の字名・大深(おおけ)というところの崖下を流れるが、もう一方は東にカーブし木戸山町の石川岸の高台の下を流れる。原秀禎氏の「古代の古市大溝に関する地理学的研究」によれば、この高台をえぐるように氾濫川として石川の旧河道があったという。元々石川は余り氾濫せず旧河川と現在とは大きくは違わないと見られているが、ここには少し蛇行する旧河道であったらしい。


本流は緩やかに湾曲しながら、大深の崖下を流れる。ところ所に鉄棒が立っているのだが、よく見ると水路壁下方に穴が空けられていて、棒を操作すると蓋が開きそこから水が流れ込み周辺の田に配水されるようになっている。大溝の水路は、周辺の田畑を灌漑しながらも遠くまで水を流しているのだ。この辺りは水量は多く、速度も速いが、ずうっと標高36mを保っている。






石川の取水口は標高39m
本流は田畑を離れ、石川の堤道路に沿った幅広の用水路になるが、しばらく行くと、堤の下をトンネルで潜って石川の河原に入る。すぐに堰があり、石川本流と平行する側流がここに流れ込んでいる。つまり、ここが古市大溝の石川からの取水口ということになるのだ。




取水口の標高は39mで、ここから水を取り入れて、ほぼ36mの一定の標高が保たれている新町までの大溝に水を送り込む。どんどん水を取り入れ、3mほどの落差を利用して、一気に下流へ水を流して行く、そういう設計になっているのである。


数kmにわたり、わずかずつ傾斜をつけて水路をつけるのは、現実的には難しいだろう。かなり厳密な水準器があっても、そう簡単ではないだろう。それより同じ高さを維持して水路を伸ばして行く方が作りやすいだろう。恐らく、川上の取水口から水路を作っていく、少し作っては水を流して、流れることを確かめながら順々に作っていったに違いない。あるところでは掘りすぎたり、また底が高いところは掘り直し‥‥、そんなふうに仕事を進めているところを想像するのは楽しい。


元の水守まで帰ってきたが、同じ標高のところに水路を通し、そこより3m高い石川取水口から流れ落ちる水の勢いだけで遠くまで流す。そのためには一定の水量を安定的に供給する石川の豊富な水が欠かせない。近年の石川は、上流に滝畑ダムがあって、随分水量が少なくなったように思う。たまには洪水もあっただろうが、古代にはもっと水量があり、流れが安定していたのだろう。自然の水量を利用して、よく考えられた用水路だ。古代人は水の性質、流れの機能を知り抜いた上での土木技術力は想像以上に高いものがあったことがうかがえる。(探検日:2021.8.28)

さらに北へこの36m標高を維持して、古市古墳群の方まで絶え間なく水を流しているというのが古市大溝だが、次回に探検してみよう。