②新町〜白鳥陵〜古市大溝発掘現場跡~中ノ池

 古市大溝探検の2回目は、新町井関から北西方に当たるが、西浦地域の溝跡を探ることから始めよう。原秀禎先生の「古代の古市大溝に関する地理学的研究」掲載の地理図にも西浦での溝跡は曖昧な線で描かれているだけで、確証が持てる物証がなさそうだ。この地域は羽曳野丘陵から降りる幾筋もの谷川の扇状地が広がり、古墳時代以降も地形を変えてきているだろうし、田畑の開拓で大きく改変を受けているので、大溝も無傷ではないだろう。

古市大溝推定流路図
古市大溝新町~古市古墳群流路

水郷都市?新町

 古代の古市大溝そのものの跡はなかろうが、付け替えはされていると言えど、溝跡は残っている。根拠となるのが水の流れで、石川から新町へ流れてきた延長で、東から西、また南から北へと流れている溝が古市大溝の名残だということだ。それを導きにして田畑の中を縦横無尽に走る用水路を一本一本、行きつ戻りつ、調べることになってしまった。

西浦流路図

 新町の町中をしばらく行くと、水路が二手に分かれるところに行き着くが、西への水路の水の流れが曖昧というか、どちらに流れているのが判断がつかない。よく見るとちょろちょろだが、西から東、つまり反対に流れている。こちらではない。

 北に向かう水路沿いに行くと、一度道路で消えるが、その反対側にまた現れ、民家伝いに流れている。家側の水際を行くと大きな門の前に出た。水路の流れを写真に撮っていると、門からおばあさんが出てきた。「ああ、びっくりした!」と驚かれ、用水路のことなら主人が詳しいよ、とさっさとうちに入り、「お父さん」と何回も呼んでくれですいる。出てきたのは、何処かで見たような、話し出してしばらくして気づいたのだが、その目をクシャっとする癖は変わらない、小学校同級生の森田君だった。明治以降のこの辺りの水路の歴史、水利委員会の役割などいろいろ話してくれるが、1500年前のこととなると、そりゃわからないわな。この門前の水路で野菜を洗ったり簡単な洗濯もしたとか。

 清らかに流れる水路に沿ってさらに進むと、大きな家の前をカーブして流れ、正神神社前で曲がり西に向けて流れる。何回も散歩で通ったことがあるが、津和野や近江八幡などの水郷都市?のような趣があってなかなか良い。水路は畑の間に入って行き、右に左に曲がりして国道170号、外環状線にぶつかる。道路下の暗渠に入って外環状線をくぐる。道路西側に出てきて、道路沿いの新しい水路をしばらく行くが、これではないだろう。戻ってよく見ると、西向きに丸いトンネルの半分隠れたのがあり、そこを水が流れるのが見えた。西向きに流れる暗渠だが、これかどうか疑問だが、ともかく追ってみる。暗渠を抜けると、元通りの清らかな西向きの水路になっているではないか。へぇー、水路が続いてる!ちょっとした感動ものだ。

 その先は手入れの行き届いた水路で、一段高い畔の崖下に沿い、何度も直角に曲がりながら田畑の間を縫うように流れている。この辺りの標高は34m前後で一定していて、新町井関よりは少し低く、新町経由の石川の水をスムーズに流している。後に付け替えられているだろうが、石川からの水を流しているのは確かなことだ。

西浦

 さらに北方では、ほぼ33mの標高を保ちながら流れて、そのまま西浦の町中を通っている。田畑と同様に微高地の崖下が掘り下げられ、勢いを失わず流れる。ちょうど西浦の町の真ん中辺りで大きな段差をつけられ、水は直角に曲げられ、道路下の暗渠に勢いよく流れ込んでいる。後の世になり、ここで溝が付け替えられ、石川からの水は東へと流れを変えられた。

 これで大溝も終了か、もう跡を遡れないのかと愕然としたのだが、ぶらぶらと西浦の町中を北方へ歩いていると、何筋か東側に落ちる川筋を見つけた。その元を探ると、少し太めの溝が南北に通り、先ほど東へ付け替えられた大溝の分岐点に戻って来た。よく見ると、東へ曲げた分岐の反対側、西向きの溝を辿るとわずかな水はどちらに流れるとはなしに、その狭い範囲で低い方に流れているだけで、西向きとも東向きともいえない。ここはほぼ標高33mの同一地面で、分岐から勢いがある水が西に流れてきたら、当然西から北向きに流れるに違いない。以前は石川の水が、先ほどの分岐を経てこちらに流れてきていたに違いない。

大溝古市古墳群地図

古市古墳群を行く

 そのまま北へたどると、今度は外環状線を西から東に横切るようになる。この交差点から北側はきつい坂になっており、丘陵地に続く。この丘陵の上に古墳、清寧天皇陵が築かれているのだ。後円部外堤東側を外環状線が走り、南からの車は強くアクセルを踏み込んで坂を登らなければならない。古墳は丘陵地の上に造成され、大溝は古墳がのる丘陵地の南側崖下を流れることになる。清寧陵の東方には日本武尊白鳥陵があり、その南側の段丘崖下に沿って溝が続き、白鳥陵の後円部の外周を取り巻くように通っていたとみられる。そ溝は西浦から外環状線を越えて続いていたが、今はもう流れはなく、所々にある水溜まりは澱んでいた。途中から水路が曲げられ、少しばかりの水は南側の急坂に沿った溝を流れ下っている。

 白鳥陵の東側には溝跡などない。周辺の街並みの中のほとんどの道は真っ直ぐなのだが、一本だけ曲がりくねる道があった。恐らくこの道が元溝跡だったに違いない。そこを進むと、白鳥陵の後円部外堤の崖下に取り付くことになり、ゆっくり曲がる樹木が覆う道を行く。後円部を過ぎた頃に古墳外堤を離れ住宅地に入るが、今度は白鳥陵北側外堤の崖下に付いた溝を辿ることができる。その溝は途切れることなく外堤の周りに沿ってつけられている。両側から住宅が迫るわずかな間を行くことになる。前方部に近づくと、溝は外堤を離れ北側に大きく逸れて、近鉄古市駅に向かう白鳥通りを斜めに突っ切り、NTT西日本の敷地内に入って行く。そこから西隣のイズミヤの南縁を掠めながら西に進むが、わずかな幅といえども溝、つまり水の流れがあるのだった。

白鳥陵北側の外周路は竹ノ内街道で、自転車道にもなっている。

古市大溝発掘地

 NTT西日本からイズミヤの縁に沿って真っ直ぐ西に大溝が伸びているが、その先は有名な古市大溝の発掘現場だった所。この部分の大溝の幅は20m、深さが4mに及ぶものであったという。白鳥陵の外堤の周りの崖下からほぼ31mの標高を保ちながら人工的に開削したのが明確にわかる。大溝発掘後は更地にしてイズミヤの駐車場として利用されていた。大溝は西へ、そのまま外環状線にぶち当たり、柏羽藤消防署の北側の上田池、さらに北方の下田池につながる。これらの池は仁賢天皇陵の外濠に続くものであり、灌漑用ため池でもあった。

古市古墳群の古市大溝の経路図
古市古墳群の間を通る古市大溝の経路図

ため池をつなぐ大溝

羽曳野丘陵東縁崖下に沿って大溝が伸び、堺羽曳野線をくぐる。

 大溝は北向きに下田池の北側の田畑の中を真っ直ぐ進む。堺羽曳野線を突っ切り、西側、羽曳野丘陵の東端段丘下に沿い野々上地区に入る。今は住宅が立て込んでいるが、周りとは隔絶するように一段高い堤が築かれているのが中の池である。上空から見ると南から西へ「へ」の字のように曲がった形をしているのだが、これが大溝の曲がり角でもあるのだ。西へ古市大溝の堀川が伸び、北への溝跡もあるが、それは仲哀天皇陵外濠へとつながる。また東方の田畑にも灌漑水を送る、というように周辺地域に水を供給する要のため池だった。この池の所属をめぐり昔より水争いが絶えなかったという。

 ここから古市大溝探検の重要な局面に入るのだが、家から歩いてここまで来て12km、迷い道も多くすっかり疲れてしまった。また5kmも歩いて帰らなければならないのかと思うとゾーッとする。脚の付け根、股関節も痛くなりだし、気力もなくなってしまった。奈良や和歌山の山奥なら諦めもつくのだが、この辺りは見知ったご近所さんということで、奥方に迎えにきていただこう、と連絡すると「アホちゃう!」と罵られながもOKをいただいた。ありがたいことです。後半は後日に、乞うご期待を。

投稿者:

phk48176

古市古墳群まで自転車で10分、近つ飛鳥博物館まで車で15分という羽曳野市某所に住む古代史ファンです。博物館主催の展示、講演会、講座が私の考古学知識の源、それを足で確かめる探検が最大の楽しみ。大和、摂津、河内の歴史の舞台をあちこち訪ねてフェイスブックにアップします。それら書き散らしていたものを今回「生駒西麓」としてブブログにします。いろいろな意見をいただければ嬉しいです。

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