星田駅周辺はJR学研都市線を挟んで西側と東側では全く違う町になりそうだ。50年前なら住宅もスーパーもある西側が断然人気だったろうが、現代ではどうか?私は、古街道もあり優しいウエイトレスもいる東側のオールドタウンが断然良い。
地蔵さんや石灯籠、昔ながらの屋敷がある、そんな古街道のある古い町からスタートする。
地元に愛されている街道
駅前を過ぎると道が二手に分かれるが、右手のゆるりと曲がる方を選ぶ。JR線に沿いながら、まだ田畑も残る住宅地を進むが、寝屋川市との境界でもあるタチ川という小川を渡ると石灯籠と弘法大師が祀られる大師祠がある。さらに大きな屋敷が続く町中に入ると大谷地蔵もあり、この街道は昔から大事にされてきたことが見て取れる。古い町並みの中をゆっくり歩くが、それも束の間、また寝屋川市方面に向かう自動車道に出くわす。道路沿いの歩道をしばらく行くと、今度は左に曲がり山の方へ向かう道に入る。山裾にある星田ゴルフセンターの手前を右折、打上の町に入って行く。
弘法大師の事績が多い街道
家の表を通ったり裏に出たり、坂道をクネクネしながら降りてくると幹線道路が見え、その手前にお大師さん縁の弘法井戸があった。気に留めなかったが、今までいくつかお大師さんの事績があったのを思い出す。よく考えると、高野山への道だから開祖の弘法大師の事績が多いのは当たり前だな、と初めて気づく。
道路を越えまた町中の街道筋を行き、「東 ならいせ」と書いた道標のある四ツ辻で右に曲がる。この辺りは打上の微高地で、讃良川の谷川が丘陵地を切って流れ、忍ケ岡辺りで扇状地を作っているという地形だが、JR線はその谷筋を切り拓いて敷かれている。そんなことで寝屋川市駅のホームは地下にあり、街道はホームの上に架かる橋を渡ることになる。
打上古墳群
東高野街道はJR線の北側、少し高台の打上宮前町、高倉などの町中を通るが、割と広い道路になっている。明和小学校前の広場には大きな石が無造作に積まれていて、打上古墳群とある。この辺りに「打上八十塚」と呼ばれるくらい多くの古墳があったようで、そこから掘り出された石が集められている。
3年ほど前に訪れたことがあるが、JR線の谷を挟んで東側の丘陵部に7世紀後半の石宝殿(いしのほうでん)古墳があり、横口石槨を持つが土を被せない巨石で構成された珍しい墳墓だった。標高100m辺りにある単独墳で、標高50mで横穴石室の群集墓である打上八十塚を見通せる位置にあり、この地域を治めた有力者の墳墓と見られている。後ほど訪れる忍ヶ丘の牧場とも関連して、古代から開発されていた地域だったようだ。
道なりに行くと、二股に別れるところに大きな石を積んだ二月堂灯籠がある。ここからは細いが柔らかく曲がる左の道を選ぶ。下り道で住宅の際を通ることになる。道端に地蔵堂もあり、この方向で間違いなさそうだが、大きな屋敷前でまた道が別れる。今度は讃良川伝いに行くことになり、しばらくして四條畷市域に入る。
今はパイパスとしての国道163号線が通るが、元は清滝街道であり、朝鮮半島から難波津を経て、河内湖最北岸の篰屋辺りに上陸し、生駒山地を越え大和へ、さらに木津川とも連絡していた。篰屋北遺跡は馬の飼育をした大牧場の跡があって、ここで繁殖させ調教もされた馬が全国に配送されたという。5〜6世紀、古市古墳群が築造されていた時期、その周辺の河内地域で全国的な流通を前提に鉄器、陶器などの大規模な生産拠点があって、馬もその一つで四條畷が一大拠点だったという。四条畷の重要性を意識しながらさらに南に向かおう。
蜻蛉池公園からスタート
忍ヶ丘駅を越えると街道は町中に入り、狭い区画の中にロータリーや細街路が入り組み、どこを歩いているのか道を見失う。グーグル・マップを片手に探していると、駅前の小さな公園の縁に沿って古道が見つかる。蜻蛉池公園とあり、西縁の道は古道の面持ちがある。さらに住宅地の中の起伏のあるクネクネ曲がる道を古道と見当を付け進む。清滝川分水の岡部川に架かる橋を渡り、右に行き次の角を左にというふうに適当に曲がっていくと、四条畷市民総合センターまで来た。正確に街道を歩けたかわからないが、このセンター前を通り、清滝川を渡るとところが清滝街道と東高野街道との交差点で、ここを右に、清滝街道を少し遡ることになる。
旧街道を大事にする四條畷市
四條畷市内も開発のかなり激しいところだが、東高野街道、清滝街道など古道は大事にしており、看板に街道の歴史や旧道・新道の別も表示した詳しい地図を載せている。そんな気持ちが表れているのか、東高野街道が国道163号線の高架に突き当たる所をトンネルにして、街道を途切らせることなく歩いて行けるようにしている。簡単そうに見えるが、これを実現するにはかなりの知恵者がいたに違いない。
街道はそのままクネクネと住宅街に入り、いかにも古道の雰囲気を残しながら市立歴史民俗資料館の前を通る。昔の蔵風な外観をした博物館で、今まで2回来ているがまだ中に入っていない。以前はコロナで閉鎖されており、今回は入館締め切り間際だったので諦めたが、この館の学芸員さんあたりがかなり頑張っているのかもしれない。
街道は旧国道170号線を行く
さらに街道は続き、少し行くと左折して旧の国道170号線に合流する。これからは私の自宅近辺も通り河内長野まで、ほぼ170号線と並行するように南へ進む。歩道もない道端を車に轢かれないように恐々歩くのだ。以前の生駒西麓探検の時に訪れたが、四條畷神社から小楠公御墓所までまっすぐ東西に伸びる参道がある。そこを横切ることになるのだが、交差点に立って神社側、また反対の墓所側を眺めると、思いの外狭い道だなと感じる。170号線もそれほど広くないものの、京阪バスも近鉄バスも乗り入れている路線で、かなりの交通量がある。現代の都市計画的なまちづくりから言って、窮屈な町のように見える。
三好長慶の飯盛山城
歩道線もないような道端を歩くことになるが、すぐそこに迫る生駒山地飯盛山の山塊が夕陽に照らされ美しい。この夕景に励まされるように重い足を前に進めるのだった。
500mも行くと国道から逸れるようには左側に道が分かれる。こちらが東高野街道で、ここに入ればもう車に追いかけられることはない。保育園の迎えや帰宅の高校生などが家路を急いでいて、ごくありふれた日常風景を前に安心するのだった。さらに生駒山地が迫り、山裾を歩いているように感じた頃、野崎観音が間近になっていた。大東市に入っており、野崎まいり公園なるものが街道側にある。昨年は三好長慶の生誕500年ということで、地元は盛り上がっていた。長慶は室町幕府を崩壊させ、信長が登場する以前の1550年代にすでに武家政権を樹立したのだが、その拠点が飯盛山城だった。飯盛山に登れば納得することだが、京、摂津、河内、さらに泉州が一望の元にあり、大和とも一山越えればすぐだし、天下を統一するのに相応しい交通の要衝を抑えていた。織田信長に隠れ三好長慶のことはあまり知られていないのだが、街道沿いの河内には彼の業績地が多く、一度調べてみたいとは思っている。
野崎観音の参道に入る頃には、周りも暗くなっていた。毎年5月の連休には野崎参りで人が押し寄せ、参道商店街に屋台やワゴンが並び、歩くのも難儀なほどの人出になるのだが、今はひっそりしている。JR野崎駅まで歩き、すぐに来た京橋行きに飛び乗り一息つく。今日も遅くまでご苦労さま、と自分を慰めるのであった。(探検日:2023.1.12)