生駒西麓を南に向かう
JR学研都市線に乗っていると、放出から徳庵、鴻池新田、住道、野崎と昔からの地名が次々と現れる。これらは寝屋川を屋形船で野崎詣りに行くときの地名だし、片町線と呼ばれていた国鉄の旧路線の面影が偲ばれるのである。野崎駅で降り、参道商店街を通り抜ける。国道を越えたその先、野崎観音へ登る道と直交するのが東高野街道だ。これからは瓢箪山まで、生駒西麓を南に向かう。それはまた、古代に存在した河内湖の水際を歩くことになるのである。
野崎観音からスタート
今日も暖かく良い天気になるというが、ここからスタートする。車も通るクネクネしながら伸びる道を行くことになる。南方に向かって歩くので絶えず逆光気味で、道路が白く輝くように見える。住宅が並ぶ生活道路なので子どもを乗せた自転車、夫婦揃ってのウォーキング、親子が手を繋ぐファミリーなど、皆さん思い思いに歩かれている。東側には生駒山地の山塊が目前に迫り、傾斜地に住宅がへばりつくように建っている。山裾からの坂道は西へとダラダラと降っていく。
河内湖の景観
河内湖は古墳時代初期までは水を湛え、奈良時代頃には湿地化していたと見られるが、まだ陸地ではなく、その東側の水際線に沿って東高野街道が通っていた。そんな古代には、東に生駒の山塊を見、西には河内湖が広がり、彼方に上町台地の丘陵が見渡せるという大パノラマが展開していたに違いない。
河内湖の広がりをイメージできる見通しの良いところはないかと探してみるが、ほとんどビルやマンション、住宅で埋め尽くされている。ほんのわずかに工事中の空き地や田畑を見ることはあるが、彼方までの展望が叶わない。そんな現代風景の中、何かしら古い町並みのある古道の情緒はないかと探しながら歩くのだった。
堂山古墳群
まだ野崎観音の近くでは山側に寺院の甍、道筋には蔵や昔ながらの家も見えていたが、だんだん進むとマンションや新建材住宅、田畑の間に棟続きアパートなどが見え隠れする。そんな家並みの後ろの山並みの中に、ポッカリとお椀を伏せたような小山が浮かんでいる。古墳然としているが、これが堂山古墳群の中の一つだろう。堂山1号墳は古市古墳群と同時期で、鉄甲冑や初期の須恵器が発掘されており、渡来人を統率した人物が眠るとされる。このことは近つ飛鳥博物館の堂山古墳群展で知ったのだが、実際の古墳を見て見たいと思っていて、今日はちょうど良い、古墳近くに行かなくとも何か見たような気になる。
七堂伽藍跡にポケットパーク
寺川という地域に入ったが、山からの渓流と街道の交差点にちょっとした広場があり、休憩する。最近は足腰が弱ってきたのか長時間歩けなくて、イスやベンチがあれば必ず腰を掛ける。ここはちょうど良い休憩所で、休みながら広場の説明書を読んでみる。寺川の氾濫を防止するため上流で保全工事がされ、その完成記念に、行基上人が七堂伽藍を建てたというこの地に砂防広場と地蔵広場として設置されたことがわかった。生駒山地は元々霊地で、山中・山裾にはいくつも霊場があり、野崎観音や先ほどの堂山古墳群も含め歴史文化の豊かな場所柄、そのことを格調高く文章にされている。土地土地に賢い人がおられるものだ。
古い家が建ち並び、クネクネと曲がる細い道があり、いかにも街道筋と言えるところにやって来た。一歩奥には新興住宅地も広がっていて、旧村とうまく共存している様子に見える。
街道は旧170号線を行く
気分よく歩いていたのだが、それも長くは続かず、生駒山越えの阪奈道路で分断される。旧国道170号線の寺川交差点も近くにあり、信号が青に変われば車は一斉にスタートし、猛スピードで生駒を目指して走り去るのだった。
東高野街道は阪奈道路を越えてしばらくは街道らしいのんびりした雰囲気があるが、150mほどで車の往来激しい170号線に合流してしまう。大阪産業大学を過ぎると200m四方はあろうか、大敷地に鉄塔が林立する関西電力東大阪変電所が見える。ここがミサイル攻撃されたら大阪府内全域が停電するのだろうか、と余計なことを考えたりもする。中垣内の交差点を挟んで斜向かいにあるのが象印マホービンの工場、一流企業だけあってきれいに整備されていて清潔感がある。
神武東征の激戦地・日下
工事予定の空き地前に善根寺春日神社の石鳥居があり、その袂に盾津濱の碑が立つ。神武東征で大阪湾から河内湖に入り初めて上陸し、盾を下ろして戦ったところから盾津と呼ばれた。東高野街道が水際を通る証拠のように「濱」と書いた石碑が立つのである。
神武天皇は、大和を領地とする長髄彦に生駒西麓の孔舎衙坂(くさえのさか)で迎え討ちされ、東征が阻まれたとされる。近鉄奈良線の生駒トンネル辺りから西に下ってくる一帯が日下(くさか)という地名だが、この急峻な山斜面で戦いが繰り広げられたということらしい。地元の小学校は古代名である孔舎衙(くさか)を使っているが、日本神話に有名な場所であることを忘れさせないため、あえてこの字にしているのだろう。
生駒西麓は石の名産地
恩智川に流れ込む生駒からの川と交わるところに常夜灯の石燈籠が立ち、その川向こうに浜地蔵尊がある。地図で川を遡ると春日神社や八幡山八幡宮、寺院もいくつかあって霊験あらたかな場所、何より岩石信仰が盛んで、奇岩・巨岩の宝庫のようだ。大阪城築城残石もあり、もう少し南に行くと石切という地名にもあるように、石の産地でもあったのだろう。そのことを証明するように、善根寺2丁目辺りには石材店が数軒並んでいる。
東大阪市立孔舎衙小学校を過ぎると日下町に入り、4丁目交差点から東を見ると何か見覚えのある町並みが見通せる。この道沿いに石上露子が嫁いだ河澄家住宅があり、生駒越えに通じる旧街道だったのを思い出す。また日下貝塚の遺跡もあり、縄文・弥生時代から人が住み着き、水辺、平野、山地と揃って自然の恵みが多い場所でもあった。
石切神社
さらに行くと、東高野街道は170号線から逸れ旧道になる。車の往来に気を付ける必要がなくなり、ゆったり歩ける。住居表示は中石切町になっていて、旧家や蔵、地蔵堂などもあり、昔ながらの街道筋の町並みが続く。
しばらく行くと、大きなイチョウの木が2本立ち、その間をゾロゾロと人が入って行く。ここからが石切神社への参道で、鳥居石も2本立ち、山手の神社へ向かう道が伸びている。石切さん、つまり石切劔箭神社には何回もお参りしているが、車で正面から入るのでここは知らなかった。この道を行くと神社の三之鳥居に出て、そのまま参道商店街につながっている。今日は暖かいので良い参拝日和であろうが、私は道を曲がらずまっすぐ街道探検を続けるのだった。
暗越奈良街道
高架になった近鉄けいはんな線新石切駅があり、そこをくぐって先を行くと、新旧の家が混在する生活道路としての東高野街道に戻っていた。ゼブラパターンの交差点に行き当たるが、そこを左、つまり東へ行くと、曲がりくねった急峻な坂道が延々と続く暗峠越えの奈良街道だ。
数年前、国道308号線でもあるこの道沿いを枚岡神社から歩き、暗峠を越え、生駒、矢田丘陵、今話題の富雄丸山古墳、さらに宝来山古墳まで、20数kmも歩いたのを思い出す。6月の最も日の長い頃だったにも関わらず尼ヶ辻駅に着いたら真っ暗で、精も魂も尽き果てたのだった。平城京の頃は、急峻だがこの道が最も早く‥‥などと想いに耽っている場合ではなく、さらに進もう。
河内国一之宮、枚岡神社
箱殿町に入ると道幅も狭くなり、南行き一方通行で、生活臭が一層強くなる。文化住宅、居酒屋、ラヂオ焼きのたこ焼き店などが軒を連ねる。鳥居町に入るとその名の元となった大きな石鳥居が立つが、それが枚岡神社一の鳥居である。
枚岡神社は河内国一之宮で官幣大社、大和政権の祭祀を司った中臣氏の祖神・天児屋根(あまのこやね)命を祭る。石切さんはデンボを治す現世利益の神さんであるのに対して、ここは日本国創始に関わる由緒正しさを誇る。物部氏の一族が創始したに石切神社は庶民感覚に寄り添う現実派、対して理念派?そのあたりも物部氏と中臣氏の違いであるのだろうか?
瓢箪山商店街へ
生駒山地の山陵を間近に見ながら、大きなお屋敷がいくつも残る喜里川町を歩く。人通りが急に多くなってきたところで道は右にカーブを取り、旧の170号線に入る。と、そこは別天地のように賑やかでざわついている。向こうに派手なアーケード、色とりどりの看板類が目に入り、目まいがしそうになる。人が混んだら押して歩くのだろうが、自転車に乗る買い物客が頻繁に行き交う。国道であるのにアーケード商店街、逆に商店街なのに国道である、そんなことも不思議に感じながら歩いていると、近鉄電車が踏切を渡っている。ここが近鉄奈良線の瓢箪山駅なんだ。
(探検日:2023.2.12)