最も生駒西麓らしい所を歩く
近鉄奈良線に乗り瓢箪山駅に近づくと、生駒の山並みがグーンと近づく。ブログ『生駒西麓』でも取り上げたが、次回にかけて最も生駒の山裾らしい場所、神立や高安、恩智、柏原といったところを通る。以前は生駒山麓から見ていたが、街道筋からはどう見えるか、ひたすら歩くことから何か新しいことが発見できればと期待しているのだが・・・・・・。
瓢箪山商店街から
いつ行ってもこんなに賑やかなのだろうか、今まで3回は来ているが毎回ハズレはない。しばらく行くと鳥居が立ち、左手、東側に参道が伸び、その先に神社がある。双円墳があり、その形が瓢箪のようだと瓢箪山古墳と名付けられた。羽柴秀吉が稲荷を勧進したことから瓢箪山稲荷神社が始まり、金運、商売繁盛などの神さんとして人気が高い。それもあるが、この双墳は生駒の西麓まで続く山畑古墳群の一つで、この一帯に100を超える群集墓が存在したことも忘れてはならない。この地から南の方、高安、柏原、高井田まで大型古墳や、おびただしい数の群集墓や横穴墓が築かれていた。そういう古代から連綿と続く霊地としての生駒西麓の地を眺めながら、旧国道170号線、つまり東高野街道を南に向かって延々と歩くことになる。
商店街通りは土手道だった
お稲荷さんへの鳥居を過ぎイオンのスーパー、小さな商店が並ぶ道を歩いていると、ドンドン人がこちらに向かって来る。どこから通行禁止が解かれていたのか定かでないが、いつの間にか車が通る道になっている。
街道と交差する道を見てアッと驚く。西側への道が転げ落ちるぐらい急坂になっている、むしろ土手のような急斜面だ。カシミールスーパー地形で見ると瓢箪山駅付近から500mくらい南方まで西側に黒い線があり崖が続いているように見える。その標高差は1.5〜3mある。生駒の山麓から西側へはなだらかな傾斜地になっているが、道を付けるのに高い所の土を削って低い所に盛り土をした。西側の低い所から見ると街道は堤のようになっている。この急坂はその事を忘れないでと訴えているように見えるのだが‥‥。
縄文時代から住みやすい場所
縄手小学校・中学校辺りに縄文時代の集落跡や弥生・古墳時代の土器、古墳などが見つかっており、縄手遺跡とされている。それらの遺物が展示されているのが「発掘ふれあい館」なのだが、今日は月曜で休み。四條畷辺りから河内湖(湾)の水際を伝ってきた東高野街道周辺は、人が最初に住み着いた縄文時代から、山地、平野、湖(海)の幸に恵まれて暮らしやすい場所だった。打上、日下、この先の恩智なども含め古代からの遺跡は多い。一方、生駒の山塊が人の活動を制限してスプロール化させないでいるので、適度な密度に市街地が保たれている。そんな意味で、生駒西麓は現代でも住みやすい町ではないだろうか。
250mの旧街道
旧170号線の街道は対向2車線のバスも通る幹線道路で、絶えず車に気を付けて歩かなければならない。楠木正行の小楠公碑や、山の方へ行けば六万寺などの史跡も多くあるが、脇目も降らず真っ直ぐ進むのである。瓢箪山からの東高野街道は大和川に至るまで旧国道170号に沿っているのだが、一カ所だけ少し外れる。交通安全地蔵さんの立つところから、ドラッグストアの建物にへばりつくようにして町中に入って行く。車に追い立てられなくてすみ、ホッとする。取り立てて街道らしいものはないのだが、1軒だけ、小さなマンションが町並みに馴染ませるかのように建っている。この街道を近辺では昔からそう呼んでいたのだろう、その名が「マンション京道」とあった。オーナーの粋な心遣いに嬉しくなるが、街道を楽しんでいるのもわずかな時間で、幹線道路から外れる街道筋はたったの250mで終わってしまう。
心合寺山古墳
旧国道170号線は歩道も十分確保されていなく、街道歩きは工場や物流倉庫などが並ぶ道路脇を進むことになる。横大路、箕後川、楽音寺という交差点を通過して行くが、建物が途切れたところから生駒山地の連なりが見える。
ぼうっと遠方を眺めながら歩いていたところ、棟続き長屋の上に枯れ草で覆われた土盛りが現れた。古墳か?と眼を凝らすと果たしてそうで、鏡塚古墳だった。民家の裏の狭い空き地に押し込まれたような格好だが、全長50mもある前方後円墳、古墳時代中期末の築造とされる。その上手に心合寺山(しおんじやま)古墳が横たわっている。全長160mもある前方後円墳で、中河内最大、三野県主の血統を引くこの地の支配者の墳墓とされる。古市古墳群の最盛期に当たり、大和政権とも強い連携を持っていたと見られる。現在まで原型をとどめていて、円筒形埴輪を並べて現地復元されている。生駒山麓にかけてこれら以外にも多くの古墳が点在しており、河内一帯を治めた物部氏へと続く権力者がいて、この地を治めていたと、私はそうみているのだが‥‥。(下の動画は、生駒山地から池島・福万寺遺跡方面を見る。)
玉祖神社
しばらく行くと、いきなり大きな石の鳥居が立つ。玉祖神社の鳥居で、このまま山の方に1.5km進めば中腹に神社がある。玉造部の祖神、高安11カ村の氏神で、この地域では最も位が高い神社とされる。三野県主一族や物部氏の古墳よりも高いところにあることから、この地域を治めた一族の守り神として崇められていたと推測できる。鳥居の隣には八尾市立教育センターがあり、参道は清潔に保たれている。(参考:ブログ『生駒西麓』三野県主と生駒西麓の古墳)
高安千塚古墳群
「千塚」という交差点があるが、名前のように、神立から信貴山ロープウェイ辺りの生駒山地が少し凹んで湾曲する山裾一帯に夥しい数の古墳が集まっている。ほとんどが数メートル径の円墳だ。山肌に凸部があればそれは古墳だと見ても良いくらい至るところにある。大窪・山畑、服部川、郡川といった地域名だが、全体を指して高安千塚古墳群と称している。平野部の心合寺山古墳や鏡塚古墳、大規模の愛宕山古墳などと区別され、渡来系の有力者の墳墓と見られているが、豊かな土地だからこそ現れた現象とも言える。
郡川西塚古墳を現地保存
古墳群の山を眺めながら、近鉄信貴線のガードをくぐり、しばらく行くと風景が全く変わってしまう。10年以上前になるが、ここに八尾リハビリテーション病院があり、しばらく母が入院していたことがあった。河内山本駅から歩いて何十回と見舞いに来ていたのだが、周りは造園業の圃場が多く、まだのんびりした風景が広がっていた。ところが今はスーパー・オークワや楽天ロジスティックなどの大型施設が建設中で、外環状線までの一帯が開発し尽くされようとしている。よく見ると、その一角に区間整理事業竣工記念公園なるものが造成中で、その中央に何やら自然石の石垣が取り巻いたいびつな楕円形の土盛りがあり、木が何本も生えている。今作ったものでなく、元々あったもの、そう古墳のようだ。つまり郡川西塚古墳を現地保存し、これを核に史跡公園にしようとしている。大規模開発の罪滅ぼしのようでもあるが、高安千塚古墳群を意識した公園のあり方で、これは良い。できたら古墳群を学習できるミュージアム施設ができないだろうか?(探検日:2023.2.20)