⑦高安千塚〜道明寺

 

古い町の説話や物語を思い浮かべる

高安千塚古墳群が眠る山裾、高安山気象レーダーが見え隠れする生駒の山々を眺めながら、旧国道170号線の東高野街道を南へ歩く。古代からの町々の栄華を偲び、そこに伝わる説話や物語を思い浮かべ、生駒西麓に伸びる東高野街道の重要性に思いを馳せる。そして柏原で大和川を渡り、古市古墳群という古墳時代の最盛期を支えた道明寺へといよいよ入って行く。

高安から道明寺までのカシミール軌跡
高安から道明寺までの軌跡

教興寺

 景観が全く変わってしまった郡川地区をさらに行くと、住居表示は教興寺になる。教興寺は聖徳太子が物部守屋の討伐を祈願して建てられたというが、戦国時代の戦乱に巻き込まれ焼失。江戸期に浄厳和尚により再建され、その頃近松門左衛門が寺に寄宿していたと伝わる。明治期の台風で本堂が崩壊し客殿を仮本堂とし今もそのままだが、荒れた感じの寺だったのを記憶している。その教興寺の山門が道標のある交差点の向こうに見える。山門への道は信貴山道であることが道標に書いてあり、いかにも古い街道の趣を残している。 

 次の交差点には、数年前に来た時も不思議な石台だと思っていたのがそのままあった。祭りの時の神輿を置く台だと言うのだが、本当だろうか?と以前と同じ疑問がまた出てくる。もう一本南の交差点を東に入ると、今回見逃しているのだが、垣内村一里塚が建っている。善根寺でも一里塚の小さな碑を見たが、元のまま残っているのは、後に見ることになる錦織の一里塚と2本だけということだ。

恩智

 元善光寺とも言われる善光寺、戦時中の戦闘機格納庫の掩体壕などがある垣内。この地では珍しい釣り池もあったが、緩い坂道が始まり恩智に入ってきた。

 南高安小学校辺りからきつい坂になり、古民家が建ち並ぶ峠道になったところに恩智神社の鳥居が立つ。参道との交差点付近には、石灯籠や石橋、三重の大屋根が被さる屋敷、棟続きの蔵などがあって、ここだけ時間が止まったような、昔ながらの風景がある。狭い道路を車が頻繁に通るのだが、交差点南西隅の屋敷は築250年の登録文化財。この古民家を「茶吉庵」として再生し、カフェ、ギャラリー、イベントスペースを運営し、今や河内の文化発信地となっている。この交差点はどこから見ても絵になるが、恩地左近の墓への階段からは手前の古い住宅もアングルに入りよりピクチャレスクだ。

 「オンジ」という音感は「阿智」が訛ったとされ、百済系渡来人の阿智使主の勢力地だったと言われる。弥生時代から集落を成し、中世・近世を通じて恩智城を構えるくらい河内の中心地だったのだが、河内平野を一望できる恩智城は、やはり一国の主人の威厳がある。

堅下ワイン

 八尾市から柏原市に入ると生駒山地もグッと近づいてきて、南の方に低くなって行く。古墳時代の鍛治工房跡が見つかった柏原市立堅下小学校、製鉄の神様とされる鐸比古鐸比賣(ぬでひこぬでひめ)神社などがある。高安、恩智、大県といった地域は、5〜6世紀、朝鮮半島から製鉄技術を導入した先進地だった。古市古墳群を築いた王族とも連携し大いに発展した。

 それとどう関係があるかわからないが、河内地域では明治初期に葡萄園の開発がされ、日本一の栽培面積を誇ったこともあったが、ワインは100年以上前から作っていた。そういう先進性の風土がある地域で、今またワインの開発が盛んになっている。一口に河内ワインと言うけれど、柏原の堅下、羽曳野市駒ヶ谷、飛鳥などにワイナリーがあり、ここは柏原ワイン。甲州ワインはスッキリして辛口だが、河内のそれは浪花の味付けで、ちょい甘みもあるワインになれば良いな、と期待している。

河内六大寺の町

 平野、大県、大平寺、安堂といった町名が今も残る古い地名だが、そこに東高野街道に沿う形で、北から三宅寺、大里寺、山下寺、知識寺、家原寺、さらに鳥坂寺という寺院が建ち並び、これらを河内六大寺と呼んだ。奈良時代に孝謙天皇が六寺を参拝したという記録があり、平城宮と難波宮の中間点として皇室にとって重要な地域だった。在原業平が高安の女に会いに行くのに竜田道を通ったとあるが、まさに六大寺を伝う道で、現在、業平道として遊歩道が整備されている。その頃に幹線道としての東高野街道の整備も完成し、京、大和、河内を結び通行も盛んであったに違いない。

河内六大寺配置図

 東高野街道、つまり旧国道170号線は大平寺町で大きく右にカーブし登り坂になる。上がり切った所が近鉄安堂駅の陸橋入口で、ここからは生駒山地南端部の山並み、河内六大寺の甍が聳えていただろう町々を一望できる。JR大和路線が並走しているが、今も交通の要衝である。

船氏の船橋

 現在、大和川は堺の方に流れるが、300年前までは南からの石川と合流して北に流れ、淀川とともに大阪湾に流れ込んでいた。高野山に行くためには大和川を渡らなければならない。石川との合流地点の西側に船橋という集落があり、そこと安堂を繋いで架かる河内の大橋があったという。この橋を渡り、船橋から国府、道明寺へと行くのである。

 船橋は、最も古い中国系帰化氏族で、野中寺を氏寺とした船氏と関係する。古代からの船橋集落は、国府遺跡北端から石川に沿って大和川を越えて広がっていて、大和川の付け替えで大半が川底に埋また。昭和20年代、北岸近くの川底から集落遺跡が発見された。その西側には巨大な寺院の船橋廃寺があったとされる。

船橋遺跡が見つかった大和川北岸部
船橋遺跡があった大和川北岸

大和川を渡る

 大和川の堤防道路に出ると視界は一挙に広がる。堤防上をしばらく歩き、近鉄柏原線の鉄橋の手前で大和川を渡る。ジョギングやウォーキングの人が次々と橋を渡って来るが、生駒山地、さらに金剛葛城の山々を見渡せて気持ち良い。目印山の二上山もはっきり見える。古代人もこんな大きな風景を前に、長旅の疲れを癒やしていたことだろう。

国府の町は遺跡の重層地

 橋を渡ると石川の左岸堤防上を歩くが、途中で右に折れ、国府の町中に入っていく。近鉄柏原線の踏切を越え道なりに行くと、ズドンと国府八幡神社に突き当たる。神社を覆うように見える深い緑は允恭天皇陵、神社横手の土盛りは陪塚でもある宮の南塚古墳。国府遺跡は石川の河岸段丘最北端にあり、石器時代も含め古代からの遺跡が重層している。奈良・平安期以降は河内国府が置かれ、河内国の政治的中心地でもあった。大和と難波、河内、泉州などとの交通の要衝で、全国から送られた様々な遺物が出ている。

 国府八幡神社の前の道を南に行くと、地蔵堂や蔵、また新建材住宅など新旧の建物が入り混じる街道風景になる。府道12号線の手前で長尾街道と交差して、さらに近鉄南大阪線の踏切を越えると道明寺。背の高い樹木で囲われた天満宮沿いの道を行くと右側に静寂な道明寺が見えてくる。街道は神社と寺の間をさらに進むのだが、夕闇も迫り肌寒くなってきた。

(探検日:2023.2.20)

投稿者:

phk48176

古市古墳群まで自転車で10分、近つ飛鳥博物館まで車で15分という羽曳野市某所に住む古代史ファンです。博物館主催の展示、講演会、講座が私の考古学知識の源、それを足で確かめる探検が最大の楽しみ。大和、摂津、河内の歴史の舞台をあちこち訪ねてフェイスブックにアップします。それら書き散らしていたものを今回「生駒西麓」としてブブログにします。いろいろな意見をいただければ嬉しいです。

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