⑧道明寺〜城山

 子どもの頃、3月25日の道明寺天満宮「てんさん」にはよく連れてもらった。おもちゃやお菓子を買ってもらえる楽しみがあった。また、初詣に参拝する宮の一つでもあるが、ここからは私の生活圏にグッと近づく。旧国道170号線と何カ所かで交差しながら、道明寺、誉田、古市、城山・・・と、元々からある街道筋を歩くことになる。それはまた古代から南北朝期、江戸期の歴史を思い起こさせる旅でもある。街道を巡ることで日常遣いの町がどのように変容して見えるか、楽しみながら歩きたいと思う。

道明寺から城山までの軌跡図
道明寺から城山までの軌跡

河岸段丘上に道明寺天満宮

 近鉄道明寺駅から歩いていくと、道明寺天満宮は一段高い台地、石川の河岸段丘上に築かれている。段丘の崖が東西に旧国道170号線を越え、助太山・中山塚・八島塚の三ツ塚古墳の北側高台を通り仲津山古墳の外濠堤まで続く。この斜面一帯に登り窯が幾つも据えられていて、土師の里埴輪窯跡群とされる。

 天満宮前の崖に登り窯らしきものが再現され、階段を登った神門脇に土師窯跡の石碑も立っている。さらに天満宮内の参道西側に元宮土師社があり、土師氏の始祖・野見宿禰命も祀られている。道明寺天満宮を含めた高台一帯を古市古墳群の埴輪製作の拠点だと見るのは、私にとって新しい視点である。

 天満宮は今まさに梅の見頃で、盆梅展もされていた。最近一つ願い事が出てきて、おみくじを買おうとしたが、これがはにわくんの顔のおみくじで500円也。「末吉」なれど、願い事の方は叶いそうでまずは幸先がよろしい。

道明寺天満宮の元は土師神社

 道明寺天満宮は、古市古墳群などの埴輪を作る集団である土師氏の拠点であることを知るが、元の名は土師神社と呼ばれていた。その南側に土師寺があり、明治の神仏分離以降は道明寺として神社の西隣に建てられた。因みに土師神社から道明寺天満宮に改称されたのはつい最近、昭和27年、私の1歳の時だそうだ。道明寺は菅原道真の号「道明」に由来し、道真の死後に改称されたということだから、道明寺のほうがはるかに古いわけだ。

尼寺の道明寺

 天満宮前の坂を登ると、土師神社の祭神であり、菅原道真公のおば様でもある覚寿尼公が住まいされた道明寺があり、道真公も親しく訪れていたという。元々土師神社の南側に広大な敷地を持ち、講堂と金堂、五重塔が直線に並ぶ四天王寺式の伽藍配置であるような大寺院であった。明治期に今の場所に移設され、かなり規模は小さくなったが、手入れのよく行き届いた落ち着いた佇まいがあるのは、尼寺だからか。

道明寺の町の成り立ち

 先日、国府町から近鉄の踏切を渡り、天満宮と道明寺の間を通ってきたが、東高野街道はそのまま真っ直ぐ南へ向かう。道明寺も一段高いところにあるので、街道は坂を下るようになる。

 しばらく行くと、道明寺2丁目と4丁目を分ける東西の道で筋違いになる交差点がある。地図を見ると東側の次の道も南北は繋がらず、さらに2本目の南北の道も筋違い……。つまり、南北の道は全て真っ直ぐに伸びていないのである。城下町では敵の侵入を食い止めるために敢えて道をずらして交差させる作為はよくあるが、南北朝以来なん度も合戦場になっている道明寺もそうなのだろうか。

 地図上には、この交差から北東約100mの所に古代道明寺五重塔礎石が残されているので、天満宮の南側に道明寺があったことを思うと、この東西の道は旧道明寺南側の塀伝いに付いていて、北へ向かう道は行き止まりになっていた?その名残が筋違いの道になっているのか?この推測も、あながち間違いではないように思うが……。

王水町とは

 南へだんだん進むと建物が小ぶりになり、長屋や昭和のアパートなども見られる。その先に何やら空中を横断し、視界を阻むものがある。西名阪の高速道路高架である。法隆寺や奈良公園などに行く時はよく利用するが、下から見ると巨大なコンクリートの塊でしかない。この高架道のおかげで古市古墳群が分断されもし、逆に新発見もあったわけだ。今も高架下に保存されている赤面山古墳というのもある。

 高架を越えてしばらく行くと、「北王水町会住宅地図」という古い看板が立っていた。現在の町名は羽曳野市誉田1丁目。王水町とは、誉田と住居表示される前の古い名前。以前古市大溝を辿る探検をした時発見した川だが、石川から水が引かれ、田畑の灌漑用水として利用され、王水(おうずい)川と呼ばれていたが、その「王水」だ。王水川は誉田八幡宮北側から応神天皇陵後円部外周を通っていたので、その辺りに行けば何かわかるかもしれない。

誉田の町へ

 旧国道170号線を越えると応神天皇陵の森が迫ってくる。歴史街道としてインターブロッキングで整備されていて歩きやすい。新しい町並みに変わっているが、道は曲がりくねっていて古街道の雰囲気はある。そこに突然、古墳らしき土盛りが現れる。栗塚古墳と言って、一辺43m、高さ5mの方墳で、応神陵の陪塚と考えられる。古市古墳群のメインの場所でもあるこの辺りには、大古墳だけではない、それを取り巻く中小の古墳が数限りなく存在する。町の中で思いがけず古墳に出会うのも楽しみの一つである。

 誉田中学校の裏を通り、徐々に古い町並みに入って行く。そんな住宅の真裏が応神天皇陵の外濠に接している。堺の百舌鳥古墳群と比べ古市の方は墳墓間際まで住宅が建ち、なかなかスリリングな風景が展開している。隣の天皇さんという親しみを持っているというか、ぞんざいな扱いをしているというか?羽曳野の住民感情は世界遺産がどないしたん?という感じかもしれない。全く個人的な意見だが‥‥。

だんじりに見る王水町

 誉田八幡宮に近づくと、街道を横切るように小川が流れている。これが王水川で、石川に流れ込む大乗川から王水樋を通じて左岸の外に出る。碓井地域の田畑の間を縫って誉田へと流れ、東高野街道を横切る。さらに応神陵の後円部を回り込み北へと方向を変え、藤井寺市街を通り古市大溝の終着点とみられる津堂まで流れる。

街道と王水川の流路の地図
街道と王水川の流路を示す

 王水川の近く、誉田八幡宮域の北東隅にあるのが王水町会館、さらに八幡宮境内の南東隅に王水町だんじり倉庫がある。今は住居表示が改正され、誉田何丁目などとされているが、その「王水」という町名が表に出るのは、9月14・15日の誉田八幡宮の秋祭りの時だ。この時ばかりは周辺の王水町、鍛治町、馬場町、西之口町の4町のだんじりが我こそは、と競って八幡宮に結集する。誉田八幡宮を祭る無形文化財として4町会が存在すると言っても良いかもしれない。

 誉田八幡宮の境内は神社の規模から言って広すぎる感があるのは、だんじりが宮入りするからだろう。何度も参拝しているが、参道脇に「誉田林古戦場跡」の碑があるのを初めて見た。先ほどの道明寺と同様で、石川河岸段丘上の戦略上の要所だったのだろう。南北朝、室町時代、戦国時代、大坂夏の陣にかけて何度も戦場となっていた。東高野街道は戦士や戦争物質を運ぶ重要な道路でもあったのだな‥‥。

西琳寺

 古市は竹内街道が通り大和と難波、また石川の船運もあり、南河内と大坂市中を結ぶ交通の要衝で、古くから市が立ち栄えた町だった。古代には王仁氏の末、西文(かわちのふみ)氏が建てた西琳寺がある。西に金堂、東に塔がある法起寺式伽藍配置の大寺院だったという。高さ2mもある塔の心礎だった巨大な石塊が境内に置かれ、上部に径75cm深さ40cmの柱穴があると言うが、高くて見えない。説明板でそのことを言うなら、写真の一枚でも載せるべきだろうに。横にある開山僧叡尊を祭る五輪塔の球石が巨大で迫力満天だ。鎌倉期のものだと言うが、流石に剛健だ。

 古市の繁栄を支えた商家•銀屋はどうなっているのか。石川船運の剣先船の船板を壁板に利用した建物を見たかったが、ない。跡地が完全に住宅開発され上等の家屋が何軒か建っていた。その代わり曲がり角の内側が広場になっていて程よい空間になっている。銀屋の建物を何らかの形で残せなかったのかな、あかんな羽曳野市は、もうちょい頑張らなあかんがな‥‥。

古市六町のだんじり

 竹内街道と東高野街道の交差点を蓑の辻と言う。「右 大坂」「左 大和」と書く道標が立ち、その横に2階建ての古市六町蓑の辻会館がある。最も栄えた場所がこの交差点付近であり、一番重要な地点だったことが分かる。古市六町とはと現在の地図を見ても分からないが、誉田4町会と同様で、古市地区の神社•白鳥神社の秋祭りのだんじり所属先を見ればすぐ分かる。旧町会として、東•西•南•北と中、堂之内と六つの町会があり、それぞれだんじりを持つ。500mあるかないかの距離に、誉田と古市という、だんじり祭りを成り立たせる二つの町と神社がある。この地域がいかに豊かだったかの証拠に他ならない。

 そんなことを思いながら南へと歩いて行くと、もう一つ町の豊かさを表すものがあった。とんがり三角形で神明造を模した祠が道端に建っている。「伊勢講」と明記されるだけだが、寄付者の一覧には地域の名士たちの名が並んでいる。講を組んで今でも伊勢参りしているということだろう。「伊勢講」と書いたお札を玄関先に貼っているのは見たことあるが、こんな立派なモニュメントは初めてだ。

城山の町へ

 大きな屋敷が続く街道を進むと近鉄吉野線の踏切に達す。線路の向こうに高い丘があり、そこに6世紀後半、安閑天皇陵が築造された。応仁の乱終結後、御陵の上に畠山義就が高屋城を築き、この地が南北朝、戦国時代を通じて戦乱に巻き込まれていった。

 安閑天皇陵を本丸とし、その南側を二の丸、さらに一段低い南側を三の丸とする高屋城だったが、畠山累代に渡り高屋城の守護神だった姥(うば)不動明王が安閑陵の南側にある。それはまた東高野街道の道祖神である、ということなどが格調高く謳われた縁起書が石碑に刻まれている。こういう地元の遺跡保存の篤志家がおられることで歴史が繋がっていく。

 街道は細い道ながら神社の縁を回って旧国道170号線と並行するように伸びる。古い屋敷の町並みの一角に高屋神社がある。高屋丘陵は物部一族の系統である高屋連の本貫地で、祭神は物部氏の祖神•饒速日(にぎはやひ)命と安閑天皇としている由緒正しい神社なのだ。世が世ならば、というか、南北朝からの戦乱に巻き込まれなかったら、もっと豊かな氏族であり得たのに……、という怨念も混じる由緒書きである。

(探検日:2023.3.6)

投稿者:

phk48176

古市古墳群まで自転車で10分、近つ飛鳥博物館まで車で15分という羽曳野市某所に住む古代史ファンです。博物館主催の展示、講演会、講座が私の考古学知識の源、それを足で確かめる探検が最大の楽しみ。大和、摂津、河内の歴史の舞台をあちこち訪ねてフェイスブックにアップします。それら書き散らしていたものを今回「生駒西麓」としてブブログにします。いろいろな意見をいただければ嬉しいです。

おすすめ

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です