⑨城山~富田林寺内町

 これからしばらくは、私の自宅から1~2㎞のところ、幼少期の思い出の場所であったり、今も日常的に行ったり来たりしているところを歩く。水守、東阪田、富田林市に入り喜志という町々である。桜井から富田林は、祭りや買い物などちょっと遠い町ではあるが、どこにでもある田舎町だと思っていたところが日本の歴史の舞台であったと、改めて悟らせてくれる街道歩きでもある。

城山から水守、東阪田、喜志、そして桜井へ

城山から桜井へのカシミール軌跡図
城山から桜井への軌跡

水守の町へ

 城山の町中を緩やかに下る道をのんびり歩く。下り切った所から大阪府営城山住宅や新興の戸建住宅が建ち、工場や空き地が増えだして町並みがガラッと変わる。そんな建物の間の駐車場から二上山が、私が普段見る形で現れた。我が家は同緯度で西に1kmほどあろうか。二上山は左の雄岳が高い、この姿が一番美しい、そう確信している。

 リサイクル工場などの向こうに高架道が見える。南阪奈道路で、橿原神宮や御所、飛鳥などに行くのに便利になった。橿原神宮までほんの20分で行ける。昔は水守という小字名で呼んでいた地域だが、南阪奈がついてすっかり変わって、工場街と集落が全く分断されてしまっている。

 以前、古市大溝探検で見たとおりだが、水守とは新町井関の水を管理する役割から地名が付いたのではないかと推測している。高架を越えて水守の集落に入ると、昔ながらの大きな屋敷が並んでいるし、水守会館という立派な町会施設もある。道路や工場、コンビニなどで土地が売れたということもあって、個々の家は裕福になっているのだろう。

東阪田から喜志へ

 しばらく歩くと緩い坂道にかかるが、名の通り東阪田という高台の町に入って行く。街道は、ここから富田林寺内町や滝谷、河内長野まで、石川の河岸段丘上を行くことになる。子どもの頃は自転車で逆に坂道を降り、水守から広瀬を通り石川へ泳ぎに行ったものだ。この下りのスロープは7〜800mはあろうか、猛スピードで走ったスリル感を今でも体が覚えている。

 東阪田から喜志小学校までほぼ真っ直ぐな道がついているが、昔は砂利道で、あちこちに鏃(やじり)が落ちていて拾ったような、そんな記憶がありそうな気がする。二上山から出るサヌカイトの切り端だったのだろうか、三角形をした石を見つけては一喜一憂していたように思う。その辺りは富田林市との境界で校区も違っていたが、自転車に乗れるようになって少しは遠出ができるようになっていたのか、何回も行ったように思うが‥‥。

 すっかり住宅が建て込み展望がきかないが、東西の道路を通して二上山が大きく見える。街道は50m以上の標高、坂の下は30数mなので、15m内外の差があり、東への道はかなり急な下り坂になっている。この崖下に沿って36mの標高を維持して流れているのが古市大溝だ、ということは以前の探検で発見したのだった。(参考:「MY古代史探検」メニュー→古市大溝を探る)

喜志から桜井へ

 喜志小学校の塀には、東高野街道を解説した立札があり、電信柱に矢印が付いていて、これが街道だと再確認できるのだった。その後はどう行ったらよいか指定がない。旧国道170号線の喜志交差点は5叉路になっていて、南へ向かう2本の道のどちらかで迷う。斜めに入る道は明治以降、太子方面に向かうバス道として新設されたように思うので、恐らく右の国道の方が正しいのだろう。走り去る車を尻目にしながら、国道の歩道を黙々と歩くのだった。

 500mも行かないところに桜井の交差点があり、ここが我が地元の神社、御具久留御霊(みくくるみたま)神社のお旅所で、参詣道の入り口を示す石鳥居が立っている。秋祭りには氏子のだんじりが全てここに結集して、派手に引き回しの披露をした後、順に宮入りをして行く。私も町会長を務めていた時、代表者としてだんじりの正面に座り、静々と宮入りを果たしたのだった。

 その桜井交差点を過ぎると、街道筋は国道と徐々に離れる。左へ行けば大阪芸大、近つ飛鳥博物館方面へと向かう中野町3の交差点を過ぎると、街道は細くなって町中に入って行くのだった。(探検日:2023.3.6)

河岸段丘上を行き、富田林寺内町へ

 道路は真っ直ぐのようだが、よく見るとクネクネと微妙に曲がっており、やはり昔からの道なんだなと、愛おしく見える。このまま南に向かい、石川河岸段丘の平面上を行く。中野町・新堂を越え、千早や金剛山へ向かう楠公道路を越えると富田林寺内町に入る。町中は江戸時代にタイムスリップしたみたいに、昔からの美しい家並みが続いている。

桜井から富田林寺内町への軌跡
桜井から富田林寺内町への軌跡

桜井からの街道

 粟ケ池南端付近からまた街道筋に入るが、街道を示すものは何もない。二階建ての農家住宅は、2階部分は高さがなく、恐らく家財道具や柴、藁などを保存する部屋だろう。最近はペタペタと新建材を貼り付けた無国籍住宅が増えたが、農家住宅は土壁の漆喰塗装、入母屋の瓦屋根で、頑丈そうだ。沿道にはこんな家が幾つも残っている。

 西側の旧170号線側にはコンビニやガソリンスタンド、バッティングセンターなどが並ぶが、一区画東側に入っているからだろう、酒屋や米屋などの昔からの店がポツポツあるだけだ。富田林に行けば何でも揃うし、ここで新商売をする必要も無かろう、ということで静かに暮らしている人が多いのだろう。

新堂へ

 中野町から、今は若松町に代わっているが、新堂に入るとやや町並が変わる感じがする。郵便局や小学校、つまり新堂小学校などの公共施設が立ち、マンションなどの集合住宅がぽつぽつと見える。この辺りからは富田林駅への通勤圏で、大阪市内へ通うサラリーマンが多いのだろう。

 しばらく行くと二叉路があり、道の曲がり具合から判断して左側の道が旧街道筋だとみられる。その二叉路にもう一本道が刺さり、東へ向かう道は急な下り坂になっている。眼下一面にマンションがいくつも並んでいる。マンション街の標高は50m余り、街道は60m余りだから10m程度の標高差、街道筋は石川河岸段丘の東縁に近づいてきている。

葛城温泉

 旧街道と思しき左側の曲がりくねった道を行くと古そうな民家があり、その向こうに大煙突。風呂屋に違いないが、煙突に書いてある文字が読めない。回り込んでみると、自転車に乗った御仁がその先で降りる。また一人建物の中に入って行く。建物の屋根下に「葛城温泉」と書いた看板がかかり、その上に同じ名前が書かれた大煙突がそびえている。

 この場所に風呂屋というのは意外な感じもする。周辺に市営や府営の団地が林立しているが、今時分どこも内風呂はあるだろうと思うものの、掃除も行き届いたきれいな風呂屋だし、結構利用者もおられるみたいだ。富田林市共同浴場で市から助成金が出ていて、300円の入浴料は格別に安い。(2022年3月末で閉店)

河岸段丘上の富田林寺内町

 千早、金剛山方面に向かうバスも通る楠公通と呼ばれる幹線道路を渡ると、いよいよ富田林寺内町に入る。東高野街道は亀ケ坂筋に当たり、南に向かう。寺内町には何回も来ているが、来るたびに修景整備された家が増え、昔風の町並みが続くようになってきた。

 南の端まで行くと、石川の河原が見渡せる展望地にでるが、寺内町が意外と高い台地の上に広がっているのが分かる。寺内町の標高がほぼ65m、東端から南端にかけて崖になり、その下の河川敷が54mでなので、ここも10m余りの段差がある。東阪田から喜志、桜井、新堂と東高野街道は石川河岸段丘の上を通って来たが、富田林寺内町で河岸段丘のもっとも東の縁まで来たことになる。この辺りでは石川の河原が接近しているので崖っぷちに立っている気になり、余計に段差を感じるのである。

寺内町に賑いを再び

 私は越境入学で富田林第一中学校に通っていた。最寄駅は富田林西口なのだが、たまには富田林駅まで一駅歩くこともあった。土壁が崩れかけた寺の下の坂道を登ったのを思い出す。町中は商店が多く、映画館も数軒あって、絶えず人通りがあって生活の匂いがプンプンした。高度成長とともに寂れていったと想像されるが、20年くらい前からだろうか、江戸期の寺内町に修景するまちづくりが徹底されてきた。関係者の大きな努力があって町並は整然ときれいになったのだが、あの頃の賑わいは見られない。人はどこへ行ったのだろう。時たま外からの訪問者がブラブラ歩いているのは見かけるのだが、これで良いのかどうか?数少ないだろうが、町の住人に話を聞いてみたい気もする。

 町中には、杉山家住宅、興世寺別院、町家を改造したカフェやレストランやショップも増えて見どころは多いのだが、地元民としてこの町のこれからがやはり気にはなる・・・・・・。(探検日:2022.1.10)

投稿者:

phk48176

古市古墳群まで自転車で10分、近つ飛鳥博物館まで車で15分という羽曳野市某所に住む古代史ファンです。博物館主催の展示、講演会、講座が私の考古学知識の源、それを足で確かめる探検が最大の楽しみ。大和、摂津、河内の歴史の舞台をあちこち訪ねてフェイスブックにアップします。それら書き散らしていたものを今回「生駒西麓」としてブブログにします。いろいろな意見をいただければ嬉しいです。

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