⑪錦織~河内長野

 いよいよ今回の東高野街道歩きも最終回。錦織までは比較的平坦な道を歩んできたが、これからは崖を登ったり坂を下ったり、高低差の大きい山がちの中を行くことになる。河内長野辺りで石川が大きく西に湾曲するところから渓谷然とした風景になる。街道の標高は100mを超え、高野山詣がより意識されるようになる。そして、東高野街道と西高野街道が合流する最終地の河内長野に向かうのである。

錦織から河内長野までの軌跡
錦織から河内長野までの軌跡

街道は巡礼道でもあった

 街道と滝谷不動への道との交差点北側に「すぐ槇き尾道」と彫る石の道標が立つ。立て札の説明には、南北の道は江戸時代以降にできた新東高野街道(兼巡礼街道)とある。考えるに、河岸段丘を下りて歩いてきた街道は江戸期からのもので、西国33カ所巡りの4番札所・槇尾山施福寺への巡礼道でもあるという。「ええじゃないか」の伊勢詣が盛んになった江戸時代、全国的に物見遊山的な寺社参りや巡礼旅を庶民が楽しみだした。滝谷不動も修験道だけでなく誰でもお参りできるような「お不動さん」に庶民化し、日を決めて露店も出すレジャー地へ変換を遂げていった。その一環として川原を行く道に付け替えた、そんなことだろうか?それまでの東高野街道は、河原に下りずに河岸段丘上をそのまま通っていたのだろうか?謎が深まる。

東高野街道・錦織一里塚

 街道筋はそのまま南へ錦織の町中を通って行く。クネクネ曲がりながら近鉄長野線の踏切を越え、今度は旧国道170号線に入って行く。右に河岸段丘の小高い丘、左に金剛山系の尾根筋の一つ、龍泉寺のある嶽山(標高278m)の山並みを見ながら南へと向かう。河内長野への電車から汐の宮温泉病院が見え、温泉に入って療養できる病院なら一度入院したいなぁと思ったこともあるのだが、今は結のぞみ病院という名に変わっている。

 近鉄線と真横で並行する170号線を歩くが、ふと見た小高い丘の麓に石碑と案内看板を見つけた。「東高野街道錦織一里塚」と書かれている。この前の街道歩きの時、教興寺から恩智へ向かう途中、垣内3丁目にも同様の一里塚があった。一里塚は、現在ここと垣内の2カ所しか残っていないという。何気なしにふと見ただけだが、偶然とはいえ、貴重なものを発見したものだ。丘には二基の石造りの宝篋印塔とお地蔵さんが立っている。旅の安全を守るお地蔵さんが優しい目で街道を見つめている。昔は旅人もここで一息ついたのだろう。

踏切を渡る、崖を上る

 170号線に降り探検を再開するとすぐ河内長野市の境界を示す標識が立つ。右を見ると近鉄線の踏切があるのだが、真直ぐか踏切を渡るべきか?東高野街道を行くにはどこかで170号線と離れる必要があるが、もしやここか?「ええい、ままよっ!」と踏切を渡る。

 今度は急崖が目の前に迫り、崖下沿いを行くと斜めに上る坂が付いている。上り口に「孝子地蔵」なる地蔵堂があるが、崖下の道を行くべきか、ここでも迷う。旧街道には石燈籠や地蔵が付き物だが、地蔵さんが「街道筋は坂道の方だよ」と誘っているように思える。半信半疑ながら崖を上ることにする。かなり急坂だが、崖上には新興住宅がずらっと並んでいて、とても旧街道が通っているとは思えないが、「乗り掛けた船」の境地で、行く所まで行くしかない。

 家並みの向こうに鬱蒼とした森が見える。千代田神社とあるが、街道筋に神社があるのは当然なので森の奥へと入り込む。江戸期に中興したようだが、ご神体の菅原道真の座像が平安期の作とされるから、かなり古い創建のようだ。神社のある所は標高100mもあるが、ここから東の崖下を見ると、東側の山がそこまで迫ってきている。狭い谷を石川が蛇行し、それに沿うように国道や鉄道が幅を詰めて通っている、そんな渓谷然とした風景が展開している。

河内長野市街へ

 神社から道は真っ直ぐ南に伸びている。地図と照らし合わせると、これまで歩いてきた道が正解だった。私の勘もまんざらでもなさそうだ。

 この辺り一帯はかなり住宅開発されていて、どれも車が通る道路になっているが、曲がり具合などから古街道と推測される。また、真っ直ぐになるよう改修されていても、沿道に地蔵堂などがあって古道だとわかる。そんな道端にいろんな地蔵が祭られる龍王大神があり、ベンチで一休みする。火除、子安、水子、ちえ、交通安全などの地蔵に加え弘法大師も祭られている。生活には全て大事なことで、地域の人々の切実な願いがこもっていそうだ。

 さらに行くと太い道に合流し、坂道を一挙に下る。向野町に入った頃、祭りの提灯が掲げられたところから旧町内に入り、再び170号線に出くわす。国道を越え、曲がりくねった旧道に入り、しばらく行くとまた170号線に戻るというように、街道は170号線と絡まりながら進む。国道沿いの狭い歩道を行き、今度は右手の極楽寺の坂道をガーッと登り、区画された住宅地に入る。寺を過ぎると南海高野線が地下の軌道を走っている。極楽寺のあるこの一角は河岸段丘と言えるかどうかわからないが、南海高野線はその丘陵地を切り開いて通されている。河内長野の市街地は石川の北側、河岸段丘上の高台から低い段丘上かけて広がっている。

東と西が合う高野街道石碑

 東高野街道は今まで歩いてきた丘陵上を登るものと、川沿いに低い段丘上を行くものの二手に分かれている。低い方は川を渡り観心寺の方へも行けるルートのようだ。高台の住宅地から坂を下り河内長野駅前の商店街へと入って行く。アーケードもあって繁盛していそうだが、駅ビル「ノバティながの」ができてどう共存していくか、というところだろうか。

 アーケードが切れた所、近鉄と南海の駅前にそれがあったのだ。高野街道の道標、つまりここが東と西の高野街道の終点であり、高野山に向かう高野街道の出発点でもある。(探検日:2022.9.29)

 今回のコース、大阪府のガイドマップが一番の助けになったが、詳細な地図がなく、グーグルマップをプリントして自分なりにコースを書き込んだお手製の詳細地図を頼りに歩く。道中あまり表示もない中、古道が醸し出す匂いを嗅ぎ分けながらの探索だった。「古道勘」が大分磨かれたようにも思うが、柔らかく曲がりくねる古街道は私を魅了して止まない。歩いて歩いて、古代史の新発見ができたかどうかわからないが、古代から幾層にも積み重なった襞のようなものが足底から伝わってきた。そのようなことを思い付くまま、余すところなくレポートできたことをこの上なく幸せだと思っている。

投稿者:

phk48176

古市古墳群まで自転車で10分、近つ飛鳥博物館まで車で15分という羽曳野市某所に住む古代史ファンです。博物館主催の展示、講演会、講座が私の考古学知識の源、それを足で確かめる探検が最大の楽しみ。大和、摂津、河内の歴史の舞台をあちこち訪ねてフェイスブックにアップします。それら書き散らしていたものを今回「生駒西麓」としてブブログにします。いろいろな意見をいただければ嬉しいです。

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