八雲立つ風土記の丘

 意宇の東の守り神・揖夜神社から西に行き、松江市街地の南方、意宇平野の中央部辺りに入って行く。左側にひときわ高い茶臼山(標高171m)が見え、その向こうのなだらかな丘一帯に市街地が広がる。ここが意宇王の本拠地だ。

左:茶臼山を中心にした意宇王の本拠地。右:神奈備山である茶臼山。

山代二子塚古墳

 まず、出雲の国造である意宇王の墳墓だと想定される山代二子塚古墳、6世紀では国内最大級の前方後方墳で墳丘長94m、溝を含めると全長100mを超える。6世紀後半の築造で、吉備勢力が出雲から撤退し、意宇王が出雲全土へ進出しようとした時期に重なる。国指定史跡で墳墓周辺もよく整備されていて、気持ちよく古墳探検ができる。

1段目左:後方部頂から、同右上:後方部下から、同下:前方部から、2段目:前方部下から全体を眺める。

 墳丘に上り全体を見渡すと巨大な方墳の重なりであることがわかり、出雲の王にふさわしい大墳墓と思わせる。その後ろ、南東方向に三角山が見えるが標高171mの茶臼山で、「八雲立つ」意宇の神奈備山だ。全国でここだけという土層見学施設が後方部内にあり、実物の土の層がはっきり見え、黒色土と黄色土を交互に盛られ、突き固められているのが良くわかる。古墳の周辺、茶臼山の西麓には、6世紀前半から7世紀にかけて相次いで大庭鶏塚古墳、山城方墳などの大型古墳が築かれており、出雲版「王家の谷」と呼んでもよさそうな古墳群なのである。ちなみに、この古墳が考古学界で初めて前方後方墳と名付けられた記念すべき古墳でもある。

1段目:現物の土層、同右上:後方部下の展示施設入口、同下:前方後方墳の模式図。

八雲立つ風土記の丘

 あの「額田部臣」という銘文が彫られた大刀が発見されたことで有名な岡田山1号墳を見に行く。これは、「八雲立つ風土記の丘」という現地保存の施設内にある。復元された竪穴住居や掘立小屋などが建つ風土記の丘としてあるのだが、三内丸山や吉野ケ里遺跡などを観た者には物足りなく、それはパスして岡田山1号墳へ。方墳が二つ並んだような前方後方墳で、横穴式石室を持つという。石組みされた頑丈な造りの横穴石室があり、ちらちらと中を覗くことができる。ここであの大刀が発見されたわけだ。

1段目左:岡田山1号墳、同右上:風土記の丘、同下:展示学習館、2段目左から:岡田山1号古墳、銘文のある大刀が発見された横穴式石室入り口、同内部。

 関西から来たという古墳ファンの方にいろいろ教わったが、「見返り鹿」をぜひ見なさいと言う。それがミュージアムに展示されている。馬や犬、人型や相撲取りなど珍しい、リアルな埴輪が目を引くが、やはり彼の人が言っていた「見返り鹿」は秀逸だった。何とも言えない瞬間をとらえた表情、鹿のつぶらな眼まで彷彿とさせ、思わず「かわいい!」と叫んでしまいそうになる。

1段目:見返り鹿の頭部、同右上:見返り鹿、同下人型埴輪、2段目左から:馬、相撲取り、犬などの埴輪。

 展示物の中の八雲立つ丘のジオラマが良くできていて、茶臼山の神奈備山を中心に先ほど見た二子山古墳、意宇川が作る扇状地平野に出雲国府跡や条里制遺構、国分寺跡、丘陵地に蔵や寺院遺跡など、想像以上の多くの古代遺跡が点在している。大和の明日香のようなかなりな権力者が治めた地域であることがわかる。ジオラマの地を実地に見られるというのが、建物の屋上に設えられた展望台。上ってみると東の彼方、八雲立つ丘から意宇川河口の工場地帯が一望できる。どこにでもありそうな現代風景であるが、北側には茶臼山がやや扁平に見えるのである。

左:展示室屋上の展望台から茶臼山の遠望、右上:東方、意宇川河口部の遠望、同下:展示室のジオラマ。

額田部とは

「額田部」と言えば、推古天皇の元の名を額田部皇女と言ったこと、608年、推古天皇の時代に額田部連比羅夫が、隋の大使裴世清らを海石榴市に出迎えたことなどを知っているが、平群郡にあった額田部は推古天皇の経済的バックともいえるが、大和政権を支える大和在地の豪族だった。地方には国から国造や郡司などが派遣されたが、これに仕える在地の有力豪族がいて、出雲の意宇郡には大和の額田部と関係のある在地豪族がこの一帯の行政を預かる職責として「額田部臣」のポストを与えられた、そういうことだろう。後に見学した島根県立古代出雲歴史博物館に群像復元模型として、「「額田部臣」と刻まれた大刀を所有した人物は、地方を束ねる技量や地位を身につけるため、青年になると出雲を離れ近畿地方の権力者のもとで働かねばなりませんでした。・・・・・・外交使節を迎える式典に参列した晴れ晴れしい場面を日本書紀や出土品などをもとに再現した・・・」とあり、まさに隋の裴世清らを海石榴市に出迎えたというその場面が描かれている。大和政権は地方のかなり細かいところまで入り込んで治世していたことが分かる。額田部臣は中央政府の中下級官人でもあり、たびたび大和に出向くことがあり、出雲ならでは訴えもあって、悩ましき中間管理職といったところだろうか。

左:額田部臣らが外国使節を出迎える場面(古代出雲歴史博物館)。右:額田部臣と部民制の説明板(風土記の丘)。

自然的・地理的最適地の意宇の国

 意宇平野の南方には重々とする中国山地、北側は入海(宍道湖と中海)、それらを繋ぐ水門(松江市域)、さらに島根半島の佐太から古浦という日本海進出ルート抑えたことなどは、自然的・地理的条件による軍事的要塞、扇状地や砂州地における農耕生産や入海からの豊かな海産物、各港による軍事・交易ルートの確保など、豊かなこの地を治めるにふさわしい王権が成立するような好条件が整っていた。それが出雲の東側から出て出雲全体を治めようとした大きな権力・意宇王であり、大和政権や九州王朝などに匹敵すると言っても良いと思われるのである。

 出雲国府跡や条里制遺構、八束水臣津野命が「意恵・オエ」と発音し国引きの終了宣言をし、杖をつきたてたところに草木が生い茂ったという「意宇の森」も見たかったが、ミュージアムのジオラマで想像もつくし、時間の余裕もなく今回はカットして、意宇の国の守り神、神魂神社と熊野大社に向かう。

投稿者:

phk48176

古市古墳群まで自転車で10分、近つ飛鳥博物館まで車で15分という羽曳野市某所に住む古代史ファンです。博物館主催の展示、講演会、講座が私の考古学知識の源、それを足で確かめる探検が最大の楽しみ。大和、摂津、河内の歴史の舞台をあちこち訪ねてフェイスブックにアップします。それら書き散らしていたものを今回「生駒西麓」としてブブログにします。いろいろな意見をいただければ嬉しいです。

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