出雲の神の源流を訪ねる①

 いよいよ出雲の深奥部へと入って行き、大和政権が出雲進出する以前の神の姿を探る。意宇(いう)王が、東出雲の意宇国から出雲全土に進出した時、彼らの守り神が熊野大社から神魂(かもす)神社へと変遷していく。そして大和政権による出雲の統治以後は、須佐神社や出雲大社のあり方から見えてくるものがあろう。出雲の神とは何か、実際に訪れた各神社での印象から考えてみたい。熊野大社、神魂神社を前編として、2回に分けてレポートする。

熊野大社

 意宇川に沿って上流へと車を走らせるが、道路もよく整備されていて、風土記の丘から20分もすれば到着する。もっと鬱蒼とした森の中かと思ったが、民家も多くある平地にあった。神社前には穏やかに流れる意宇川があり、それに架かる橋の欄干の朱色が周りをひときわ明るくしている。

スサノオの謎

 駐車場にある熊野大社の説明書きには、「神祖熊野大神櫛御気野命(クシミケヌノミコト)を主祭神として・・・この御神名は素戔嗚尊(スサノオノミコト)の御尊称・・・」とある。この物言いに引っかかる。日本国的にはスサノオの方がビッグネイムだから、堂々と言えば良いのだが、主祭神をクシミケヌと先に言い、後に別名をスサノオと言う。スサノオはイザナギとイザナミの子、姉アマラスとともに大和政権が作った神話に登場する神で、元々出雲にあった神名ではない。大和政権に従属したからには大和の神を出さざるを得ないのだろうが、イザナギ、イザナミでなく、ましてやアマテラスでなく、かなり上位の神であるがスサノオを出す。出雲人の大和に対する恨みがこもっているのか、もっと別の隠れた意味があるのか、神社巡りの中で考えていきたい。

朱色の橋

 意宇川の上流に鎮座する熊野大神は、出雲大社とともに今も出雲国一の宮だが、古代では意宇の国の地主神で、水神であり農業神であった。その意味で、大和への従属後に付けられた「櫛御気野命」においても、「櫛(クシ)」は「奇」、「御気(ミケ)」は「御食」という意の食物神で、命の源を守る神として通じるものがある。

朱の欄干の神橋から少し高い隋神門を通して、拝殿まで真直ぐに見通せる。

 理屈はともかくとして神橋を渡りかけたが、神社の方を見るとびっくり。橋から入り口の隋神門、さらに拝殿が真直ぐに並び、太いしめ縄が二段重ねに見えるのである。同一平面ではそうならないだろうが、橋の面から小さな階段が二つ続き、下から少し見上げるような形になっていて、拝殿の奥まで見通すことができるのだ。この朱色の神橋を渡りながら少しずつ奥が見えてくる、そういう誘導の妙味が隠された設計になっている。橋の下を流れる意宇川は山中の深いところから流れ来て意宇の平野を潤すのかと思うと、川の水に感謝して心静かに神前に立てるような気がするのである。

神橋から左:山側、右:下流へと意宇川が静かに流れている。

響き渡る鳥の声

 隋神門を抜け境内に入るが、とても平板な感じで、人に威圧感を与える空間ではない。拝殿が切妻側にあるのでなく、軒のある側から入る平入になっているからだろうか。境内が少し高い本殿部分と回りの低い部分を区切る横長の線が扁平に見せるのか、何か落ち着くものがある。拝殿に向かおうとするとどこにいるのか、大阪では耳にしない鳥の声が境内に響き渡る。この鳥の声を聴けただけで、とても幸せな気持ちになってくる。本殿は大社造りだが、平入の拝殿からはその姿を覗えない。

本殿のある境内は一段高く、区切る石積の横線が空間を扁平に見せる。黒い鳥の声が境内に鳴き渡っていた。

鑽火殿

 スサノオ大神は、檜の臼・卯木の杵で火を切り出す法を教えられたので、熊野大社を「日本火出初社」とも言われる。火を起こすという文化の原初をつかさどる神で、出雲の神の祭礼はほとんど出雲大社に移ったが、火を起こす鑽火(さんか)祭の燧(ひきり)臼・杵の神器は鑽火殿に奉安され、10月15日の祭り当日、出雲大社宮司が神器を受け取りに来る。境内の左隅にそれがあり、萱葺きの屋根に四方の壁は檜の皮で覆われ、竹でできた縁がめぐらされた社は神秘的でもある。鑽火殿が今もここにあるということは、出雲の原初が熊野大社あることを暗に認めているということではないか。そんなことを考えながら大社を後にするのだった。

鑽火殿、夫婦和合連理の榊、お祓い所の石の祭壇。

神魂神社

 神魂(かもす)神社は八雲立つ風土記の丘の西側、田畑を挟んだ山裾にある。意宇王が本拠をこの平野に置いたとき、守り神を山奥の熊野大社ではなく、本拠近くに持ってきた・・・・・・。

風土記の丘の西、田畑を隔てて神魂神社がある。彼方にに見えるのは茶臼山。

神の畏れが伝わる石段

 参道の入り口に立つや大きな石の階段や樹林に何やら畏れ多さを感じ、厳粛な気持ちになる。決して歩きやすいと言えない石段の道を進むと、右に急なこれまたごつごつした石塊の階段が付いている。一つの石段の高さが30cmもあろうか、一段ずつ足を上げるだけで疲れる。登れるなら登ってみな、と参拝者を試しているような……。さらに石段の真上に拝殿が迫るように建ち、見上げながら登って行くと、この神さんは怖いぞ、という気になる。拝殿前は狭く、息も整わぬ間に柏手を打つことになる。この空間の圧縮感がえも言えず、神を畏れる緊張を強いる、そんな感じなのだ。

大社造りの原型

荒々しい石段を登って行くと拝殿が真上に迫ってくる。

 横に回ると拝殿とともに本殿が素晴らしい。大社造りの原型がここにあり、という感じで、しっかりした骨組みを持ちながらも荒々しさがある。本殿と拝殿を繋ぐ霧除けの屋根が拝殿に崩れ落ちるかのように見え、愛惜の情を抱いてしまいそうでドキッとする。裏へ回れば掘立て柱の構造がむき出しで、真ん中の心御柱と回りの宇豆柱はかなり太く感じる。ここにはすっきりスマートに見せようとする、近代的な見せ方はなく、古代の神の息吹そのものの表現であるように思う。説明板を見れば、鎌倉時代初期・正平元年(1346)建立、大社造りの古式に則っているとされ、最古の大社造りとして昭和27年、国宝に指定された。ほぼ700年前のものがそのまま目の前にある、700年前はこの荒々しさが人々の感性だったのだ、ということに感動してしまう。納得のいく国宝指定だ。

700年前の大社造りの荒々しさが目の前にあった。

神魂神とは

 案内板では、祭神はイザナギ・イザナミとされているので、熊野大社の祭神・スサノオよりは上位である。「出雲風土記」の神魂神は「古事記」の神産巣日神(カミムスビ)とされ、これは造化三神の一柱で、高天原を追われたスサノオに手を差し伸べ、大国主神に国づくりを命じるという最上位の神。高皇産霊神(タカミムスヒ)とともに「創造」を神格化した神であり、少なくとも出雲では最も根源の神だと考えられる。

左:貴布祢稲荷両神社(重文)、右上:杵築社(スサノオ)、伊勢社(アマテラス)、熊野社(ハヤタマ) など、下:荒神社。

 門脇禎二氏によれば、神魂神は意宇の王が出雲全土に進出するときの守り神で、出雲国の政(まつりごと)の祭神だった。意宇の地主神としての熊野神は豊穣な生産を祈念し、出雲国全体の安寧を守るのが神魂神だった。出雲国から言えば、神魂神の方が上位の神で、出雲の各地域を守る四大神(熊野、杵築、佐田、能義)を超える中枢神とした。

伝承される「形」

 神社境内の隅に竹と小木を組み合わせた鳥居があり、一段高いところに藁で編んだ、これも龍神を模したものか?これを竹の珊で囲い込んだ作り物がある。さらに奥には洞穴があり、ここから出てきた龍を退治して竹柵で囲い生け捕ったり、という感じのストーリーを想うが、果たして……? 揖夜神社でもそうだったが、時代とともに整備されていく神社でも、元の古い信仰を捨てがたく境内のどこかに残している。今では元の意味も分からなくなっているのだろうが、「形」を残している。このように伝承された「形」に神の畏れを抱く、そのことで歴史の意味を知っていくということが大事な気がする。

立ち木と竹の鳥居、縄の編み物、奥には洞穴が……。

投稿者:

phk48176

古市古墳群まで自転車で10分、近つ飛鳥博物館まで車で15分という羽曳野市某所に住む古代史ファンです。博物館主催の展示、講演会、講座が私の考古学知識の源、それを足で確かめる探検が最大の楽しみ。大和、摂津、河内の歴史の舞台をあちこち訪ねてフェイスブックにアップします。それら書き散らしていたものを今回「生駒西麓」としてブブログにします。いろいろな意見をいただければ嬉しいです。

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