出雲の神の源流を訪ねる②

 出雲の神が、吉備や大和の権力が入って来てどのように変容していくか、実際の神社を訪ねて自分なりに考えてみたい。山地に囲まれていたり、元は海だったという地形に大いに関係するのだが、そこには出雲独自の国づくりがあることを発見するのだった。

須佐神社

 スサノオが高天原を追い払われて根の国に降りた場所については諸説あるが、スサノオが活躍した場所の一つはこの須佐神社がある須佐の地域であるという。イザナギ・イザナミの3人の子はアマテラス、ツクヨミそしてスサノオだが、名の由来から考えてスサノオは「須佐の男」という意味で、天からの子ではなく、元々は根の国の土地の人間、須佐の地主神だったと考えられる。出雲神話が大和政権により創作された動機から考えて、大和が出雲に進出する時、土地の首長として道案内をさせた、つまり天と地上を繋ぐ役割を担わせるという意味で、スサノオを天上から地上に追いやったというふうに理解されるのである。

出雲への神門・須佐

 大和政権、その前には吉備の権力が求めたのは、出雲西部から日本海、さらに朝鮮半島に進出すためのルートの確保であった。安芸や吉備から三次を通り中国山地の谷あいを進み、神戸川の川筋を伝って出雲に出るための入り口がまさに須佐の地であった。出雲に出るためにはこの須佐をどうしても落としたかったわけで、かなりの抵抗もあったことから、荒ぶる神としてのスサノオが創作されたのではなかろうか。

須佐へ

 大和政権の出雲進出という前提から以上のように考えて、神戸川沿いの国道184号線を遡って行く。184号線は出雲市から三次を通りと尾道市を結ぶ、中国山地を横断する幹線道路。瀬戸内から出雲に抜けるにも、古代から開拓されたこのルートが最も速い道である。出雲市内からだんだん標高を上げていくと渓谷に入って行くが、これが立久恵(たちくえ)峡で、周りの風景も険しくなる。しばらく行くと一車線ずつ、道路は二手に分かれ、左車線は切り立った岩の下をくり抜いたトンネル道になる。ほぼ1時間も走ったころ開けたところに出るが、そこが須佐の町だった。

神戸川沿いの国道184号線は立久恵峡の絶景の中を通る。

 山間の谷深い所にあるかと思ったが、熊野大社と同様で川沿いの平地に神社が設けられていた。ここでは同一平面に、鳥居から隋神門、拝殿、本殿まで真直ぐ配置されている。本殿は、天文23年(1554)尼子晴久が改築、文久元年(1861)藩主松平定安が修造したもので、神魂神社のそれと比べ少々小振りだが立派な大社造りだ。

須佐神社のアプローチは真直ぐ。社の裏にある大杉は高さ9mで、樹齢1300年。

1300年の大杉

 それより驚くのは、祠の裏に立つ樹齢1300年と言われる大杉の大きさだ。巨大なだけでない。1300年という神社創建時からの歴史とともにあったことを思うと、大杉は須佐神社そのものと言ってよく、加賀藩が帆柱に欲しいと800両積んでも断ったというのは当然のような気がする。それほどこの地を誇りに思っていたことでもあるし、西出雲・杵築の神への道、神戸川に沿う出雲平野に下りていく道を神門道と呼ばれるが、須佐はその入り口の門、神門に当たるのである。古来、神戸川流域の集落を統括する役割の須佐国造を任じられていたが、スサ(須佐)は固有の地名で、大和政権はこの威力に押され、日本神話の主神であるアマテラスやツクヨミのような概念的な名辞でなく、地名に基づく神の名にせざるを得なかった。ここに大和と出雲の微妙な力関係を見るのであるが……。

神戸川の支流・朝原川が流れる須佐の町は、深い山々に囲まれて静かな佇まいをしている。

出雲大社

 熊野大社、神魂神社、須佐神社と、古代出雲の原点でもある守り神を見てきた者にとって、大和政権によって決められた新しい?「出雲の神」など見る意欲も減少してきたが、せっかくだからということで出雲大社に寄ることにする。須佐神社からは来た道の国道184号線ではなく西寄りの県道を下り、神西湖の西側を回り海岸沿いに出て稲佐の浜に向かう。

元海だった出雲平野は、全体の標高が10m以下。その北西端に出雲大社がある。

出雲平野の形成

 出雲平野はカシミール地図にはっきり表れているが、標高は10m以下のところばかりだ。6~7000年前の縄文海進で宍道湖も含め海だったが、それ以後、出雲平野の西側(神戸川)と東側(斐伊川)で河川の堆積物による三角州の形成が続く。特に西側は三瓶山の噴火で、その噴出物が神戸川を流れ下って三角州の形成を加速させた。神西湖は宍道湖と同様な成り立ちで、この地が海だったころの名残だともいえる。穏やかな湖面を眺めながら出雲市街地へと入って行く。広い川面に架かる橋を渡るが、その川が神戸川の最下流で、ほどなく海に注がれる。

神西湖を半周して市街地へ。神戸川を渡ると、島根ワイナリーのブドウ園が広がる。

稲佐の浜

 神戸川河口の少し北が稲佐の浜。この浜から南へ続く島根半島西部の海岸は「薗の長浜」と呼ばれ、「国引き神話」においては、島根半島と佐比売山(三瓶山)をつなぐ綱であるとされている。砂浜の彼方にぽこんと飛び出しているのが三瓶山で、この白い砂浜と三瓶山を結び付ける古代人の想像力になるほどと感心する。

稲佐の浜。南の彼方に三瓶山が見える。北側には弁天島の岩の塊が立つ。

 浜辺に降り立つと遠くに水平線、足元では静かに波が打ち寄せている。ああー、そうだ、今年初めて海を見るのだと気付く。大阪の平野に住む人間にとって、海を見ると感情が高ぶる。去年の秋、雲仙や長崎に観光して以来だが、海を見るのは年に2~3回か。ぶらぶら歩いていると突如岩の塊が浜辺に突っ立ち、逆光の中神々しい光を放っている。この岩の塊自体を御神体と見てしまうが、昔の浜はもっと後退していて、この岩の塊は海中にあって弁天島言われている。近くにあると御神体、遠くにあると神がいる島と見るのだが、見え方で神の在り方が変わる。国譲りの時、タケミカヅチがアメノトリフネと共にこの浜に現れて大国主に国譲りを迫る。また、10月の神在月に国々の神々がこの浜辺に集まるというのだが、波おだやかな浜辺にいると、神がすーと現れ、知らぬ間に消え去るという、移動する神への認識が生まれてきてもよい、そう感じるのである。

杵築の神

 神戸川流域は三瓶山噴火の噴出物により比較的に早く陸地化されるが、斐伊川は八岐大蛇伝説にあるように、古来より氾濫を起こしては流域に多大な被害をもたらし、ともに日本海に流れ込んでいた。こんな暴れ川と闘いながら農耕地を増やし徐々に小国ができつつあったが、それらをまとめる権力者が守り神としたのが杵築(きつき)の神であった。その神宝にまつわる出雲振根(ふるね)と弟の飯入根(いいいりね)の話。大和朝廷の命で神宝を受け取りに来たが、振根が不在で飯入根が勝手に渡してしまう。それを知った振根が飯入根を止屋淵(やむやのふち)に誘い出し殺す。この話を西出雲と意宇王の東出雲の戦いとされていたが、実のところは西の出雲=出雲平野での豪族たちの覇権争いの一つであるとする。後に振根も殺され出雲に大和政権が進出するのだが、その前に吉備により西出雲が抑えられていた。須佐神社で見てきたが、西出雲は元より吉備や安芸と中国山地を越え行き来が頻繁でその影響もあった。そのことから先に吉備に統治され、後に吉備を滅ぼした大和政権により統治されるとみた方が順当に思える。杵築の神は大和政権以後、出雲全体の守り神になったと言えど、その名はずうっと杵築大社であり、出雲大社となったのは明治4年(1871)からだった。

出雲大社

 アマテラスは大国主から国譲りを受け、そのお返しに「あなたは目に見えない世界を司り」「柱は高く太い木を用い、・・・天日隅宮作り、この天穂日(あまのほひ)命をして仕えさせ」、天穂日は神聖なる火を(せ)り出し、その火を守りその火によって心身を浄め大国主をお祭りしなさいと指令される。大国主はスサノオの6世の孫とされるが、出雲の国を作った神であり、後にアマテラスに国譲りをする。アマテラスを大和政権とすれば、歴史的には意宇の王が統一した出雲を召し上げられた、ということになる。そうすると、アマノホヒが起こす火は元々東の出雲にあったもので、肝心かなめの火を起こす道具が今も熊野大社の鑽火殿に献安されているのだ。今でも10月15日の鑽火殿に出雲の宮司が来て道具を受け取りに来る。

出雲大社のバックに八雲山が見える。色濃く繁る松並木から鳥居を潜れば、拝殿へは斜めに石畳が付いている。

 さて、出雲大社へ参拝するが、あまりに整然としすぎていて創始の面影もなく、さっさと境内を進む。松林の参道を過ぎ鳥居をくぐることになるが、ここでは鳥居と拝殿は真直ぐではなく斜めに通路が付いている。妻入りの拝殿には例の太いしめ縄がかかるが、何もかも巨大で圧倒されるばかりだ。それでも本殿に架かる斜めの霧よけの屋根の具合を見たいと、本殿を囲む瑞垣の奥まで行きたかったのだが、5時を過ぎていたのか、ロープが張られ立ち入り禁止。瑞垣の屋根越しに少し見られたが、神魂神社の大社造りのように情感を誘うことはなかった。帰りがけに、「結びの御神像」という大彫刻を見る。大国主の前に「幸魂」「奇魂」といった魂が現れ、それをいただく場面を表しているという。観念性の強い現代彫刻や抽象彫刻を見慣れている者にとって、神話が具象的に描かれているのが、逆に新鮮で、ストレートに訴えかけるものを感じた。

本殿の参拝所・八足門の脇には天皇からの御下賜金の木札が立つ。荒垣を出たところに、大国主が魂をいただく「結びの御神像」がある。

投稿者:

phk48176

古市古墳群まで自転車で10分、近つ飛鳥博物館まで車で15分という羽曳野市某所に住む古代史ファンです。博物館主催の展示、講演会、講座が私の考古学知識の源、それを足で確かめる探検が最大の楽しみ。大和、摂津、河内の歴史の舞台をあちこち訪ねてフェイスブックにアップします。それら書き散らしていたものを今回「生駒西麓」としてブブログにします。いろいろな意見をいただければ嬉しいです。

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