出雲の弥生時代を見に行く

 ちょっと時代を遡って弥生期の西出雲、銅剣が358本も出た荒神谷遺跡、四隅突出型墳丘墓群がある西谷古墳群などを見に行く。東出雲の松江から西出雲の斐川に向かうのだが、宍道湖の南側を走る山陰自動車道という高速道路が付いていている。距離にして25kmあろうか、山中やトンネルもあって走り応えがあった。今でこそ25分程度で行けるが、平坦な道だけではない、山も谷もあり結構距離があって、やはり出雲の西と東は別のところだと実感する。

荒神谷と西谷の位置図

出雲平野の弥生時代

 出雲平野は元海で、斐伊川と神戸川から運ばれる堆積土砂で埋められ陸地化していった。特に西側の神戸川流域は三瓶山の噴火による噴出物により埋まりいち早く陸地化し、三瓶火山が噴火した約3700年前にほぼ完成されたという。それほど大きな河川ではない神戸川は、火山噴火時に形成された扇状地を浸食して流れているが、微高地を乗り越えるような洪水を起こすことが少なく、生活の場として安定していたことが想像できる。神戸川の下流域の出雲平野にはたくさんの弥生遺跡ある。

左:6~7000年前の出雲。右:弥生時代(約2000年前)の西出雲の遺跡分布。

 一方斐伊川は暴れ川で、洪水は度々川の流れを変え、その都度流域の住民を苦しめた。近世になると川の流れを人工的に変えるようになり、寛永12年(1635)の洪水の際に行われた川違えは、神門水湖(現在の神西湖)を通じて日本海に注いでいた斐伊川を完全に東向させ、宍道湖に注ぐようにした。現在も宍道湖の水位により洪水が起こることがあり、洪水時に斐伊川の水を神戸川に放水する「斐伊川放水路」が整備された。

荒神谷遺跡

 中国山地の北端、出雲平野に幾筋も尾根が張り出すところの谷あいにそれはある。1984~5年、4列に並んだ358本の銅剣と、すぐそばに銅鐸6個と銅矛16本の組み合わせが見つかった。当時の私はまだ古代史に関心はなかったが、そのことは報道で知っていた。出雲神話という幻想的な歴史観しかなかった出雲に、確実に弥生時代があったことを強く印象付けたように思う。上記の銅剣、銅鐸、銅矛は、1998年一括して国宝に指定され、1995年に遺跡一帯に「荒神谷史跡公園」が整備され、2005年には公園内に荒神谷博物館が開館した。日本ならどこにでもある里山なのだが、この発見により一夜にして国宝、さらに国史跡に指定され、歴史公園になったのである。

上左:出雲平野と荒神谷遺跡の位置。上右:荒神谷の等高線模型。右下:荒神谷博物館。下は遺跡発掘現場の復元。左:358本の銅剣。右:銅鐸6個と銅矛16本の組み合わせ。

発掘現場を復元

 雑木林の丘陵地に囲まれた、懐かしさが残る里山の風景の中に、平屋建ての扁平な荒神谷博物館がある。その奥の谷あいに田畑が開かれ、右にため池の土手が伸びている。その雑木林の縁に沿った小道を行くと、さらに小さな谷あいがありその左側の山の斜面に、銅剣や銅鐸が発掘された状態で復元されている。反対側の斜面の見学ルートを上がっていくと、今まで本などで何度も見た、銅剣や銅矛が整然と並ぶ様子が手に取るように分かるのである。2~30m四方の小区画なのだが、この発掘現場を見せるためだけで、一体の山地が国に買い上げられ、当時の風景を復元した史跡公園ができたのである。古代史を覆す発見とはエライものである。

上左:荒神谷遺跡。上右:遺跡への里道。右下:遺跡発見発端の地の碑。下:遺跡発掘現場の現地復元。

 銅剣は長さ50cm前後、重さ500g余りと大きさもほぼ同じで、弥生時代中期後半に出雲で製作されたとみられている。銅鐸については、荒神谷の南東3kmにある加茂岩倉遺跡から、一遺跡からの出土例としては最多の39個口の銅鐸が発掘されているが、両遺跡から出土した銅鐸に共通して「×」印の刻印があることから、両遺跡の関係性が注目されている。2008年国宝に指定されたが、大半は出雲地方で製作されたと考えられているが、一部は近畿や北部九州で作られた可能性もある。銅剣にしても銅鐸にしてもこれだけ大量の遺物が発見されたことは、古代出雲の歴史に対する見直しが迫られる。出雲恐るべしである。

左上:ハス池から博物館を見る。左下:西谷池。中:荒神谷遺跡のある里山。右:古代農耕地。

西谷墳墓群

 出雲の旅の最初に訪れた荒島墳墓群造山古墳の南東にあった仲仙寺8・9号墳、宮山支群Ⅳ号墳が、四隅突出型墳丘墓であったが、いずれも弥生時代後期の築造だった。安来平野で勢力を広げていった王墓と考えられ、古墳時代以降、前方後方墳を築く東出雲を治める意宇の王へと引き継がれていく。それらは時間の都合で見学できなかったが、四隅突出型墳丘墓については、弥生時代の同時期の築造と見られる西谷(にしだに)墳墓群でたっぷり見ようと思う。荒神谷から中国山地北端の山裾を縫うように西へ西へと走り、斐伊川に架かる南神立橋を渡る。500mはあろうか、斐伊川はかなり広い川だった。

500年間にわたる墓地

 弥生時代には出雲平野の微高地にムラや小国が次々現れていて、弥生遺跡は数多くある。いち早くそれらの小国をまとめ全体を治めたのが出雲の王で、出雲平野を見渡せる西谷の丘陵地に巨大墳墓を築いたものとみられる。西谷墳墓群は、弥生時代の終わりころから500年間にわたって墓地だった。中でも2・3・4・9号墳は弥生時代に造られた全国最大級の四隅突出型墳丘墓で、古墳時代以降も中小規模の円墳や方墳、さらに山の斜面に横穴を掘る横穴墓などが造り続けられた。

左:西谷墳墓群4号墳。右下:3・2・4・9号墳の順に築造された。

西谷3号墳・2号墳

 西谷墳墓群は史跡公園「出雲弥生の森」として整備され、四隅突出型墳丘墓は「よすみ」という愛称で呼ばれている。駐車場側の入口から階段を上り、まず目に入ってくるのが4号墳。なだらかに伸びる墳脚から墳頂への緑の線が心地よい。次に少し大きい52m×42m×4.5mの3号墳。突出部を含め墳丘の裾周りの敷石と外周を取り巻く2列の立石が復元されている。舌のように伸びる「よすみ」の突き出しは、幅も広く意外に長く、イソギンチャクか何か地を這う軟体動物のような奇妙な形をしている。これはこれで独立した墳墓で、後に前方後方墳や前方後円墳などに展開していくように思えないのだが・・・・・・。

3号墳全景と墳丘裾の貼石・立石・敷石を示す。

 墳丘上中央には竪穴式の埋葬施設で木棺が埋められ、墓域四隅に太い柱が立てられ、その周りで葬送の儀式が盛大に行われたという。この墳頂から出雲平野が一望され、北側には島根半島の山々が見え、東側には中国山地北端部の山並みが続くが、その中の三角山が出雲郡の神名火山・仏教山であろう。

3号墳の墳頂、竪穴式墓の周りに4本の柱が立つ。右上:東方、左の三角山が仏教山。右下:北東には出雲平野、彼方に島根半島の山々が見える。

 3号墳の北側には少し小さいが、敷石や張石が完全に復元された2号墳があり、墳丘の土手横から内部に入れて埋葬施設を見ることができる。木棺の中で眠る死体が浮かび上がってくるホログラムは、ゾクッとして、ここまでやるか、と感心させる。9号墳(62m×55m×5m)という一番大きい「よすみ」もあるが少し遠いので割愛。

2号墳の外観。下左:墳丘内展示の石棺ホログラム、壁面に地層の復元図。下右:発掘時と発掘前のの2号墳の様子。

「よすみ」のジオラマ

 出雲弥生の森博物館、これは出雲市立なのだが、同館内に文化財保護があり、職員が丁寧に説明してくれる。展示の中でも「よすみ」の上で催されている葬送の儀式のジオラマは圧巻だった。墳丘上では4本の柱を立てようとしている男たちの作業、衝立を隔てて、死体の埋葬が済み今まさに石蓋を閉じようとしている葬儀の模様、墳丘下では親族や部族のものだろうか葬儀後の仕上の準備をしている場面など、時間経過を追いながら王の葬送をジオラマ化している。古墳時代、大規模な前方後円墳での大王の葬送の儀では、前方部の一段高い埋葬施設に向けて坂状になった前方部に部族の者らが並び死者を見送るという形だが、偉大だった王を崇め奉ってひれ伏すという意味合いが強い。「よすみ」の場合、埋葬と葬送参列者が同じ平面なので、崇めるというよりも弔うという、より亡き王に対す親愛なる情が出やすいのではないか。何か弥生の人々の大らかさがにじみ出ているように感じるのだが、どうだろうか?

出雲弥生の森博物館内。3号墳と思われる「よすみ」の葬送の儀のジオラマ。右下は埋葬施設・石棺内の様子と博物館外観。

弥生期の自由な造形性

 「よすみ」は、東の荒島墳墓群でも西谷でも、自らの支配地の平野を見渡せる丘陵上に築造されているが、弥生後期には出雲の東と西に大きな政治勢力が形成されたものと考えられる。数年前に吉備地方を訪れたが、墳丘頂上に木棺を取り囲むように五つの巨石が立てられ、円墳の南北に二つの突出部をくっ付けた奇妙な形をした双方中円形墳丘墓と言われる楯築墳丘墓にはびっくりしたが、それと同時期に存在したと推測されている。弥生期のこの奇妙さ、自由な造形性に惹きつけられる。

吉備の楯築墳丘墓(2020年)と山陰地方の大型古墳の分布図。

 西谷3号墳丘墓の埋葬施設が楯築墳丘墓のそれと同じような構造の木槨墓であり、儀礼に用いた土器の中に吉備の特殊器台・特殊壺や山陰東部や北陸南部からの器台・高坏などが大量に混入していた。西の出雲は早くから吉備の影響があったことがわかるが、「よすみ」にもその影響はあった。さらに、東の出雲では「よすみ」の後、前方後方墳が中心だったが、西では出雲最大の前方後円墳・今市大念寺古墳をはじめ多くの前方後円墳が作られ、大和政権の影響が強くなる。弥生期以降、西と東の出雲では、別々の影響関係の下、それぞれ独自の発展をしていくことになるのは、先に述べた章で紹介したとおりである。

止屋淵の伝承地

 日本書紀にも書かれる出雲振根(ふるね)の説話。振根はその一族とともに出雲大神の神宝を司っているが、振根が筑紫に行っている間、弟の飯入根(いいいりね)が兄の帰国を待たず神宝を大和朝廷に献上してしまった。怒った振根は飯入根を止屋淵(とまやのふち)に誘い出し謀殺した。この兄弟による争いを西の出雲と東の出雲の争いととらえず、西の出雲における勢力争いととらえる。さらに振根は周辺勢力を滅ぼし出雲の王となったが、後に大和政権により滅ぼされるとされるが、実際には、5世紀以降強大になりつつあった吉備の勢力が、瀬戸内の抑えと同時に北の大陸への窓口求めて出雲に進出し、出雲振根を滅ぼし、出雲を支配したとされる。この時の出雲とは、出雲全体ではなく、斐伊川、神門流域の出雲平野を中心とする西の出雲であった。この争いの元となった現場・止屋淵の伝承地に行ってみた。

止屋淵の伝承地。林の中に古来の祭壇がある。

 西谷墳墓群から南東500mほどのところですぐに行ける。田植え前の水田の広がる一画にこんもりした林があり、伝承地の説明看板が立つ。林の中に入ると、石に御幣と葦か何かの穂先をつみ取った箒のような飾り物が結わえてあるだけのご神体が壇上に2基据えられている。神社の祠ができる以前の祭り方で、元々の池(淵)の神さんを祭ったものとみられる。

上左:放水路堤防から見た止屋淵伝承地。上右:斐伊川放水路分流堰と放水路。下:放水路は神戸川に合流する。

 この付近は「淵」という名称があるくらいだから、暴れ川の斐伊川によく浸かっていたことだろう。そこで、斐伊川の増水時には、日本海側に河口のある神戸川に水を流す放水路が整備された。全長13.1kmもあり平成25年に完成した。斐伊川からの取り入れ口である分流堰がこの付近にあり、放水路の堤防が止屋淵伝承地の真横にあって、昔とは淵の風景が全く変わってしまったのだろう。

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phk48176

古市古墳群まで自転車で10分、近つ飛鳥博物館まで車で15分という羽曳野市某所に住む古代史ファンです。博物館主催の展示、講演会、講座が私の考古学知識の源、それを足で確かめる探検が最大の楽しみ。大和、摂津、河内の歴史の舞台をあちこち訪ねてフェイスブックにアップします。それら書き散らしていたものを今回「生駒西麓」としてブブログにします。いろいろな意見をいただければ嬉しいです。

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