島根半島を巡る

 いよいよ出雲の旅も最終章です。出雲の繁栄を支えた大陸からの先進文明、その取り入れ口だった外洋に開かれた港を見てみたい。西出雲の港は日御碕、東出雲・意宇の国は恵曇港、それぞれ島根半島の入り江にあったのだろうが今はその面影はない。海のかなたを眺めながら、往来でにぎやかだった往時に思いを馳せたい。

日御碕

 吉備が求め、後に大和王権が出雲を制覇した目的は、出雲の日御碕から朝鮮半島への外交ルートを確保することにあった。日御碕から朝鮮半島の東海岸への距離はほぼ300kmで、また出雲から大和へは直線で300kmだが、海路の方がはるかに速い。弥生時代からすでに朝鮮半島の東海岸、主に新羅へのルートが開発され、おかげで出雲がどこよりも早く独自な文化を形成していた。

出雲から朝鮮半島東岸まで300km大和へも300kmの距離にある

 訪れた日は良く晴れた日で見晴らしがきいた。稲佐の浜から日御碕灯台まで海岸沿いの道を上って行くが、くにびき海岸のはるか南に三瓶山がヒョコッと顔を出している。ヘアピンカーブを何回も曲がっていくと日御碕灯台に行きつく。

稲佐の浜から日御碕まで海岸べりの崖の上を行く。南彼方に三瓶山が見える。

 出雲日御碕灯台は、塔高が43.65m、海面から灯火までは63.30mあり、明治36年(1903)に設置された。石造灯台としては日本一の高さだという。灯台下の岸壁は柱状節理がきれいな石英角斑岩で、日本海の外洋にさらされ波も高い。岬周辺には入り江も多く、波が静かならどこにでも船を止められる天然の港が幾つもある。朝鮮半島から最も近い日御碕の海岸には、朝鮮と出雲を行き来する船で賑っていたに違いない。

日御碕灯台は柱状節理の岸壁の上にある。北東には朝鮮半島、東の海岸伝いには船も着岸できる浜もある。

出雲平野・宍道湖

 宍道湖の大きさを実感してみたいと、宍道湖の北岸に沿って松江まで行くことにする。一畑電車の鉄道に沿って国道431号線を走る。出雲平野の北隅を西から東に横断することになるが、めざす宍道湖の湖面にはなかなか到達しない。ペタッとした出雲平野が結構広いことを先に実感することになる。宍道湖のほぼ中間の道の駅「秋鹿なぎさ公園」で休憩するが、波穏やかな宍道湖の南岸に先日来訪れた東出雲と西出雲、その間に山々が長く続いていることに思いを馳せる。15kmはあろうか、この距離の隔たりは違う国と言ってもよいくらい文化圏が分かれるだろうことを思う。早くから陸地で洪水被害の少ない東出雲の方が先に開けていて、出雲全体を支配する力があったことだろうことがわかる。

宍道湖北岸まん中辺りから南岸を見る。出雲の東から西を結ぶ山々が一望できる。

佐陀川の開削

 東の出雲、意宇の王が求めた外洋への拠点港・恵曇(えとも)浜を見てみたい。そして東出雲の北の守り神・佐太神社にも行きたいと、佐陀川手前の交差点を左へと曲がる。

宍道湖から日本海を結ぶ佐陀川周辺には、田植え前の水田が広がる。

 江戸時代、宍道湖の出口は松江の大橋川と天神川の二つしかなく、出雲平野の斐伊川等の洪水のときには、宍道湖の水位は2m程あがることもあり、湖周辺に水害をもたらしていた。城下町松江でたびたび起こった水害を防ごうと、清原太兵衛は宍道湖からあふれた水を全長8kmに及ぶ佐陀川の開削によって日本海へ注ぎ、それまで沼地であった地域を水田に変え、さらに松江から恵曇港まで水運を開いた。佐陀川に沿って北上していくが、真直ぐな水路とその周りに矩形に整備された田んぼが川を挟んで整然と続く。田植え前であったが、水を張られた水田が繰り広げる見事な田園風景がそこにあった。

清原太兵衛の業績

 佐太神社手前の、真直ぐな水路が少し曲がり、山間に入って行くところに清原太兵衛の銅像が立っている。左手を差し出し人々に指示を与える姿は凛々しくもあり、大事業を完成させた誠意の人のように見える。その指が差す佐陀川の堤まで降り水面を見ていると、ゆっくりだが南の方向に流れているように見える。宍道湖の水を流すなら北向きに流れなければならないと考えるが、今は洪水期ではない。カシミールの高低地図を見ると、宍道湖河口から恵曇の港まで、ほぼ0~1m程度の、つまり高低差のない0mの標高を維持しながら川筋が付けられているのだ。洪水時は当然湖の水位は高くなるので自然と北向きに流れ、普段はどちらでもない方向になるのだろう。

清原太兵衛翁銅像とその近くの佐陀川周辺の田園風景。

佐太神社

 佐太神社は出雲国四大神をまつる神社の一つで、 クマノ=熊野大社、キツキ=杵築(出雲)大社、ノギ=能義神社、そしてサタは佐太神社で、それぞれ南・西・東そして北の出雲の各地を守っている。意宇の王が、吉備勢力が出雲から撤退した後出雲全体を掌握することになるが、以上のような出雲の四大神と、それらを超えるマツリゴト=政治の神としてカモス神を位置づけ、神魂神社を中心に信仰の体制を整えていった。その意味では佐太神社は意宇の王の出雲にとって重要な神であると同時に恵曇やその北方の手結の港を拠点に朝鮮半島との外交を管理していくうえでも果たす役割は大きかった。

三つの大社造りが並ぶ佐太神社はシンメトリカルで美しい。

 佐陀川の開削、水田の開拓事業のすばらしさに感動しながら、佐太神社へと向かう。晴れ渡る空の下、佐太神社は清々とした明るさがあった。正中殿を中央に北殿、南殿の三つの大社造りが並ぶ三殿並立という建築様式で、正面から見ると 3社が並ぶシンメトリーの形が壮大で美しい。平成28年に式年御造営が完成したばかりで、建物はまだ真新しい。祭る神はサルタヒコを主神に、イザナギ、イザナミ、アマテラスにスサノオなど、古事記、日本書紀で整備された大和の神々のオンパレードだ。明治維新時に祭神を猿田彦命と明示するように指示された際、神社側は一旦それを拒んだが、後に従った、ということのようだ。

岩境の空間が 

 境内の南方奥に石段が付いており、それを上ったところに岩を組み合わせただけの原始的な祭祀場、つまり磐境(いわさか)があった。母儀人基社(はぎのひともとしゃ)と言い、子宝、安産の神さんとして信仰が厚い。山の中腹の木立に囲まれた空間に十数個あろうか、岩石が無造作に置かれているだけだが、何かドキッとする、神秘性を感じる。

原始的な祭祀場、磐境の母儀人基社と境内にある北末社と弓石と呼ばれる石組。

 再び境内に戻ってゆっくり見ていくと、拝殿に上る石段の左下に、何やら磐境のようなものがある。長短の二つの石が突っ立っているだけだが、お互いが関係を持つのか持たないのか、微妙な関係が見え隠れしおもしろい。岩を置くことで祭祀空間を作った古来の祭祀場の名残だと思われるが、どうだろうか。揖夜神社、神魂神社などでも見てきたが、神社が年月を経て更新されて行っても古い祭り方が残されている、罪滅ぼしの感覚がそうさせているように思えるのだが……。 

恵曇港

 佐太神社からさらに北へ、佐陀川に沿って走る。流れは変わらず緩やかだが、岸に係留されている船が多くなってきたなと思ったらすぐ恵曇の町に入った。さっと視界が開け恵曇港の防波堤が見えた。岸壁に数隻の漁船が停泊する、どこにでもある小さな漁港だが、古代には朝鮮半島と盛んに行き来した「国際港」だった。

 島根半島の日本海に向けた港は、大和王権も恐れた出雲の国力をもたらす基でもあり、大陸の国々の先進文化・文明を取り入れる玄関口、この港なしには出雲の繁栄もなかったと言えるだろう。そんなことに想像を巡らし、出雲の古代史を探る旅を終えたいと思う。

投稿者:

phk48176

古市古墳群まで自転車で10分、近つ飛鳥博物館まで車で15分という羽曳野市某所に住む古代史ファンです。博物館主催の展示、講演会、講座が私の考古学知識の源、それを足で確かめる探検が最大の楽しみ。大和、摂津、河内の歴史の舞台をあちこち訪ねてフェイスブックにアップします。それら書き散らしていたものを今回「生駒西麓」としてブブログにします。いろいろな意見をいただければ嬉しいです。

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