欠史8代天皇の宮跡と陵墓
数年前、ブログ「葛城一族の跡を訪ねる」の一環で、欠史8代天皇の宮跡と陵墓を巡ったが、地域を葛城に限ったことで、それ以外にある宮跡・陵墓は後回しになっていた。今回、奈良市内に行く機会があったので、開化天皇について調べてみた。開化天皇は神武天皇を初代として9代目となるが、10代目は崇神天皇で、これ以降の天皇は実在したとされる。欠史天皇の存在は不確かであるとしても、日本書紀・古事記にも載る天皇として、何らかの大王的な存在であったのではないか。宮跡または墳墓については宮内庁が管理しているのは、天皇の活動を物語る痕跡としてそのように指定することに、大和を治めた実績がなくても、また大和王権に直接つながらないとしても、何らかの意味があるからだろうと思われる。
葛城、大和平野南部に点在する神武天皇と欠史天皇の宮跡と陵墓。1=神武天皇、 2=綏靖天皇、3=安寧天皇、4=懿徳天皇、5=孝昭天皇、6=孝安天皇、8=孝元天皇 〇・・・宮跡 ▢・・・陵墓
欠史8代天皇の宮跡と陵墓のうちほとんどのものが葛城地域内にあるのだが、7代孝霊天皇については、片丘馬坂陵(王寺町本町)、黒田盧戸宮(田原本町黒田)、9代開化天皇については、他説もあるが、春日率川坂上陵(奈良市油阪町)と春日率川宮(奈良市元子守町)とされる。今まで葛城一族の活動の一環として欠史8代天皇を見てきたが、葛城以外にある事績については少し違った視点で見ていかなければならないだろう。後に平城京となる奈良の地に宮を開き、そこに眠る開化天皇について、その周辺を歩き回ることによって何らかの感触が得られるものと期待している。
奈良町を行く


JR奈良駅を降り、観光客でにぎわう三条通を東へ、緩い坂を登りながら興福寺方面に向かって奈良町を歩く。コロナも明け観光客が戻ってきた感があり、外国人も含め結構人通りは多い。興福寺への中ほど左側に御陵への入り口がある。羽曳野の古市古墳群のように外濠の堤があるとかの風景ではない。建物が建て込んでいる奈良町の中に御陵があるなんて思ってもみなかった。その反対側を見るとビルと寺院の間に細い路地の入口が見え、「おいで」と誘っている。地図には、その先に開化天皇が政をした春日率川(いざかわ)宮跡とされる率川神社、があるようだ。




率川神社
神社の裏側を取り巻くように路地が通じていて、何回か曲がると広い道路に出る。そこが正面の入り口だった。説明板には、推古天皇元年(593)大三輪君白堤が勅令によって創始した奈良市最古の神社などと由緒が書かれているが、開化天皇の春日率川宮だったことは一切触れていない。一間切妻の庇が付いた妻入りの春日造が三棟並ぶ立派な本殿が建つが、古い奈良の町ならよくある神社のように見える。




率川神社は大神神社の摂社で、三輪山で摘まれた笹百合がこの神社に届けられる三枝祭は盛大で、ゆり姫稚児らの行列が町中を巡る。三つの春日造は、狭井大神を父とする父・母・子の三神で、別名子守明神とも呼ばれ、安産・子育て祈願のご利益がある。本殿前の拝所に雨がかからないようにと屋根が掛けられているが、そのおかげで本殿の屋根の部分が拝見できない。見栄えよりも参拝者を気遣う実質尊重ということか?撫でれば「お金がかえる」、「幸せがかえる」などという「かえる石」もある。奥には神社経営の契約駐車場があり、車は日々大通りから鳥居をくぐり、境内を横切り駐車場へ向かうことになるのだが、交通安全のご利益もありそうだ。神社境内をくまなく探ってみたが、現生利益の効能を謳うばかりで、開化天皇の春日率川宮の形跡は全く見られなかった。




開化天皇陵
再び三条通りに出て、先ほど通りかかった御陵に向かう。開化天皇陵、正しくは第九代開化天皇の春日率川坂上陵に比定されている。通りから外れ、ビルに挟まれた参道を参拝所まで進むが、雑踏とは切り離された厳かな空間が出現する。参拝所周りの防備は完ぺきで、墳墓内に立ち入るスキがない。仕方なく元の通りへ出て、遠巻きにでも墳墓の周りを一周できないかと地図とにらめっこしながら、少し東のビル裏の路地に入ってみる。





先に霊巖院という浄土宗の寺があり、奥に墓地が広がっている。墓の縁まで行くと先ほどの参拝所の垣根がすぐ下にあり、古墳が一望できた。墳墓の周りには濠があり細い堤が巡らされているようだが、そこへは入られないよう塀がきっちり立っている。全景が見えるものの、前方後円墳とも思えないのだが、もう少し先を観たいが行き止まり。境内にある石塔は見事なもので、きりっと立つ姿は清々しい。名残惜しいが寺を辞退し、今度は率川神社の前を通っていた「やすらぎの道」と呼ばれる大通りまで出る。





饅頭の塚
高天の交差点が見える少し手前に「饅頭の祖神 林神社」なる標識に釣られて西に向かう参道に入る。縣社社漢國神社の標識もあり、開化天皇陵の近くには行けそうである。漢國神社は鬱蒼と木々が茂るが、本殿の脇に「饅頭塚」とあり、木の柵で囲んだ中に円い、それこそ饅頭のような形の石が横たわっている。境内社として林神社があり、日本で初めて饅頭の製造を始めた人物として知られる林浄因(リン・ジョンイン)を祭る。日本で唯一の饅頭の神社で、林の命日である4月19日には、「饅頭まつり」が行われ、全国各地の菓子業者が神前に自家製の銘菓を献上するというが、たかが饅頭と侮れないものがある。




念仏寺
また表通りに出て大宮通と交わる高天交差点に差し掛かるが、ここを右に行けば近鉄奈良駅で、後方に若草山が見えている。左へと坂を少し下ると、大坂冬の陣で敗走した徳川家康が落ちのびた寺として有名な山の寺・念仏寺があった。立派な門をくぐると、だだっ広い境内を囲む塀沿いに大きな緑が見える。これが開化天皇陵の北端部分で、先ほどの霊巖院で見た陵墓の続きが見られる。塀の南端まで行くと、そこが霊巖寺との境界だった。





前方後円墳?
今までいくつか欠史天皇時代の墳墓を見てきたが、前方後円墳と確定されるものはなかった。開化天皇陵の説明板には全長100mの前方後円墳と書かれていてちょっと疑ったが、幕末の文久年間に修復が行われ、前方後円墳の形に整えられたという。念仏寺まで来て、一応墳墓の東側の全体を見たことになるのだが、前方部と後円部のつなぎ目であるくびれが確認できず、見た目には楕円状の大きな土盛にしか見えない。どうも前方後円墳というのは怪しい。


今辻子町
大宮通を少し下り、左折し今辻子町の住宅街に入って行く。はて「辻子」とは?私の苗字に辻が入っているので興味があるのだが、「ずし」と読む。十字路の「辻」から分化し、細道、小路、横町の意味にも用いられ、10世紀の平安京にはすでに辻子があったという。つまり大阪でいう「路地」のことで、それほどこの辺りには長屋などの小住宅が軒を並べていて、その間の細い道が縦横に通っていたのだろう。と、昭和36年当時の航空写真を見るとまさにその通りで、大宮通の大路を離れたこの辺りに棟続き長屋状の住宅がびっしり並んでいる。今は戸建て住宅が並んでいるが、その中でも登録文化財に指定されている中川家住宅は、大正初期の建築で、2階の虫籠窓、通りに面した平格子と出格子がきれいな町家だ。しかし、路地を通して奥の方を見ると、長屋風の住宅もいくつか残っているようだ。というように御陵を取り巻くように住宅が並び、建物の屋根越しに御陵の緑が垣間見られるだけで、陵には近づくことができない。






古墳のあたま


奈良駅に向け帰る途中、御陵の北端に接し、大宮通に面したビルの1階に「古墳のあたま」という占い店があるのを見つけた。周辺にはどこにでもありそうな店が並んでいるが、この御陵を意識してネーミングされているのに感心した。開化天皇が存在したかどうかの不確実さ、町中に突然現れる緑の山、そんな墳墓の不思議な魅力に誘われて占い店を出したのかどうか知らないが、今まで見てきたように、昔からこの墳墓の周りには、お寺やお墓、神社や饅頭塚なども集まっていた。興福寺や春日大社が奈良の地を開拓する以前からこの墳墓はあったとみられるが、今も不思議なものを寄せ集める魅力があるのだろう。(探検日:2023.6.4)
「葛城一族の跡を訪ねる」シリーズでは、秋津洲と呼ばれる葛城の麓から大和南部の平野一帯は、事代主を祭神とする鴨系一族の耕作地で、それを高産霊系の葛城一族が統治し、葛城王朝として支配地を広げていった、と説明した。この生産力を背景に欠史8代の内6代までの天皇の宮と墳墓は畝傍山の辺りから葛城山麓と秋津洲にかけて築かれてきたことを見てきた。
鳥越憲三郎先生によると、5代孝昭天皇、6代孝安天皇の宮、陵墓ともに秋津洲にあることから、葛城一族はこの頃、葛城山麓から大和南部の平野部を完全に政権下に治めたとする。7代孝霊天皇の宮は田原本町、陵は王寺町にあることから、大和平野中央部への展開があり、8代孝元天皇は、宮、陵墓ともに飛鳥の地にあるが、9代開化天皇になると宮、陵墓ともに奈良市内に置いたということを考えると、葛城政権はついに大和全体を統治することができるようになったと説明されている。10代崇神天皇の宮、陵墓ともに大和桜井にあり、その後は史実が示す通り、大和政権が大和盆地南東部で確立されていく。その間、葛城王朝が滅んだことになるのだが、政権交代の争いがあった事実はなく、7代から9代にかけて葛城勢力は大和へ進出するとともに、大和政権への権力移譲を速やかに準備していったのだろうか。謎が深まるが、次回は少し時代をさかのぼり、7代孝霊天皇の事績を巡ることにする。
読ませていただきました。
ありがとうございます。貴重な古代歴史の研究です。ご自身の足で確認された記録に敬意を表します。
コメントありがとうございます。これからもよろしくお願いします。