孝霊天皇の陵墓と宮跡を訪ねる

 孝霊天皇などなじみのない天皇だが、その子どもにはいささか興味がある。大物主神の妻となり箸墓古墳に眠るとされる倭迹迹日百襲姫 (やまとととひももそひめ)命。吉備津彦(きびつひこ)命は四道将軍の一人で西道に派遣され、出雲振根を誅殺し、弟の稚武彦(わかたけひこ)命とともに吉備国を平定したと伝えられる。邪馬台国の卑弥呼はともかく、皇女、皇子ともに、大和国の創始や出雲の支配にかかわる存在で、彼らの父親である7代孝霊天皇は葛城の地から大和平野へと進出し、子どもたちが大和や出雲に進出する礎を作った、とも言えるのである。そのことを証明するように、宮跡が大和盆地の中央部にある田原本町の黒田、陵墓が王寺町にあるのだ。

孝霊天皇陵

 7月初め、梅雨の晴れ間を選んで古代史探検に出かける。朝から暑い日で、探検が午後まで延びたらどうしようと思案もしながら、JR王寺駅から歩き始めるのだった。

 王寺駅はいつも乗換駅で、各停しか止まらない柏原駅から奈良へ行くのに、いったんここで降りる。また、信貴山や平群などへ行くときは近鉄に乗り換える。ということで、あまり王寺の町など歩いたことがないが、王寺駅南口からすっかりビル群の町並になっている南方に向かって歩き出す。すぐに大和川の支流・葛下川の堤防が行く手を阻むが、堤防上は遊歩道で、川を見ながらゆっくり歩ける。信貴山麓をバックに大和川と川を越えた南側の丘陵地が一望される。その頂に孝霊天皇陵がありそうだ。同じく山の中にある奈良県立王寺工業高校は試験休みなのか、この時間に学校に行き帰りする生徒もいる。

古墳への山道を歩く

 葛下川に架かる歩道橋を渡るとすぐにアンダーパスのトンネルに入り、そこを抜けると車が走る道路が付いている。坂道を上るが、左手に山中に入る階段が付いていて、これかと上り始める。梅雨のど真ん中で、蒸し暑く、汗がたらたらと止まらない。王寺工高の校門に差し掛かり、さらにその奥のグランドの周りを半周して住宅街に入る。それらの住宅の裏に御陵らしき林が見えるが、鬱蒼とした密林で、ここからは入れない。前方後円墳ならここは後円部で、拝所は前方部なので半周回らなければならないと推測するが、その通りで、少し引き返し墳墓のドテッパラ部分の崖下を歩くことになる。

山の地形を利用した孝霊天皇陵

 数十年の年月も経っただろう戸建ての住宅が並んでいて、その一軒の玄関先で箒を持つおばさんがいた。「暑いですねえ、孝霊天皇の参拝所はどこでしょうかね?」と聞くと、「もう少し行くと右側に拝所への階段があって、昔は古墳の周りをぐるっと回れて、この土手の上まで来れるんですがね、今はどうやろ、草で行かれへんかも知らんけど」と教えてくれる。地元情報は大事で、教えてもらった通りにいくと、果たして御陵の入り口にたどり着けた。「孝霊天皇 片丘馬坂陵」とある。ウグイスの声に送られてさらに石段を上ると立派な参拝所があった。山の地形を利用し、周辺を改修して古墳の形に作り上げたという感じだが、果たしてどんな形なのだろうか。

墳墓周りを一周する

 拝所の右隅の柵が途切れた所に「立ち入り禁止」看板があるが、人は出入りしているような雰囲気もあり、かまわず入る。陵域を囲むコンクリ柵に沿って上って行くことになるが、道は歩くのに十分な幅があり、数週間前に草も刈られているようで難なく歩けた。南の方角に王寺町の住宅街が広がるのが見える。そうこうすると道は円を描くようになり、先ほど行き止まりになった住宅の裏側を通ることになる。この辺りが一番高いところで、円を回り込むと今度は下りになる。外周に外濠などの形跡はなく、また前方後円墳のようなくびれもなく、開化天皇陵で見たような、だらっとした楕円形に思える。下った拝所に近いところに一段高い土盛があり、そこが埋葬地なのかもしれない。木がなかったら、この頂からは四方八方に見晴らしが効いて、この地域を支配下に置く大王の墳墓にふさわしい位置だし、大きさだと思う。 一周回って来てまた拝所にたどり着いたが、単に山頂を囲っただけなのか、御陵の形に成型したのだろうか、よくわからないまま石段を下りるのだった。

聖徳太子の愛犬、雪丸

 行きは西側から攻めたのだが、帰りは東の住宅街を通って王寺の駅まで行くことにする。旧村の古い民家と新興の住宅が入り組んでいて、行きのような樹林の日影がない。天日干しされるがごとく、強い日差しの中をてくてく歩くのだった。王寺の次の駅は法隆寺だが、この辺り一帯は聖徳太子にゆかりのあるまち町だ。王寺町の町おこしのキャンペーンマスコットなのだろう、聖徳太子の愛犬、雪丸が立っている。聖徳太子に愛犬がいたということは聞いたことはないが、ペットブームの今だから許される歴史の創作だろう。

孝霊天皇の黒田廬戸宮跡

 孝霊天皇の黒田廬戸宮跡へ向かうため、今度は近鉄田原本線の始発駅・新王寺駅に向かう。JR王寺駅南口からエスカレーターで上り線路を跨ぐ陸橋を渡り、北側に出る。いかにもローカル線の様子の近鉄支線だが、車両はいつも乗る普通の近鉄電車だった。信貴山や生駒、平群に行くには、ここで降り近鉄生駒線に乗り替えなければならない。田原本線と生駒線を続けて乗る人のニーズは高くない。どちらの線に乗ってきても(新)王寺で降り、JRに乗り換え大阪市内方面に向かう人が圧倒的に多いだろう。金のかかるような両線を繋ぐ工事をする必要を感じないのだろう。

黒田大塚山古墳

 馬見山古墳に行く時の最寄り駅・池部を通り、但馬の次の黒田駅で降りる。テレビがまだない一昔前に戻ったような町並みが続いている。そこを100mほどで右に曲がり、しばらく行くと何やらこんもりした土盛が現れる。これが黒田大塚山古墳、れっきとした前方後方墳で、古墳時代後期の築造だ。

 周濠を含めると全長86m、墳長70m、前方部高さ7.7m、後円部高さ8.2mの2段築成の墳丘とされるが、江戸期に二筋の大溝を付けるため墳丘が大幅に削られたという。今の倍ほどのボリュームがあった築造時の大きさをイメージしながら墳丘を見て回る。墳丘上に立つと、京奈和道の高架道が視界を横切るが、四方を見渡すことができて、ここは奈良盆地の中央にあることが認識される。同程度の古墳が点在するが、盆地中央部のある程度の広さの地域を治めていた豪族が存在していたに違いない。墳丘の北側には休憩所があり、その付近まで外濠があったことを示すためアスファルトが敷かれている。濠まで含めるとかなりな大きさだったことが実感される。

 東に2kmほど行けば弥生期の環濠遺跡で有名な「唐古・鍵遺跡」があるが、同じ頃の黒田周辺も唐古付近と変わらない田園風景を成していたのだろう。古墳時代になると、この地を治める豪族の拠点となり、古墳が造成されることになった。飛鳥時代には聖徳太子が斑鳩から飛鳥へ最短で行く太子道がこの村を通って付けられた。黒田村は古代から繫栄した集落であったことが推測される。

孝霊天皇の黒田廬戸宮跡

 西の方に行くとこんもりした森があり、南側の入り口に「孝霊天皇 黒田廬戸宮趾」と書いた石碑が立つ。照葉樹などの広葉樹を中心に鬱蒼とした森を作っているが、参道の奥に進むと法楽寺の御堂が建つ。法楽寺は黒田廬戸宮跡に建立、聖徳太子開基とされる。室町時代には25宇を数えた盛時を伝える板絵図が残るが、今は一堂を残すのみとなった。また参道奥ほどに、「桃太郎伝説発祥の地」と書いた説明板があり、「日本書紀」崇神記に、四道将軍の一人、彦五十狭芹彦命(吉備津彦)は西海を平らげ、その後出雲振根を誅したと。「古事記」の孝霊記では、弟の若日子建とともに吉備を平定したと。「記紀」ともに吉備津彦の父に当たる孝霊天皇の都を黒田廬戸宮と記しているが、この地に比定できると書いてある。後世の桃太郎の話は吉備津彦をモデルとして成立したと考えられ、この地は桃太郎伝説発祥の地と訴えている。

孝霊天皇の時代

 桃太郎はともかく、先般出雲への旅で確認したとおり、出雲振根が支配したのは西の出雲・杵築であり、吉備とは古代より行き来があり、出雲は大和より先に吉備により攻略された。それを見た東の出雲、意宇の王が出雲全体に進出し、神魂の神が出雲の守り神だったことを知ったが、その出雲・吉備の関係とも合致することが説明されていて、吉備の出雲進出の元を作った吉備津彦の親が孝霊天皇だったことを知る。孝霊天皇とされる人物の活動をもっと深く追求する必要があろうが、欠史八代天皇の元は葛城一族とする論拠から言って、孝霊天皇の時代は、この勢力が葛城から大和盆地全体へと進出しようとする過渡期に当たり、大和政権との攻防、また融合しようとする時期であり、その息子である吉備津彦の活動は、葛城勢力が大和政権に食い込まれた後に起こったことではなかろうか。どのように大和政権に引き継がれていったのかはわからないが、9代開化天皇の時代には大和全体を視野に入れた宮と陵墓が奈良町にあり、次の10代崇神天皇の時代には完全に大和政権になっている。8代孝霊、9代開化は葛城から大和政権への受け渡し、又は権力引き渡しの役割を担っていたと考えられないだろうか。

変わらない町・黒田

 法楽寺周辺は田原本町黒田で、その東側は田原本町宮古、つまり都で、古代からの地名を今でも残している。古い歴史が続いているのだな、そんな目で町を見ていくと、変わらないことの強さがあるように思う。昭和36年当時の空撮と現代を比べると、近くに京奈和道が付いたくらいで、町の規模も町並もがさほど変わっていない。逆に言えば、開発されていない。

 灌漑用だろうが水路が縦横に引かれ、建物の区画が広く、大きな蔵が隣り合わせに建つ立派な住宅が多い。今井町のように修景保存はされていないが、美しさを保持した古い建物はかなりな率で健在だ。南の町はずれに行くと、孝霊神社(廬戸神社)があった。元は黒田廬戸宮跡があった法楽寺の鎮守社だったが、明治時代初めにここに遷座し、黒田村の氏神として引き継がれた。孝霊天皇を祭神としている。

太子道=筋違道

 神社の南側に矩形のため池があるが、地図でよく見ると東側が削られたかのように斜めになっている。この堤の東側、そして孝霊神社前を通る、少し北西にずれる道は太子道で、またの名を筋違道と呼ばれる。藤原京から平城京へと続く古代の道、下ツ道、中ツ道、上ツ道は南北にまっすぐだが、斑鳩から飛鳥へ直線で行くには斜めに付けないといけない。そのため筋違道と言われるが、それに合わせるために池の堤を削って斜めにしたのだろうか。聖徳太子は池の堤を斜めにするほど偉かったのか、そんなことを連想してしまう。この道を北へ戻っていくと、近鉄黒田駅の前まで来る。そして筋違道は線路を渡って、さらに斜めに伸びていくのである。(探検日:2023.7.11)

投稿者:

phk48176

古市古墳群まで自転車で10分、近つ飛鳥博物館まで車で15分という羽曳野市某所に住む古代史ファンです。博物館主催の展示、講演会、講座が私の考古学知識の源、それを足で確かめる探検が最大の楽しみ。大和、摂津、河内の歴史の舞台をあちこち訪ねてフェイスブックにアップします。それら書き散らしていたものを今回「生駒西麓」としてブブログにします。いろいろな意見をいただければ嬉しいです。

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