⑨巨勢山古墳群を探検する

 葛城一族の跡を訪ねて、欠史8代天皇に由来する史跡、葛城名神大社、南郷遺跡群など金剛・葛城の東麓一帯を歩き回ってきた。これらの探検を通じて、御所の室宮山古墳には何回も訪れているが、古墳の西側に御所市の文化財展示室があるなんて知らなかった。我が家からは国道309号線で水越峠を越え、名柄から室交差点まで行く。近くまで来たもののこの施設が見つからず、電話番号をナビに入力してやっと辿り着いた。

左は巨勢山古墳群探検軌跡。右は御所市文化財展示室正面、バックには葛城山が控えている。

 ホントに地味な施設で、これまた地味な「巨勢山古墳群•巨大群集墳の実像を探る」という企画展示をしている。「葛城一族の跡を訪ねて」シリーズの一環として、葛城一族の奥津城とも言える巨勢山古墳群を探検するが、その予備知識としてこの展示をじっくり見学することにする。

700基を超える群集墓

 葛城襲津彦の墳墓とされる室宮山古墳をはじめ、南郷遺跡群のある金剛山東麓を拠点に葛城一族の興隆を支えた人々が眠る墓が、700基とも800基ともいわれる圧倒的な数で群集墓を成している。葛城川と曽我川に挟まれたおよそ4km四方において、巨勢山地の尾根筋の至る所に築かれている。

巨勢山古墳群全景図
巨勢山古墳群全景

 河内の各地にある群集墓は、古市・百舌鳥古墳群における巨大前方後円墳の全盛期以後、大王クラスだけでなく地域の豪族など古墳を造ることのできる人々が爆発的に増えてきたことを示し、古墳時代の社会的変革を見て取れるという。生駒西麓の高安千塚古墳群は6世紀以降、平尾山、高井田、一須賀の各古墳群は6〜7世紀と古墳時代後期に築かれたものが多いが、巨勢山古墳群では古墳時代中期の5世紀から後期の7世紀を通じて古墳が作られ続けてきた。

巨勢山古墳群の築造過程

<5世紀>

 古墳時代中期前半(5世紀初め)の古墳としては5つ発掘されているが、そのうち4つは宮山古墳に近い山陵にあり、宮山古墳の陪塚的な存在の可能性がある。(449・461・462・617・771)

古墳時代中期前半の古墳は宮山古墳の陪塚か?右は462・617号墳から出土した円筒埴輪の破片。

 中期後半(5世紀半ば)になるに増え、群集墓としての色合いが強くなる。発掘調査された12基のうち、1基が前方後円墳で室古墳と呼ばれている。残りの11基は円墳や方墳など多様な墳形をし、埋葬施設はいずれも木棺直葬で、まだ横穴式石室は登場していない。分布は、東の遠方に2基あるものの、葛城に近い巨勢山西側の山裾や尾根筋に集まっている。(74・282・290・324・409・458・471・769・770、281・719・744は不明)

古墳時代中期後半の古墳は金剛東麓の葛城に近い西側山陵にかたよる。右は須恵器、土師器の出土品。

<6世紀>

 6世紀の古墳時代後期に入ると巨勢山古墳群は最盛期を迎え、大半の古墳はこの時期に築造された。古墳時代後期前葉(6世紀初め)には古墳の数が増加するとともに、墳形は前方後円墳が2基程度の少数あるものの円墳が大部分を占めるようになる。埋葬施設は片袖式の横穴式石室が多く採用されるものの依然として木棺直葬も多い。後期後葉(6世紀後半)になると木棺直葬が激減し横穴式石室が大半を占める。副葬品にはそれまでの須恵器や鉄製農工具に加え、馬具や銀製指輪、金銅製金具、ミニチュア竈など朝鮮半島など大陸からもたらされた遺物も見られる。

6世紀の古墳時代後期の古墳群は巨勢山全体に広がる。横穴石室を持つ円墳が多く、鉄器類の埋葬品が増える。

<7世紀>

 古墳時代終末期(7世紀代)は、全国的に前方後円墳が作られなくなり、近畿地方中心に仏教寺院が建設されるようになるが、それでも巨勢山では円墳主体の古墳が造られていく。埋葬施設は無袖式の小さな横穴式石室が大半を占める。副葬品は土師器や須恵器のみとなり、埋葬の簡素化が図られているようだ。展示物に土師器や須恵器がたくさんあるが、私にはその時代的変化や違いについてはよくわからない。

7世紀の古墳時代終末期には横口式石室も含む横穴石室の円墳が多く造られる。

 発掘調査が行われた古墳は現在100基程度で全体の15%に止まっており、まだまだこれから新事実が出てきそうな感じだ。というようなことで、展示室で予備知識を得て、実際の古墳群の状態を見て歩くことにする。

室の町を歩く

 学芸員の方に聞くと、古墳群の見学路は整備もしていなく、踏み分けられた山道を行くことになるが、山道に沿う古墳には古墳番号を記したA4サイズ程度のシートを貼ってあるということだった。秋津簡易郵便局付近の道端にある湾曲した太いエンビ管が目印で、そこから小道に入り、道なりに行くと山へ入れるということなので、まずは室の町へ向かうことに・・・・・・。

左上は宮山古墳前方部の竹藪、右上は449号墳の麓にある寳國寺、下左は宮山古墳、下右は巨勢山。

 この地域の大きなランドマークである室宮山古墳、その前方部に当たる所に竹藪が見えてくる。外周に沿って歩くと室大師寳國寺があり、本殿の裏に回ると樹木が繁る山塊が迫る。果たしてこれは径35m、この古墳群の中では最大の円墳(449号墳)が乗る山だった。巨勢山の山裾がすぐ裏まで迫る町の通りを東へと歩く。室宮山古墳の外濠だったと思われる池を半分埋めて親水公園にしているが、おばあさんがお孫さんを三輪車に乗せ遊ばせている。そこへ近所の人が寄って来て子どもを囲みワアワア言ってあやしている。ポカポカ陽気で、奈良の田舎ならではの安らかな風景だ。昔ながらの家並みを歩いていくと、今日は休みだが秋津簡易郵便局があり、その斜向かいにあるではないか、湾曲した塩ビ管。迷わずそこから田畑の中の道を山へと向かう。

室の町並を行くと、秋津簡易郵便局が見え、はす向かいの湾曲する塩ビ管を右に曲がり山に入って行く。

巨勢山古墳群に踏み込む

 山道をしばらく歩くと上り坂になり、鬱蒼とした檜の樹木に囲まれる。さらに行くと何やら白い物が木に貼り付けてある。「606号墳」とある。墳墓名と連絡先などを書いた用紙をパウチして、2カ所をピン留めしただけ。臨時の古墳見学会用の案内表示にも思え、えらいイージーやなぁと思わず感想をもらす。この木の周辺が盛り上がっているようにも見えるが古墳という実感がない。さらに行くと、今度は「605号墳」、次は「604号墳」と順に数字が若くなる。「604」の土盛りはかなり大きく、山道に削られてはいるが、径20mはあろうか、円墳のように見られる。「603号墳」のパウチは地面に落ち枯葉に埋まっている。強風がきたら、そりゃ剥がされるわな。やっぱりという感じ。尾根筋にこんもりした土盛りを感じたら、それはやはり古墳で、600、599、598と続くのだが、596、595と連続でシートが落ちている。あらぬ所へ飛んでいくと間違い表示になるので、先ほどの文化財展示室に知らせないといけないだろう。

巨勢山古墳群へは、606号墳から605・・・600・・・595号墳へと尾根道を上る。

尾根筋上に墳墓を築造

 急坂を登り詰めた所の先に「592号墳」が見えるのだが、その手前右側の高まりの上に「593号墳」その奥に「594号墳」が見える。今まで南方に上ってきたが、地図を見ると、594のさらに北側には569、570、571と違う系列の番号が続く尾根筋がある。つまり、「594」を一つのピークとして別の尾根が分かれているようだ。私の方は、600番代から若い番号へと続く尾根筋を行く。落ち葉の降り積もった緩やかな坂道をまるでハイキングしているかのように快適に歩いて行ける。この辺りは紅葉樹が主体の林になっており、落葉のおかげで明るい。いつの間にか580番代になり、「587号墳」辺りからは全て常緑か紅葉樹かになり、見晴らしも良い。

594号墳から北側へは別系列の群、593号墳から590・・・587号墳へと落葉樹の中を歩く。

 平坦な道を進むと急に現れたのが「567号墳」で、今までとは番号が大きく飛んでいる。地図を見ると西から560番台がきており、先ほどの「594号墳」から北に降りる尾根筋にある569以下の番号の古墳に続くというわけだ。尾根筋ごとに連続番号を振っているが、尾根が複雑に絡まる山地では、全てが整合的に連続する番号を付けていくのは困難なのだ。

587号墳から先は系列が変わり、567・566・・・564号墳へと続く。

秋津原GCの開発

 567、566、564と遡っていくと左側にかなり大きいな円墳が見え行手に立ちはだかる。「568号墳」のシートが見える。後でわかったことだが、反対側の563、562へと行くと前方後円墳とも出合え、さらに多くの墳墓を見ることができたのだが、実際には「568号墳」を乗り越えて行くことにしたのだった。墳頂には「秋津原GC」とある。ここが秋津原ゴルフ場との境界で、眼下には芝地が見えるのだろう……。

右の563・562号墳へと行かず、左の568号墳の大きな円墳を越えようとする。頂には秋津原GCの境界石がある。

 秋津原GCの中に史跡指定された土地があり、開発が制限されているのだが、2009年に許可なしに古墳が壊されるという事件があったというが、この境界近くなのだろう。また京奈和自動車道開発のおかげで東側の尾根筋にも古墳が発見されたこともあり、ここでも開発事業による古墳の崩壊と発掘のイタチごっこが展開されている。

運命の分かれ道の「568号墳」

 「568号墳」墳頂から東側を見下ろすと急坂ではあるが、木の幹にピンクのリボンが巻かれた山道サインが見えた。こちらに降りても道はあるという確信はあるものの不安も消せずにいたが、笹で覆われ中の小道をズルズルと滑り降りて行くのだった。下り切った所で山道と出合った。これで帰れると、一安心したのだが、この期待が外れて恐怖のどん底に陥るなんて、この時には想像もできなかった‥‥。

568号墳からは笹で覆われた尾根筋を転がるように下り、谷筋の崖で足を踏み外す。麓の竹藪に仕掛けられた動物捕獲檻(下中央の写真)の横にイノシシが見えたように思うが・・・。

 降るだけの山道を行くと、谷筋に沿うように、あるかないか分からないような道跡がついている。ピンクのリボンはかなり古いもので擦り切れている。もう何年も人は踏み込んでいないのだろう、倒木が行く手をさえぎる。アッ!その時足元が滑り、周りに掴むものもないまま谷底に滑落したのだった。と言っても10mもない、5〜6m程度の落下だろう。わずかに流れる谷水に足が浸かり、ジャンパーやズボンがドロだらけになったものの怪我はなかった。しばらくは谷川の石伝いに歩くことにし、余裕が出てきたところで山肌をよじ登り、元の見え隠れする山道に戻る。そして確かな山道に出て一息つくが、それもつかの間、道をそれた山裾に動物の捕獲檻があり、側にイノシシがうずくまっているように見えた。もう怖くて、それと確かめることなく一目散に逃げた。気が動転するということはなかったが、この間恐怖の連続で写真が撮れていない。「探検家」として、我ながら情けないなぁと思うのだった。

再び平和な村里へ

無事生還し、京奈和道に沿って下り、宮山古墳をいただく平和な室の町に入って行く。室八幡神社にはお礼を申し上げる。

 畑のある開けたところに出て来た。車の騒音が絶え間なく聞こえるが、そこは京奈和自動車道の御所側のトンネル出入口だ。平野ではお日さんも差し明るい平和な世界が広がっている。道路沿いを少し歩き、田んぼを横切り室の町に帰って来た。ああ良かった、と無事を喜ぶと同時にどっと疲れが出てきた。自然と向き合うことの怖さは古代人でも同じことだろう。そんなところに古墳を築いていった営みとは何なのだろうと、古代人にとっての墳墓の意義について考えを巡らすのであった。(探検日:2022.12.14)

投稿者:

phk48176

古市古墳群まで自転車で10分、近つ飛鳥博物館まで車で15分という羽曳野市某所に住む古代史ファンです。博物館主催の展示、講演会、講座が私の考古学知識の源、それを足で確かめる探検が最大の楽しみ。大和、摂津、河内の歴史の舞台をあちこち訪ねてフェイスブックにアップします。それら書き散らしていたものを今回「生駒西麓」としてブブログにします。いろいろな意見をいただければ嬉しいです。

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(1)件のコメント

  1. 田中弘一

    お疲れ様でした。新しい古代史の発見に繋がる事でしょう。令和の時代は、何か我が国にとって大切な時代であったと後世の人々が評価することでしょう。

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