淡輪の紀氏を探る

南海電車は海沿いを走る

 よく晴れた平日、南海サザンに乗って和歌山方面に出かける。この平日にガラガラの電車に乗るというのが、暇人の密やかな愉しみでもある。今回は淡輪でひとまず降り、3つの大古墳を探検し、その後、和泉山脈を越え紀伊国に入り、古代紀州の一大勢力であった紀氏の活躍の地を巡ろうとするものである。

 子どもの頃、南海電車に乗り岬公園や二色浜に何度か行ったことはあるが、羽曳野からは何故か遠いところに感じる。直線距離は40km程度だが、東西の連絡がなく一度大阪に出なければならないという煩わしさがある。南海電車は南に行くにつれ海沿いを走るが、海が近くに見えだすと何か高揚した気分になる。内陸部で暮らす私にとって、青い海原、その真っ平な空間は異界とも言えるほど珍しい光景だ。車窓から遠くの海を食い入るように眺めていたが、電車が海近くを走るようになってしばらくしたら淡輪駅に到着した。

淡輪古墳群を巡る歩行軌跡を描くカシミール地図

宇度墓古墳

 ホームに降り立つや否や目に入ってきたのが大きな森。こんな間近に宇度墓(うどはか)古墳、別名、淡輪ニサンザイ古墳がある。すぐそこなので線路を渡って行きたいのだが、地図によれば北へ大きく迂回して行かなければならない。駅を出ると見える「歓 迎 淡輪観光協会」の横断幕も虚しく、人っ子一人通らない。やはり、夏の海水浴客が稼ぎのメインなのだろう。駅横にも小さな土盛りがあり、恐らく陪塚だろうが調査された形跡がない。踏切を越え、宇度墓古墳を右手に見ながら進むのだが、なかなか近づけない。間際まで住宅が建て込んでいて、紀州街道の古道まで出てやっと外濠の近くまで来た。

上右:南海本線淡輪駅。下左:商店街の歓迎の横断幕。下中・右:西陵古墳の陪塚。

 墳長170m、前方部幅120m、後円部径110m、3段築成の前方後円墳でくびれ部分に方形の造り出しがあるという立派なもの。大王墓と言えないまでも、その次の位に匹敵する大墳墓で5世紀半ばの築造。垂仁天皇第二皇子の五十瓊敷入彦命の陵墓とされているが、そうではないとする論点がある。

埋葬者は紀伊国の治世者

 坂靖氏の「倭国の古代学」によると、「紀ノ川下流部を支配領域とし、河口部の北岸を国際外交上の外港として生産拠点と流通拠点を確保した「キ」の王は、朝鮮半島に雄飛し、淡輪古墳群に墳墓を造営した」とする。古市・百舌鳥古墳群には朝鮮半島に盛んに進出した「倭の五王」が眠るとされるが、五王の下で新羅征伐に大将軍として派遣され、途中病死した紀小弓(きのおゆみ)宿禰など、紀伊国の治世者が淡輪地域に墳墓を造営したとされる。坂靖先生の論に沿うならば、紀の川河口は大陸交流の一つの拠点であり、紀氏はそこを通して葛城氏、さらにヤマト政権と強いつながりがあったのである。

上左:宇度墓古墳後円部 右上:後円部から西側の外濠を見る 右下:前方部から西側の外濠を見る 下左:外提下の畑 下右:前方部の拝所

 住宅の途切れたところから外濠堤に入れて、後円部から西側を半周する。近年改修されたというが、かなり広い濠で幅が50mはあろうか、本格的な前方後円墳で、威厳を感じる。後円部付け根に造り出しの膨らみがあるように見えるが、はっきり分からない。今は灌漑用水池にもなっているのだろう、前方部左端、西南側に大規模の堰が施され、水はそこから西の低地部へと流れている。外堤の一段下に畑があり、すぐそばを南海電車が頻繁に通る。

宇度墓古墳の西側を走る南海本線、頻繁に電車が通る。

 ハスが全面を埋め尽くす東側の外濠に沿って後円部あたりまで戻る。この道が紀州街道と呼ばれるが、元々古代からついていた古い道のようにも思う。

左:前方部外濠 右:前方部から東側の外濠を見る

西小山古墳

 紀州街道の曲がりくねる細い道を南へ、川の辺りまで行くと見晴らしが効き、陽気な明るさとともにまっすぐな水平線が見える。川は番川(ばんがわ)と言い、和歌山との境界にある和泉山脈の札立山から流れ、淡輪地域に三角州の平野をつくった。この辺りの標高は20m前後、三方山に囲まれ、平野と海を見下ろすことができて、古墳築造にとって絶好の地に思える。

上右:紀州街道にある地蔵堂 上右下:同じく楠瀧碑 下左:海に流れ込む番川 下右:右側は紀州街道(孝子越街道)、左は県道752号線

 淡輪の3大古墳と言われる二つ目の古墳、西小山古墳を見つけようと歩いているのだが、グーグルの地図には載っていなく、だいたいの推量で歩く。街道筋はいつやら幹線道路になっていて、車がビュンビュン通る。しばらく行くと、道脇にポツンと西小山古墳を説明する手書きの小さな看板がある。フェンスがあり中には入れないが、畑に付く脇道に進入する。南側の裾野がカーブを描いているようで、円墳らしいことがわかる。径約40mとされ、竪穴式石棺が埋葬され、副葬品が武器、武具が多いことから被葬者は武人と想定される。5世紀中葉の築造。円筒埴輪底部の外周が凹む「輪台技法」の特徴を持つが、この技法は淡輪古墳群、紀ノ川下流北岸の古墳に共通して見られることから、紀伊国の支配は和泉山脈を越えた淡輪地域も統治下に置いていたと考えられる。

左:西小山古墳の円墳の縁が見える 右下:水平線上を関空へのジェットが飛ぶ

西陵古墳

 さらに3つ目の古墳、西陵(さいりょう)古墳をめざすが、遠くから見ていても圧倒的な大きさだ。何故こんな辺鄙なところ、大和から遠く離れた淡輪なんぞに大古墳があるのか不思議に思える。それはともかく、西陵古墳の巨大さを体感してみよう。

左:田畑に囲まれた西陵古墳が彼方に見える 右:南側から近づく

 国道756号線から、後円部間際まで降りて行く。田畑が途切れた辺りに外濠があるはずだが、水らしきものはなく、地続きに雑木や雑草が覆っている。その先に見える外堤も樹木がかぶさり、とても踏み込めるものではない。しばし畦道を遠回りし、古墳外縁の様子を見て、再度アプローチ方法を考える。少し西に回り込んだところは草が刈り込まれている。そこから外堤の上を歩くことにする。背伸びしないと全景が見えないほど草が伸びているが、何とか古墳巡りができそう。後円部から前方部まで半周歩けた。その間、真横を南海電車が何度も行き来する。前方部に来ても拝所はないのだが、石碑をくわえ込んだ白い幹の木を通してほぼ全貌が見て取ることができる。

上左:西陵古墳側面 右上:後円部から西側面を見る 右下:前方部から外濠を見る 下左:前方部から東側面を見る 右:後円部正面、木が石碑を食い込む

 210mという墳長から言って国内28番目の大きさだが、後円部径115m、前方部幅100mで、泉南地域最大の前方後円墳である。西側のくびれ部に造り出しがあるようだが見つけられなかった。宇度墓古墳や西小山古墳より古く、5世紀前半の築造と考えられる。「淡輪古墳群の被葬者は紀ノ川下流部北岸を本貫地とし、大阪湾をめぐる海上活動を掌握していた人物とする説が有力」(上記同書より)とされる。海遊民でもあった紀の川北岸を拠点とする一族は、朝鮮半島へも乗り出す。被葬者が一族の長であった紀小弓だとすると、巨大古墓の意味するところは、大陸進出における彼が果たした功績が、「倭の五王」政権にとっていかに偉大であったかということだろう。

海から小高い西陵古墳が一望できる

 これらが海の眺望がひらけた絶好の地にあり、紀淡海峡から大阪湾に入る時に目に入ってくる大古墳が三つ並んだ風景は、雄大に映ったに違いない。紀伊国へ船で訪れる国内・外国の人々に紀氏の偉大さを見せつけることができたであろう。(探検日:2022.10.19)

住宅街にポツンと古墳

 淡輪駅に向かうのに南海線をまたぐバイパス・岬町道海岸連絡線が付いていてそこを上って行く。ちょうどよい景色で、淡輪の海辺が丸見えだ。道路を降りたところはもと田畑だったのだろうが区画整理されて、小さめの一戸立ち住宅がぎっしり並んでいる。そこはまた、みさき公園の東側の際に当たるところ。「毎日みさき公園で遊べるわ」と期待して住宅を買われた人も多かったかもしれないが、今ではその夢は終わってしまった。

上左:西陵第二古墳の石碑 右下:住宅に挟まれた狭い角地に古墳はある 下右:西陵第一古墳 左下:古墳公園に接して南海本線が走る

 西陵第一・第二古墳は、西陵古墳のすぐ近くだが、地図があっても見付けにくく、立て込んだ住宅に挟まれたところにあった。第二古墳は区画の角地で、住宅地を切り取った半端な台形の土地にあって、その隅に「史跡西陵第二古墳」と刻まれた石碑が立っていた。今ではどんな形の古墳なのか想像もつかない。そこから左へ進むと小公園があり、入り口にフェンスに囲まれた土盛が見える。これが西陵第一古墳で、南海線の線路わきに立ち、線路を通して西陵古墳が見通せる。説明板はないが、前方後円墳のようで西陵古墳の陪塚と考えられる。かつては田畑が広がりその中にポツンと土の盛り上がりがあったのだろう。姿かたちを変えても古墳として一応保存されている。そこに歴史を大事にしようという地元の人たちの良心が見える。(探検日:2023.9.7)

 淡輪古墳群として、宇度墓古墳、西陵古墳、西小山古墳の大規模古墳を柱に大小の陪塚的な古墳が周辺に群がり、一大古墳群を形成していたに違いない。何故にこの地に大古墳が?という疑問が払しょくされないが、和泉山脈を越えた紀の川北岸の地に勢力を伸ばした紀氏との関係を突き止めることでわかることがあるだろう。

投稿者:

phk48176

古市古墳群まで自転車で10分、近つ飛鳥博物館まで車で15分という羽曳野市某所に住む古代史ファンです。博物館主催の展示、講演会、講座が私の考古学知識の源、それを足で確かめる探検が最大の楽しみ。大和、摂津、河内の歴史の舞台をあちこち訪ねてフェイスブックにアップします。それら書き散らしていたものを今回「生駒西麓」としてブブログにします。いろいろな意見をいただければ嬉しいです。

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