紀伊国と淡輪との関係を見るのに、車で淡輪から岬町〜深日港〜大川漁港〜加太港と海岸沿いを通り、田倉崎の付け根の山越えをする県道7号線を行くと15〜6km程度で紀ノ川北岸の西庄につく。和泉山脈を横切る南海本線で行くと、標高100m程度の孝子峠を越え、和歌山大学を通り7〜8kmで紀ノ川北岸の平井遺跡辺りに到達する。つまり、淡輪と紀ノ川北岸地域は半日コースで日常的に行き来されていたに違いない。舟で田倉崎を回って行っても同じくらいの時間だろう。
上右:人形供養で有名な淡輪・淡嶋神社 下:淡輪の海と港
紀ノ川河口の古代地形
近年開通した県道7号線のバイパス・粉河加太線に入ってすぐの西庄地域に着く。古墳時代の塩づくり村だったことが知られ、地図上でも「西庄遺跡」とポイントされているのだが、現地では史跡を表すものが何もない。紙の杜リサイクルステーションと大きなパチンコ店があるだけだ。西庄遺跡はこの4車線道路の整備工事の時に見つかったのだが、跡かたなく埋められている。残念!
上右:西庄遺跡とされる県道7号線沿い 下左:製塩用の石敷きの炉(紀伊風土記の丘展示物)と土器 下右:西庄遺跡上空から紀淡海峡を望む(上左・下の写真は和歌山市教育委員会発行のパンフレットから)
古代の紀ノ川は現在よりかなり北側、和泉山脈の山裾を流れ、砂州にぶち当たり、東からの流れは南に折れ曲がり、和歌の浦辺りが河口だった。西庄は北から伸びる砂州の付け根辺りで、海に近かった。土器を使った塩づくりが盛んにおこなわれていた時代、塩は紀ノ川を通って大和にも運ばれていたという。古墳時代の竪穴住居跡や塩づくりの炉の跡が多数見つかっている。
釜山古墳
さらに2.5km東方の木ノ本地域に、3つの大古墳が東西に並ぶ木ノ本古墳群(釜山古墳群)がある。一番東側の古墳が釜山古墳で、円墳。現状で直径40m、高さ7mを測る大型の円墳だが、5世紀代の築造で、墳丘の周りには幅11.7mの周濠がめぐり、その外側に堤が存在することが判明している。夏草で覆われた墳丘は人を寄せ付けない荒々しさがあるが、今まで何度もこんな場面に出くわしてもいて、エイヤッと勇気を出して草むらに進入していく。登り口も踏み分け道もなく、草を掴み掴み、足を滑らせながらもなんとか登攀。墳頂には2枚の板石が立てられていて、墓標のようにも見えるが、実は、竪穴石室又は箱型石棺の蓋石と考えられる。蛇などの出現におびえながらも墳丘上を一回りするが、かなり広いし、眺めも良い。北側からのビル尾根筋の山麓に位置し、岩出か橋本あたりの和泉山脈のはるかかなたまで見通すことができる。登ったのと反対側の旧崖を飛ぶようにして駆け降りる。
上左:南東から見た釜山古墳 同右上:古墳の真下 同下:墳丘上 下左上:石室の蓋石が立ててある 同下:墳丘上から和泉山脈の山並みが望まれる
車駕之古祉古墳
家並みの中を少し西に行くと田んぼの向こうに広場のようなものが見える。これが和歌山県最大の前方後円墳・車駕之古祉(しゃかのこし)古墳。5世紀後半の築造で、大和や河内にある大古墳のような周濠、造り出し、2段築成、葺石などが施された本格的な古墳だった。墳長86m、周濠の外提端から測ると110~120mの長さがあったと思われる。平成の始め頃から発掘調査されてきたが、かなり削平されているものの、周りの水田とは一段高いところに位置している。墳丘上にも畑が作られたり、宅地もあったが、元の前方後円墳の形を変えながらも現在まで古墳として残ってきた。地元の「守る会」の協力もあり、元の古墳の形を復元しながら2007年に古墳公園として開園した。墳頂は削り取られているが、将来的には元の形が良くわかるように復元整備をするという。
上左:後円部頂から前方部を見る 同右下:後円部北側の麓から 下左:前方部北側の麓から 同右:前方部頂から後円部を見る
長さわずか1.8cmだが金の勾玉が発見された。新羅や伽耶などで類例を見るが国内では唯一の例だが、被葬者は朝鮮半島との強い結びつきを持ち、紀ノ川河口の平野で大きな権力を持っていた人物とみられる。
上左:西側から見た古墳全景 同右上:金の勾玉 同下:復元後の予想図
茶臼山古墳
さらに西に行くと、墳墓の土盛が完全に削り取られているが、5世紀中頃の前方後円墳(前方部が短い帆立貝式)である可能性が強い茶臼山古墳があった。後円部の直径は36m、全長55m程度で、墳丘の裾には葺石、前方部の周濠外堤には円筒埴輪列が発見されている。つまり、墳丘が葺石で覆われ、外濠の堤には円筒埴輪が並ぶ本格的な前方後円墳だった。今では見る影もなく、古墳の外周に沿うような形で木本公園が整備されていて、グランドゴルフなどに興じるお年寄りの憩いの場となっている。
上左:茶臼山古墳があった木本公園 同右上:木本公園遠景 同下:前方部辺りから見た公園 下左:木ノ本古墳群空撮
「倭の五王」の時代
古墳時代の始まりとともに、畿内権力を中心にした倭国は、各地に群雄する国々による政治連合という形で治められていて、その盟主的存在が権力の偉大さを誇るために大古墳を造った。時時の盟主である大王の在り方により、大和・柳本、佐紀、古市・百舌鳥というふうに古墳群の場所を移動させていった。5世紀代を通じて古市・百舌鳥に古墳群を形成したのが、「倭の五王」と呼ばれる大王の系譜で、広域の政治連合という形から一つの中央集権型の権力構造にまとめようとしていた。それはまた、東アジア最大の中国皇帝に倭国王であることが認められ、安東将軍などの官爵を冊封されることが欠かせなかった。大陸からの脅威を防ぐとともに、大陸の技術や文化を取り入れ、国力を高め、先進諸国と肩を並べることが最重要政策であり、一つの国へとまとめていくことが求められたのである。その意味で、5世紀とは、あらゆる分野で急展開していった時代ともいえる。大阪湾では淡輪古墳群、紀ノ川では木ノ本古墳群というように、巨大古墳群を築造していく時代でもあった。
古代の国際港・紀ノ川河口
「倭の五王」の時代、国内交通とともに中国・朝鮮半島との外交の拠点港としたのが、紀ノ川河口の港であった。大和からは葛城を経由し紀ノ川を下るのが最も早く海に出られるコースであり、紀淡海峡を中心に大阪湾の制海権を抑えていた紀氏と連携するのが最も有利であった。倭国の発展とともに紀ノ川下流域を勢力圏とする紀氏は大いに活躍したものとみられる。
後に述べるように、紀伊国で平坦地に築かれた大古墳は淡輪と紀ノ川北岸以外にあまりなく、淡輪古墳群と木ノ本古墳群は特異な例だと言える。また、実際の距離としても、淡輪と紀の川北岸は近接しており、行き来も容易であったことから紀氏及び紀氏の同族が治めていたとみられる。応神陵や仁徳陵をはじめとした巨大古墳を競って造った時代、強大化しつつあった大王の元、紀氏一族の偉大さを見せ付けようとしたのが淡輪と木ノ本の大古墳群であった。一方は大阪湾の海から、一方は紀ノ川から雄大な姿を誇ったのである。(探検日:2023.9.7)