紀臣系紀氏の跡を訪ねる

電車に乗って紀伊国へ

 南海本線は岬公園を過ぎ、徐々に緩やかな坂道を登り出す。和泉山脈の南端部、孝子峠に向かうが、電車はその下を通るトンネルに入って行く。峠はせいぜい標高100mなので、古代でも紀伊国と淡輪を日常的に行き来していたに違いない。トンネルを抜けるとパッと視界が開け、和歌山の市街地を見下ろすように走り、やがて紀ノ川駅に到着する。木ノ本古墳群に眠るこの地の首長が治めた紀ノ川北岸の地とは、どのような歴史を持つのか、いくつかの古墳や史跡を回って探ってみたい。

左:和歌山へ向かう南海電車の車窓から 右:和泉山脈南麓の史跡を訪ね歩く

平井歴史資料室

 まずは情報収集に、和泉山脈の南麓、紀ノ川北岸に点在する古墳時代(5世紀代)の平井遺跡を説明する平井歴史資料室に向かう。紀ノ川駅をスタート、住宅や店、小さなビルが建つどこにでもある市街地の中を600mほど行くと、西庄から伸びる県道7号線に出合う。交差点北側に和歌山市平井ふれあいセンターが建ち、その中に資料室がある。

上左:古代紀ノ川の名残か?土入川が流れる 同右上:紀ノ川駅 同下:ふれあいセンター1階に平井歴史資料室がある 下左:埴輪生産の風景(平井遺跡)を描く壁画 同下:鉄の馬冑(レプリカ)

 大阪からの第2阪和国道の建設時に発掘された前方後円墳の平井1号墳をはじめ、周辺の古墳の埴輪などを焼いた埴輪窯、建物跡などの説明がある。なんと言ってもこの近辺では、大谷古墳から発掘された鉄でできた馬冑(かぶと)が有名だが、そのレプリカが展示されている。だいたいの位置関係を掴んでいざ出発、さらに上方をめざして歩く。

平井城跡

 新しい建物が続く街並みをはずれ、昔ながらの集落の中へ入って行く。家が途切れて山地になった一段高いところに何かありそうな‥‥。今は公園になっている所がかつての平井城であったと。鈴木孫一は鉄砲隊で有名な雑賀衆を率いて石山本願寺に入り信長の軍勢を苦しめた。またの名を雑賀孫市と言い、生誕地が平井であるという。平井城は孫一の居城で、ここに籠城し信長の軍勢とよく戦ったと伝わる。戦国時代のことまで首を突っ込むとキリがないので、次に行こう。

左:平井の集落 中・右:平井城跡が平井中央公園になっている

平井遺跡

 山裾沿いを東に行くと、第2阪和国道の高架にぶつかるが、この工事の時、山の斜面に埴輪窯が2本見つかり、何回も繰り返し埴輪が焼かれていたことがわかった。平井1号墳や後ほど行く大谷古墳などの埴輪を生産していたと見られる。現在高架下は通り抜け禁止になっており、近くで見られなくて残念だ。

左:第2阪和国道 中:高架下に遺跡が発見された 右:山の斜面一帯が平井遺跡

 古墳時代の紀ノ川は山裾近くを流れ、平野部分はそれほど広いとは言えなかった。海の玄関口という地形から早くに海洋に進出し、瀬戸内の海洋民とも連携し、海上交通を支配していた。この地の利を生かして発展した紀伊国は、単に大和政権の手先となっていたようには思えない。ある時は政権と対峙し、またかなりな条件を付け返礼を得るなど、丁々発止の関係だったろう。また、大和とはかなりの距離もあり、政権も簡単には支配下に置けなかった。敵対はしたくなく、朝鮮半島進出に多大な功績があったことで破格の扱いを受け、淡輪に200m級の前方後円墳が造れたのであろう。

 このような関係は葛城本宗家でも同様で、南郷遺跡群にあった大工業力を基に大和政権とは一定のスタンスを保っていた。しかし、大和とは近接していたがゆえに、雄略帝に滅ぼされる結果になった。吉備氏も瀬戸内を支配できていたことから、造山古墳のような大古墳を造れるまで大きな勢力を持ったが、大和政権が中央集権化するにつれかなり押さえつけられてきた。紀氏はどうであったか?

紀臣系と紀直系、二つの紀氏

 紀氏には、前二者とは違った大和政権とのスタンスの取り方があったと見られる。今まで見てきたのは紀ノ川下流北岸の氏族である紀臣系の紀氏であり、水軍としての性格が強いのだが、大和から海への進出口にあるという地政学的な意味、葛城氏のような大勢力ではなかったことが有利に働いたように見られる。むしろ政権の中に入っていくという戦略で、大和政権が発展する中で大陸進出や軍事の役割を主に担う中央氏族になっていくのである。  

左:和泉山脈の裾を流れる古代の紀ノ川はラグーン状態だった。南岸は平野が広がっていた 右:和泉山脈山裾から見る和歌山市街

 同じ紀氏から別れたもう一つの氏族、紀直系の紀氏があり、紀ノ川下流南岸一帯を治めていた。紀ノ川が運ぶ土砂による広大な平野を抱え、水路網でつながる集落遺跡が数多く存在する鳴神遺跡などで見られるように、豊かな農業生産が得られる地域であった。後に紀国造としてこの地を治める在地の首長として勢力を発展させるが、先祖伝来の土地に密着するやり方だった。この紀ノ川南岸の紀氏については次回で詳しく調べたい。今回は北岸で活躍した紀臣系一族の跡をさらに訪ねる。

大谷古墳へ

 県道7号線との交差点の手前を東に越え、大谷の集落に入って行く。自治会館の前に大谷古墳の説明板が立つが、その横の階段を犬の散歩に来た人が慣れた様子で登って行く。けっこう急だが頂上まではそれほどかからない。和泉山脈の南麓から派生した尾根突端の山頂を造成した前方後円墳で、墳長67m、高さ6~10m、前方部幅48m、後円部径30mの大きさ。後円部に家型石棺が直接埋め込まれた形式で5世紀末から6世紀初めの築造。石棺の外側に平井歴史資料室で見た鉄の馬冑や鎧、馬の飾りなどが出土したが、大和政権や朝鮮半島とも関係を持つ武人が葬られていたと考えられる。

上右:大谷の集落 下左:大谷古墳の登り口 同右:登り切った所に前方部

 後円部の頂上に立つと、紀の川を眼下に和歌山市街が望まれる。もう10月後半だというのに強い日差し、為す術もない。道なりに下っていくと竹藪の中に迷い込んでしまう。道無き道をかき分けようやく抜け出せたところは民家の裏庭だった。地元の人にしかわからない散歩道があるのだろうが、初めてではわからない。

上左:後円部頂から南西方向・和歌山市街を見る 同右:航空写真と等高線図 下左:後円部から前方部を見る 同右:前方部下から見上げる

鳴滝遺跡へ

 再び県道7号線に出て、さらに山奥の清滝遺跡に向かおう。そのためには山全体を住宅開発したような紀の川東洋台団地を一番奥まで行き、近畿大学付属和歌山高等学校・中学校まで行かなければならない。地図ではペラっと平面に描かれているが、実際にはずうっと上り坂で、住宅が切れ目なく続いている。いつ終わるとも知れない住宅地の中を歩いているとだんだん不安になってきて、自分の位置をグーグルマップで何度も確かめるのだった。最奥部で一度下るが、さらに登った別尾根の中腹にめざす学校の建物があった。

上左:東洋台住宅地の上り坂 下左:住宅地北端へは降る 同右:別尾根に近大附属中学・高校の建物が見える

 鳴滝遺跡の位置を示すものは見つからず、地図と照合すると学校のテニス場の辺りのようだ。後に通りがかりの人に聞くと、学校を作る時に発見されたようで、発掘現場見学に何度も行ったということだった。大池に突き出るような、東西40m、南北70mの舌状台形地形の上に、一辺7〜10mの大規模掘立柱建物が7棟も軒を並べて立っていた。大阪の法円坂遺跡の大型倉庫群と同時期の5世紀前半から中頃のもので、酒や水を貯蔵したと考えられる須恵器大甕が多く出土した。

上左:テニス場は鳴滝遺跡だった 同右上:鳴滝古墳群があった鳴滝団地 同下:発掘時の大型倉庫群跡、下側が大池の水面 下右:大型倉庫群の復元模型

 大谷から鳴滝辺りにかけての山尾根に、この地域の豪族が眠る古墳が、晒山、雨が谷、鳴滝などという古墳群を形成している。大谷古墳は尾根先端の一番目立つ頂にあり、この辺りでは最大規模の古墳だが、ここに眠る首長の元に数多くの豪族がこの地域一帯で活動していたことがわかる。それらの共同管理の元、比較的安全な高所に貴重な物資の貯蔵庫を作ったといえるのではないか。

和泉山脈の南麓に大谷古墳、晒山古墳群、鳴滝遺跡、園部円山古墳などが並ぶ

鳴滝不動尊で迷う

 さらに遺跡探検は続く。住宅開発のおかげで発見されたとは言えども、今では埋め戻されており、遺跡の現物を見ることはできない。締めくくりに遺跡の現物を見たいね、ということで、園部円山古墳をめざす。

 鳴滝遺跡から園部円山古墳まで直線距離では700m余りなのだが、その間に鳴滝川が流れていて、深い谷になっている。谷川を越える橋がどこかに架かっているはずだが、それを見つけに下るのは嫌なので更に上に行く。鳴滝団地を登り切ったところで家から出てきた人に聞くと、ちょっと下れば谷への道があり、谷川に沿って登れば鳴滝不動さんに行くから、と教えてくれる。嫌々ながら下って行くが、すぐだという谷への道はなかなか見つからない。毎日散歩している人には「すぐの道」でも、初めて来た者には遠くて遠くて……。道が見つかり谷へ下り、今度は川に沿って登る。しばらくすると鳴滝不動尊に行き着き毘沙門天の祠の下から山道に入って行くが、谷を東に渡る道が見つからない。

左上:住宅街から見降ろす 同中:鳴滝団地から谷を下る 同下:鳴滝川沿いを行く 下左:鳴滝不動尊の入口 下右:毘沙門天前を通り過ぎ山奥に行ってしまう

 さらに奥に入るが、うっそうと茂る木々に囲まれてしまう。これは無理、と不動さんまで引き返してみると、鳥居手前の参拝者駐車場脇に東へ登る道があるではないか。完全に見落としていたのだった。意を取り直して、また坂道を登るのだった。

 陽が傾き出して山中は暗くなってきたが、坂の途中に有功保育園があり、地図では古墳はその上になっているが、詳しくはわからない。ちょうど犬を連れて坂を下る人が来たので聞いてみると、「ああ、円山古墳ね、この道沿いにあります」とのことだったが、いくら行っても見つからない。手前に地蔵寺というお寺があり、ひょっとしてこの中かしら?と入ってみると、果たしてそうだった。寺の横手に説明板があり、裏の盛り上がりが地元民の言う円山古墳だった。上ってみるがだいぶ崩れていて全体の形がつかめない。反対側に降りたところが墓地で、部分的に墓地に侵食されている感がある。6世紀中頃の築造で、復元直径が25mの円墳、9.55mの両袖横穴式石室を持つ。中世に石室が再利用されるなど副葬品は少ないが、金銅装圭頭太刀や刀装具、馬具、耳環など、本来は豪華であるはずの副葬品が伴っていたと考えられている。

左上:有功保育園前を通る 同中:左が地蔵寺への道 左下/中上:園部円山古墳の墳丘 同下:墳丘を侵食した墓地から見た古墳 右下:地蔵寺から市街を見る

 大谷古墳から1世紀後であり、両袖横穴式石室を持ち緑色片岩を梁に使うなど、園部円山古墳は岩橋千塚古墳の石室を意識していることが窺われるという。紀ノ川南岸でも北岸と張り合うかのように、5〜6世紀を通じて盛んに古墳造りが行われ、岩橋千塚古墳群を形成していった。紀ノ川北岸の治世者は、5世紀の淡輪の大古墳を築いた首長クラスの人物の輩出以来、6世紀中を通じて朝鮮半島進出などの大陸交流を旨とする盛んな活動が行われていた。紀ノ川南岸の治世者はどのような活動していたのか、後日、鳴神遺跡などを探りながらじっくり考えてみたい。

左:園部の集落の上に茜雲 右:鳴滝川下流から見た園部円山古墳があった山々

楠見遺跡

 周りには夕闇が迫ってきたが、西空には茜雲が浮いて明るい。この山を下り、また県道7号線沿いを歩き紀ノ川駅に戻るのであるが、第2阪和国道との交差点手前に楠見小学校があり、その外壁に楠見遺跡の説明板が立っている。ヘトヘト状態であってもこれを素通りするわけにはいかない。楠見小学校内で須恵器の破片が多数発掘され、朝鮮半島から須恵器の技術が伝わったばかりの初期のものだった。伽耶地域との共通性はあるものの、他地方では見られない独特の姿形をしている。紀ノ川下流域を掌握した紀氏集団と朝鮮半島の頻繁な交流があってのことで、この独自な須恵器を楠見式土器として考古学的基準が与えられた。先に見た大型倉庫に置かれた大甕は楠見式のものだ。

左:楠見小学校フェンス前に楠見遺跡説明板 右下:発掘された初期須恵器の破片

 鉄器や馬具、装飾品など、車駕之古祉古墳、平井遺跡、大谷古墳、鳴滝遺跡、園部円山古墳などで発掘されたものは、中国・朝鮮半島との交流の中でもたらされたものだ。紀ノ川下流北岸の地域は、海外から渡来した新しい文化を取り入れた先進地域でもあったことを表している。

 紀ノ川駅に着く頃は真っ暗で、足も棒状態だった。スマホのバッテリーも残り10%を切っているのだった。

投稿者:

phk48176

古市古墳群まで自転車で10分、近つ飛鳥博物館まで車で15分という羽曳野市某所に住む古代史ファンです。博物館主催の展示、講演会、講座が私の考古学知識の源、それを足で確かめる探検が最大の楽しみ。大和、摂津、河内の歴史の舞台をあちこち訪ねてフェイスブックにアップします。それら書き散らしていたものを今回「生駒西麓」としてブブログにします。いろいろな意見をいただければ嬉しいです。

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(2)件のコメント

  1. 田中弘一

    ご努力に感謝します。貴方を突き動かすエネルギーは、どこから来るのでしょうか?きっと遠い昔の先祖の方々が貴方の出現を待っておられたのでしょう!

    1. phk48176

      田中さま コメントありがとうございます。あちこち、ボチボチ巡っていきます。今後ともよろしくお願いします。

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