紀直系紀氏の源の地を巡る

 紀直系紀氏が活躍した時期は古墳時代以降と見られるが、その場所はどの辺りであったかを見ていきたい。紀臣系紀氏が紀ノ川北岸を根拠地とし、河口の港から中国・朝鮮半島へと進出したのに対して、紀直系紀氏は、紀ノ川下流南岸の肥沃な平野が産出する農産物を元に繫栄し、その地に土着しながら勢力を伸ばしたとされる。

尾根筋に造られる古墳群

 5世紀代、平地に大型前方後円墳を主体として淡輪古墳群や木ノ本古墳群を築造したことに代わって、山地尾根筋に古墳群を成したのは、紀ノ川北岸の大谷古墳をはじめとする晒山古墳群、南岸の花山古墳群や大谷山古墳群であり、5世紀末から6世紀にかけてであった。大規模から中・小規模へ、平地から山地尾根筋へというふうに古墳形成の変化することは、埋葬される首長の活動、支配地の形態が変わってきたことを物語っているのではないか。その古墳群一つである岩橋千塚古墳群の西端に位置する大谷山古墳群を見ることで、紀直系紀氏の在り方がわかるのではないかと出かけてみた。

左:岩橋千塚古墳群 右:大日山・大谷山地区(紀伊風土記の丘VRツアーより) 

大谷山古墳群

 「和歌山県立紀伊風土記の丘」駐車場から岩橋千塚古墳群の西部、谷川の流れを堰き止めた大岩谷池の西側の山道を上って行く。地図上では、大谷山22号墳は大日山35号墳からの尾根筋北端部にあって、このまま登ればあるはずなのだが、何ら表示がない。この山道は元々神秀山金龍神社への参道で、古墳群への道ではないのだが、ともかく行くところまで行くことにする。途中、銀龍神、白龍神・黒龍神などの祠があり、登り詰めたところに金龍神社があった。小さいながらも威厳のある祠が備わっていて、地元の崇拝の篤さを感じる。大谷山22号墳、20号墳などは恐らく金龍神社とは反対側の尾根筋を行くのだろうと推測が付く。しかし、その道は背丈を超えるブッシュが覆っている。軽装なハイキング姿ではとても無理な登攀だろうから、引き返し別の道はないかと探すことにする。いったん大岩谷池まで降り、西に向きを変え大谷山北側の山裾沿いを歩く。地図では北から山道が伸びているのだが、そこは住宅開発の造成地になっていて、奥に山道への入口が見えるが、ここも背丈を超える草で覆われている。

上左:金龍神社参道入口 同右上:大岩谷池から見た大谷山〜大日山 同下:六地蔵尊 中右:金龍神社 中左:金龍神社への参道 下左:ブッシュに阻まれた山道 

紀直系紀氏の奥津城

左:大谷山全景 右:大谷山22号墳・16号墳・6号墳などの古墳群(紀伊風土記の丘VR ツアーより)

鳴神団地

 もうすっかり大谷山登攀はあきらめの心境で、大谷山古墳に眠るとされる紀直系紀氏、ないし紀国造家が代々治めた鳴神地域を見ていくことにする。山裾を西へさらに歩くと、「鳴神団地」なる看板が見え、昔よくあった平屋の市営住宅のような家が並んでいる。ほとんどの家は無住のようで、玄関扉に板が打ち付けられ、周りは草の生えるがままになっている。道路に面して「鳴神地区急傾斜地崩壊危険地域」の標識が立ち、その指定を受けた家が次々引っ越しているという事情だろう。よく見ると、その中でも何軒かはまだ住み続けているようだ。寂れていく町を見るのはちょっと悲しい、神も鳴いているに違いない。

上3点:大谷山北側山際の寂れゆく鳴神団地 下左:急傾斜地崩壊危険地域の標識 同右:道路を隔てて坂下の鳴神団地

鳴神地区

 大日山を西側に回りかけたところに鳴神団地集会所があり、その辺りから西へ、鳴神地区へ入って行く。今ではすっかり市街地に開発されているが、古代、特に古墳時代の足跡がないか探してみる。新興の住宅街を抜ける 阪和道の高架が横切るが、それを潜るとまだ田んぼが残っている。豊かな水量で流れる用水路が縦横に通っていて、水稲が青々と育っている。あと一月もすると刈り入れの時期を迎えることだろう。そんな中に木々で囲まれた広場があり、その向こうに鳴神社がある。名草郡の治水のために水門神である速秋津日古(あきつひこ)命を祀るよう託宣があり、それによって祀られたのが鳴神社の創建であるという(『紀伊名所図会』)。道を挟んで鳴武神社があるが、説明板によれば、5世紀ころの創建と伝えられる。つまり、古墳時代には水路が整備されていて、水田等の耕作地が広がっていたということになる。

上左:大谷山・大日山をバックにした鳴神地区の市街地 上右:大谷山の西側山裾 同下:阪和自動車道の高架が見える 中左上:鳴武神社 同左下・右:鳴神社 下右:宮井用水(新溝水路)の水路 

 現在、鳴神遺跡Ⅰ〜Ⅵとされている場所は、大門川から南へ、岩橋山塊の西側一帯の広大な地域にまたがっている。その発掘現場では、古墳時代前期の古墳やおびただしい数の水田跡や水路跡が見つかった。花山の西裾には、紀ノ川から引いた宮井川の水を大門川と宮井用水に分配する音浦の樋があり、音浦遺跡として発掘された。宮井用水は現役で使用されていて、その一つが現在の新溝水路で、鳴神社辺りの田んぼを潤している。宮井用水は、かつて日前宮の神領の用水であり、弥生時代末〜古墳時代初めに日前宮の紀氏によって開削された。

秋月遺跡

 鳴神地区から対向4車線の県道を渡ると秋月という地名になるが、落ち着いた住宅街である。ただ道路周辺はドライブイン系の大型店舗が立ちつつあり、近い将来町並みも大きく変わることだろう。すぐに日新中学校が見えてくるが、この辺りから西一帯が秋月遺跡地域で、弥生時代前期から中世まで続く集落があった複合遺跡であった。特に日前宮の西側にある向陽高校では、前方後円墳1基・円墳3基・方墳8基の計12基が確認されている。唯一の前方後円墳は、県内最大の全長26.8mで古墳時代前期築造のもの。県内最古級の前方後円墳だが、岩橋千塚古墳群に先行して長期間に渡って営造されており、紀直系紀氏や紀国造家として認められる以前の、いわばプロト紀氏とも考えられる一族が活躍していたのだろう。(探検日:2023.9.7)

上左:日進中学校 同右上:鳴神の町並 同下:4車線の県道 下左上:秋月遺跡の地図 同右:向陽高校

日前宮

上:日前宮 下左:日前神宮 同右:国懸神宮

 日前宮は七五三参り真っ盛りで、待合所のテントがいくつも立っている。その脇を抜け、うっそうと茂る森の中の参道を行き、まず東の国懸神宮、次に西の日前神宮にお参りする。なぜ二つの神宮が同等に配置されているのか、と考えるに、伊勢神宮の内宮、外宮に習っている、というか張り合っているということだろうか。プロト紀氏、また同氏と神宮との関係など、この大きな神社を掘り返せばさらに重要な遺跡が発見されるだろうが、創建2600余年、天照大神をお慰めしたことから始まる由緒があるため、弥生期や古墳時代の遺物が発見されたら一大事になるのだろう。

水路網を見る

 帰りは日前宮を囲む用水路伝いに歩いて、日前宮北側を走る宮街道を越えて、用水路の様子を見に行った。地図で見るとこの地域の町割りはぐにゃぐにゃで、恐らく田畑の敷地ごとに小住宅が建てられていったのだろう。ぐにゃぐにゃと曲がるのは、田畑に水を供給する用水路だったからに違いない。弥生期から中世、近世を通じて用水路が発達していた証拠だが、毛細血管のように水路が張り巡らされていたのだ。すっかり住宅地になっても大門川と太田用水路と呼ばれる水路が残っているが、世にも珍しい水路景観を残している。

上:大門川からの用水路が住宅の間を蛇行しながら走る 中左:日前宮北側の宮街道 同中・右:秋月地区にある稲田 下左:鳴神Ⅴ遺跡近くの水路と稲田

太田・黒田遺跡

 鳴神遺跡の西方、太田・黒田遺跡などについては、別の日にJR和歌山駅から始まるルートで古代史探検をしている。

左:黒田・太田遺跡周辺文化財マップ 右上:JR和歌山駅東口に立つ黒田・太田遺跡説明板 右下:主人に忠実だが攻撃的な性格の紀州犬(地下街にある銅像)

 縄文早期には和歌山平野全体は海で、4000年くらい前から干潟へと移り、人が住み始めたのは弥生前期、2400年ほど前からという。JR和歌山駅東側一帯は太田・黒田遺跡と言われ、弥生時代中頃の遺跡として、水田跡、大溝跡、大型掘立柱建物跡、銅鐸出土跡などが発掘されている。駅近くの西側の低い所に水田、比較的高い東側を居住地とし、その間には水路や溝が掘られて、水田域と居住域がはっきり分けられていた。和歌山駅周辺は区画整理をされた完全な市街地で、弥生期の史跡は何もなく想像するしかないのだが、個々の史跡の場所には説明板が立っている。わかやま歴史館でもらった「太田・黒田遺跡周辺文化財マップ」と連動していて、マップを見ながら歩いていると、エンジの帯の入った説明板が町のあちこちに立っていて、史跡の良い目印になった。そんなこんなを写真で拾っていくと・・・・・・。

上右:弥生時代前期の大溝遺跡 下:和歌山駅前の水田跡

太田城跡

 この弥生時代の居住地遺跡の南半分の地域に、戦国時代の城郭、秀吉の水攻めで有名な太田城の遺跡が重なる。室町時代に集落が形成され、その後城塞化したと見られるが、東西450m、南北350mの規模があったという。本丸跡だという来迎寺、水攻め時に戦死した武将の首を葬った小山塚、屋敷跡、北側の堀跡、それに太田城水攻めの際に築かれた堤やその土取り穴などが史跡として表示されている。

上左:太田城跡だった来迎寺 同左下:太田城水攻遺跡・小山塚 中左上・同右:太田城跡の屋敷地 同左下・下左:太田城の掘跡 同右:太田城毘沙門天

 豊臣秀吉の天下統一のため紀州征伐が行われたが、難攻不落の根来寺を落城させた後、太田城へ向けて攻撃を開始した。紀ノ川を渡河後、太田城からの待ち伏せがあり鉄砲隊と弓隊から攻撃され53名が討ち取られた。斥候隊の敗北により容易には攻め切れずとみて、水攻めに切り替えたと言われる。紀ノ川の水をせき止め、城から300m離れた周囲に堤防を築いた。堤防の高さは3~5m、幅30mで東の方は開け、6kmにも及んだと言う。

左:水攻め堤跡想定地と標高図 右:総光寺由来幷太田城水責図(部分)

水攻め堤

 水攻めの時の堤が一部残っているということなので見に行く。かなり北の方で太田小学校の少し北、出水地区。銀行の駐車場から堤跡の小山が見える。さらに東へ回り込み村中の道を行きアパートの間から、先ほどの続きになる堤を見ることができた。単なる草山だが、基底部の幅が31m、長さ45m、高さ5mを測る大規模なものだった。太田城跡からは500m離れていて、水に浸かる城はあたかも海に浮かぶ小島のようだったと言う。

上左・中左:太田城水攻め堤(新出水橋付近) 上右:大門川水路(太田小学校付近) 中左下・右:出水地域の町並、曲がる道は元水路だった? 下:太田城水攻め堤跡(出水63番地付近)

 勝手な推測だが、秀吉の黒田城水攻めには、宮井川から大門川、そこから各方面に伸びる古墳時代からの水路を活用して水攻めの用水を確保したのだろうか。この堤の残っている周辺地は当時のままだろうが、この標高は2.5m、黒田城のあった和歌山駅周辺は市街地造成で盛り土されてきただろうが、現在でも標高は3m程度で、4mあるところはない。一方、秋月、鳴神一帯は4m~5mあり、5m以上ある音浦遺跡の宮井用水分岐点から見ると、2~3m程度の落差がある。自然流下で水を流してもそんなに日にちをかけないで一帯は水浸しになるだろう。水攻めの堤が東側で口を開いているのはそのためで、2〜3mの標高差が自然堤防の役割を果たしていた、そのように見るのだがどうだろうか。

宮井川の経路・標高図。船戸(20m)で取水、小倉(13m)・和佐(8m)を経て音浦(5.5m)へ

 今は岩出市船戸の紀ノ川左岸(標高20m)から取水し、小倉(13m)、和佐(8m)を経て花山の北側(5.5m)を抜け、高速道路の下にある音浦分水から大門川や名草方面へと延びる3つの支流に分かる。鳴神から太田・黒田の水田地帯には、自然流下で水を行き渡せる地形的な有利な条件もあったと言える。

 数年前に訪れた備中高松城も秀吉により水攻めされた。2.7kmの堤防を築き、足守川の水を引き入れ湖の弧城にされてしまった。ここまでされたら城を明け渡すしかなかったろう。黒田官兵衛の仕業だが、天下統一とは言え、秀吉はあちこちで酷いことをしている。(探検日:2022.10.20)

鳴神貝塚

 鳴神遺跡の地域を回ってきたが、古墳時代の足跡など今は見る影もなかった。しかし、水路が縦横に張り巡らされた土地の様子から、実り豊かな土地であったことが想像され、この生産力を源に大きな権力を持つ一族が現れるのは当然だと実感した。宮街道に戻り、また風土記の丘公園の駐車場へと向かうのであるが、阪和道の高速高架の手前に花山温泉の大きな看板が目に入る。近づいて行くと、その下に鳴神貝塚の説明板が見える。古墳時代の初期、4世紀末に最初の古墳を造り出したのが花山だとされるが、その西側の山裾の丘陵地に貝塚が形成された。南北100m東西130mの範囲に広がる大規模な貝塚で、縄文時代早期から晩期にかけて貝層があり、断続的に長い期間続いた大規模の村があったと見られる。ハマグチ、ヤマトシジミ、マガキなどの貝殻、タイやアジ、エイなどの魚の骨、シカやイノシシなどの動物の骨も見つかっている。鳴神貝塚が始まった約7000年前は縄文海進の頃で内陸まで海が入り込み、この花山の西側まで海岸が迫っていた。海の幸山の幸が豊富に採れ、人々は豊かに暮らしていたに違いはない。またシャーマンと見られる女性の人骨も見つかっていて、政が行われる大きな村組織があったとみられる。

上左上:宮街道 同下:縄文時代、和歌山平野の大部分が海だった 上右:鳴神貝塚石碑 下右:鳴神貝塚は花山麓の台地上にあった

 時代が戻ってしまったが、太古よりこの地は天然の産物が豊かに採れる暮らしやすいところであったに違いない。そんな感慨をもって、ひとまず紀氏の地を離れるのだった。(探検日:2023.9.7)

投稿者:

phk48176

古市古墳群まで自転車で10分、近つ飛鳥博物館まで車で15分という羽曳野市某所に住む古代史ファンです。博物館主催の展示、講演会、講座が私の考古学知識の源、それを足で確かめる探検が最大の楽しみ。大和、摂津、河内の歴史の舞台をあちこち訪ねてフェイスブックにアップします。それら書き散らしていたものを今回「生駒西麓」としてブブログにします。いろいろな意見をいただければ嬉しいです。

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(3)件のコメント

  1. 大野 治

    古市大溝を探るのシリーズを興味深く拝読しました。
    私は現在、「古代古墳の謎」と題した本を執筆しています。
    それで「石川取水口を見つける」の箇所の分を引用させて頂きたいと考えています。
    ついてはお名前を教えて頂けませんでしょうか。

    1. phk48176

      大野さま
      コメントありがとうございます。引用していただいても結構ですが、どの部分なのかお知らせください。当方の名は、きたつじみのる(ブログ提供者名)ですが、北辻稔と申します。よろしくお願いします。

  2. 大野 治

    失礼しました。文章に一部誤りがありましたので訂正させて頂きます。

    古市大溝を探るのシリーズを興味深く拝読しました。
    私は現在、「古代古墳の謎」と題した本を執筆しています。
    それで「石川取水口を見つける」の箇所の一部の文章を引用させて頂きたいと考えています。
    ついてはお名前を教えて頂けませんでしょうか。

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