紀氏には2系統があり、紀ノ川下流域北岸に勢力を持ち、後に本拠地を大和に移し中央氏族になる紀臣(きのおみ)系と、在地の首長として勢力を張る紀直(きのあたい)系に別れる。紀直系紀氏は紀ノ川下流域南岸、JR和歌山駅から東方、水路網でつながる集落群の鳴神遺跡、秋月遺跡などを拠点に活躍した一族だが、今回は、その奥津城(おくつき)である、鳴神地域の東側・岩橋山塊全体に点在する古墳群を探検したいと思う。5世紀から7世紀の各時代において、首長墓を核に同族の墓がその周辺に集中して、山肌一面に墳墓を造るという、この地独特の古墳築造方法に興味が募る。真夏のさなか、古墳まみれの一日を過ごしたのである。


左:紀伊風土記の丘への遊歩道には発掘された埴輪のレプリカが並べられ、訪問者を迎えてくれる。右:今回の探検ルートと訪れた主な古墳
紀伊風土記の丘資料館
岩橋千塚古墳群の予備知識をつけるために、先ずは古墳群から出土した遺物を展示する資料館を見学。日本初例という飛ぶ鳥形埴輪が迎えてくれる。翼を広げた鳥埴輪が4羽、大日山35号墳で見つかっている。クチバシが小さく、目が大きく、なんとなく可愛さもある。両面人物埴輪、目が大きく口を開いている面と、少しつり目で三口のちょっと怖い表情の両面があり、霊力を持つ人物を表わしているという。そういう人物や動物、武器、道具など、さまざまな埴輪が出土していることでも有名な古墳群である。








上左:大日山35号墳で出土した鳥型埴輪 中左上:同馬 同下・同右・下左:両面人物埴輪 同右:力士
岩橋千塚古墳群は標高15〜150m、東西3km、南北2.5kmの岩橋丘陵の広範囲に展開する。4世期末から7世までの古墳があり、前方後円墳15基、帆立貝形9基、方墳3基、円墳など517基が確認されている。埋葬主体部は竪穴式石室76基、横穴式石室234基などがある。
「風土記の丘」は良き散歩コース
一通り前知識を畳み込んで外へ出るが、それにしても暑い!雑木林が続く涼しげな山道を登りながら、古墳群に分け入って行く。あちこちにポコンとした土盛りが見えるが、それらは古墳だと推測できる。戦前、燃料調達ですっかり樹木が切り倒され、裸の山肌が剥き出しになった写真があるが、稜線には前方後円墳などの大古墳、尾根筋に円墳を主体に無数の古墳が並ぶのが見て取れる。その中で、岩橋前山A地区、B地区と大日山地区が「紀伊風土記の丘」として整備されている。地元の人達の散歩コースで、麓の駐車場に車を止めて、たくさんの人が山上へ向けて歩いていく。私のようにブラブラ古墳巡りをしている人は、この暑い中、いない。




上左:快適な散歩道でもある 同右上:岩橋千塚の史跡碑 同下:伐採された戦後すぐの前山A・B地区(「岩橋千塚古墳群」(新泉社より)) 下:岩橋千塚古墳群の全体図
前山A地区の古墳(13・23・32・46)
さて、前山A地区には円墳を中心に径14〜18mの円墳が密集しており、ここ特有の石梁や石棚を持つ横穴式石室を持つものが多い。ほとんどの石室に入ることができて、入り口は狭いながらも高さがそこそこある。細かく積まれた石板が紀ノ川南岸で採れる結晶片岩で、あらゆる石室に使われている。板状に割れ、加工しやすく、竪穴式、横穴式、箱型、それぞれの石室の壁面と補強に用いられている。これらの板状の石を積み重ね少しずつ迫り出させながらドーム状空間を作り、空間が崩れないよう支えるのが梁であり棚である。
以前に訪れた奈良・平群の三里古墳にも石棚があったが、紀氏との関連がある。むしろ、紀氏は平群を本拠とするという説もあるが、私としては、大和川流域をも抑えるために分かれたのが平群の一族だと見るのだが・・・・・・。









上左下:前山A13号墳 同右:A13墳内部 中左・右:A23号墳内部と入り口 下左・中:A32号墳入り口と内部 同右:A32号墳上から、左に花山、紀ノ川下流域、和泉山脈が見渡せる
最初に見学したのは、6世紀前半築造の前山A13号墳、直径14m、高さ3.5mという標準的な大きさの円墳で、同様の円墳のA23号墳、 A24号墳が寄り集まっている。少し登ったところにあるのがA 32号墳で、径15mだが、稜線の端にあるため高さが5mもある円墳。標高は82mの眺めの良いところにあり、紀ノ川から花山丘陵から和泉山脈一帯が見通せる。
東側に外れ、奥に行くとA地区最大の前山A46号墳があるが、直径27m、高さ8mの円墳、その中に長さ8.5mの横穴式石室があり、玄室は長さ3.3m、幅2.1m、高さ3.2mの規模で、人が十分に立てる広さがあり、石棚1枚と4本の石梁が壁面を支えている。羨門には床に板石が据えられ、側壁の上部に板石が懸けられているが、この石室規模は前方後円墳に匹敵するという。墳丘上から新羅系陶質土器の高杯が4個発見されたが、被葬者は朝鮮半島と関わりのある人物と見られる。





上左上:A46号墳への山道 上下:前山A地区最大のA46号墳の外観および内部
円墳、方墳、前方後円墳、竪穴、横穴、箱式・・・
元のA 32号墳があったところに戻り、少し登ると開けた丘状の原っぱがあり、そこら中にさまざまな形の小さな古墳が点在している。円墳を主体に方墳、前方後円墳など、また石室も横穴式、竪穴式、箱式石棺などバラバラに混在している。竪穴式には2種類あり、細かな石を積み上げて石棺を作るのと、大きめの石板で周囲を囲む箱型石棺があるが、これらは古く5世紀後半から6世紀にかけての築造だ。それらの古墳を作った人たちも6世紀に入ると横穴式石室のある円墳を作るようになるが、同じ一族が長い年月をかけ、代々この場所に葬られてきたと見られる。その中でもA108号、A111号は一辺10m程度の方墳、木立が生える丘の上にあるA100号は径9m、高さ1.8mの円墳状(方墳?)で、1.9m×0.4mの箱式石棺があった。その上方に径12m、高さ3mのA 99号墳の円墳があり、中に全長3.5mの横穴式石室が設けられている、というようにさまざまなタイプの墳墓が隣接している。








上左:方墳のA108号墳 上右:A111号墳 木立が生える墳丘を眺める 中左:A100号墳の箱式石棺 同下:A99号墳 同右:A99 号墳の入り口 下左:A99号墳の内部
小型の前方後円墳・A58号墳
少し降ったところに、6世紀前半の築造と見られるA58号墳の小型前方後円墳があり、発掘された埴輪のレプリカを周囲に並べられて墳丘が復元されている。全長19.6m、前方部が1段、後円部2段の構造で、墳丘上全体に円筒、朝顔型、石見型、前方部頂には馬形、人物などの埴輪が並べられ、東側のくびれには須恵器大壺が置かれている。ここからの眺めも良く、紀ノ川に沿った地域が一望できる。これが出来立ての形だとするなら、古墳が小さく埴輪が大きく見えて、何やらオモチャめいて楽しい雰囲気がある。





上左:A58号墳前方部の埴輪列 上右:くびれ部に須恵器の大甕 下右:墳上からは紀ノ川下流部が視野に入る
A67号墳は 直径27m、高さ6mでA46号墳と並ぶ大きな円墳だが、石室入り口が崩れかけているので見学できない。周辺には、直径17mの円墳A65号墳、直径13mの円墳A56号墳など、これを中心に一族の古墳が密集している。これより上方には古墳群は見かけなく、稜線向けて登っていくと、時折谷風が吹いて爽快でもある。







上:A67号墳 上左:A67号墳の崩れかけた入口 中左:A67号墳 下左:A65号墳の竪穴石棺 下右:山稜への山道には涼しい風が吹く
羨道と玄室がT字形のA2号墳
稜線道に入り将軍塚をめざすが、途中、稜線脇にA2号墳がある。直径10mで小型の横穴式石室を持つが、死者を葬る玄室と通路である羨道がT字形をしており、その様子をガラス張りの天井から見ることができる。日光が入るので背の高い草で覆われているが、その形はよく分かる。人が一人通れるかどうかの狭い通路で、石などを運び込むには苦労しただろうに。





上右:山稜の道 同下:A2号墳への道 下左:ガラス越しに見えるA2号墳の内部 同下:発掘時の写真。手前の横長の玄室と羨道がT字に交わる



現実の風景と展望案内板(上:稜線から南方へ、名草山が見える 下:北方、紀ノ川下流域と和泉山脈)
将軍塚古墳
前山B地区の最高地は標高140mくらいだが、そこに将軍塚古墳が造られていて、北も南も一望できる絶好のロケーションにある。長さ42.5mの前方後円墳でB地区では最大の大きさ。前方部と後円部の南側に入り口を持つ横穴式石室があり、後円部の石室が公開されている。玄室の長さ3.3m、高さ4.3mもあり、石棚1枚、石梁1本だが、ともに大きい。巨大な玄室は切り揃えられた結晶片岩が精密に積み上げられ大空間を作っている。この古墳群の中では、最も発達した石室と見られる。玄室奥に屍を乗せたらしい板石も残る。入り口付近にある電源のスイッチを押すと石室内に明かりが灯り、1〜2分程度灯っていて、その間に見学を終える、ということになるが、2回スイッチを押して見学した。





上左:将軍塚古墳の外観 上右:石室前の羨道 下:頑丈に造られた巨大な石室内部 下右:屍を乗せたらしい板石
なお、前山A地区より東方の和佐地区には岩橋丘陵の最高地(標高155m)に、墳長88mの前方後円墳・天王塚古墳がある。日本で2番目、5.9mの高さがある玄室を持ち、左右対称の均整のとれた形をしている。岩橋型横穴式石室の構築技術の到達点を示すとされる。数は少ないが周辺にいくつか古墳が集まり、一つの首長時代を成したとみられる。一山越える遠いところにあり、残念ながら、今回の見学コースには入っていない。
大日山35号墳
岩橋丘陵の尾根筋をさらに行くと、最西端に墳長86mの前方後円墳である大日山 35号墳がある。墳丘は総長105mの盾形基壇に乗る形になり、全景としては一つの山と見ることもできる大きさである。くびれ部の造出しには、資料館で見た飛ぶ姿の鳥を始め、力士、巫女などの人物、さらに馬、牛、猪、犬、水鳥などの動物、靫、太刀といった武器、家形の埴輪などがザクザクと出てきたが、それらのレプリカを現地で復元展示されている。先ほどの小ぶりの前方後円墳・A 58号墳でもそうだったが、埴輪が並ぶと賑やかで、祭りごとのような楽しいイメージがある。大規模な古墳を見る時、権力ある者が眠るという孤高さを誇り、幻想的だとするイメージを抱きがちだが、この古墳のように埴輪が並ぶ風景を前にすると、皆んなで見送ろうとする和気あいあいとした、微笑ましさもあるようなイメージになると思うが、どうだろうか?

上左:大日山35号墳の墳頂、後円部から前方部を見る 同右下:前方部基壇からの全景 下左上:東側の造り出しから全景 同下:力士と飛ぶ鳥の埴輪 下右:東側造り出しに様々な埴輪が再現されている
移動する首長の墳墓
古墳群周辺マップにある古墳はざっと回ってきたのだが、全体で7.5km、約7時間かかった。しかし、古墳群全体からいって、ほんの4分の1程度しか見ていない。この岩橋千塚古墳群が形成されていった順序として、4世期末から5世紀末にかけて鳴神遺跡に面した花山地区で始まり、その後6世紀初めに大谷山、6世紀を通じて大日山と前山B地区へ、6世紀後半から天王塚のある和佐地区へと東部に移り、その後は岩橋山陵南斜面の寺内地区のある西部に返っていく。今回主に回った前山A地区はこの展開とは違って、5世紀中頃〜7世紀初頭に独自な展開をしていく。いくつかの墳墓で発掘された須恵器などから朝鮮半島からの渡来人の墓が集まっているのではないか、と推測されている。

紀直系および国造家紀氏の首長墓の変遷
このように、時代ごと、一族ごとにまとまる古墳群を形成し、最も高い所に首長墓を据え、その周辺に部下である同族の墳墓を配置していくというスタイルを取っている。順に追っていくと、全時代の墳墓が見られるわけだが、このまとまりの良さは紀直系、後の紀国造家の集団としてのあり方を表していると言える。
大日山35号墳上から見た紀ノ川下流域の全景。海岸辺りから和泉山脈山麓まで
紀ノ川下流域南岸は、鳴神遺跡で見られるように、水路網が行き渡る紀伊地域最大の穀倉地帯で、そこからの豊穣な農産物を元に安定的に暮らしてきた地域であった。また、大和の中央政権とは距離を隔てた地方にあり、大きな争いはなく、順当に政権が引き継がれていったことを物語っている。(探検日:2020.8.16)
紀ノ川下流域北岸の紀臣系紀氏が制海権を元にいち早く中央政権と関係を結び、本拠地を大和に移し中央氏族になる皇別氏族として発展していくのに対し、南岸の紀直系紀氏は在地の首長として、日前宮の歴代宮司を継承していくような神別氏族として発展していく。紀氏が中央政権とはつかず離れずの関係を保持しながら、自然の産物とともに発展していく姿は、近世、近代の紀州・和歌山についても共通しているように思う。このような歴史を通じて変わらずにある原点が、古代の紀ノ国にあったことを方々歩き回って実感したのだった。これで、紀氏の足跡を訪ねる旅を終えたいと思う。
ありがとうございます。又何回も折りに触れて鑑賞?読ませて頂きます。
いつもありがとうございます。最初に訪れた暑いころのことを思い出しながら、書いておりました。その後、淡輪や木ノ本古墳群、大谷古墳、鳴神遺跡など訪れ、岩橋千塚古墳群のことについて新しい認識を得たこともたくさんありました。やっぱ、歩かなあかんな、と再認識した次第です。